昨日から読み始めた本、『まどろみの海へ』(堀江誠二著・PHP研究所・2006年)だが、

ただならぬ本である。
「はじめに」を主治医だった佐藤俊氏が書いておられる。
4ページのうちの1ページ目をお読みください。
←二段階クリック。
こんな立派な人が、すぐ近くにおられたとは!
でも、この著者、堀江さんはこの用海地域に引っ越してこられた丁度そのころに体調を崩し、
その数か月後に入院し、末期がんを宣告され、その5か月後にはお亡くなりになっている。
ということで、お会いできなかったのも致し方なかったということ。
しかし見事な最晩年というほかない。
今、三分の一ほど読んだところだが、すぐに読み切ってしまうだろう。

ただならぬ本である。
「はじめに」を主治医だった佐藤俊氏が書いておられる。
4ページのうちの1ページ目をお読みください。

こんな立派な人が、すぐ近くにおられたとは!
でも、この著者、堀江さんはこの用海地域に引っ越してこられた丁度そのころに体調を崩し、
その数か月後に入院し、末期がんを宣告され、その5か月後にはお亡くなりになっている。
ということで、お会いできなかったのも致し方なかったということ。
しかし見事な最晩年というほかない。
今、三分の一ほど読んだところだが、すぐに読み切ってしまうだろう。
地域のバスツアーで京都方面へ行っていた家内が帰ってきて話すには、
バスで隣り合って仲良くなったご婦人のご主人(故人)が著書を出しておられて、と。
それで、わたしの『触媒のうた』とトレードすることになり、
持って帰ってきたのがこれ。
まず『まどろみの海へ』を読み始めたのだが、読みやすい。
すぐにこれはプロの文章だと思った。
それで「堀江誠二」をワード検索してみた。
そしたらやはり多くの著書があり、ひとかどの人物だった。
こんな近くにそんな人がおられたなんて。
もっと早くに知ってお近づきになりたかった。
バスで隣り合って仲良くなったご婦人のご主人(故人)が著書を出しておられて、と。
それで、わたしの『触媒のうた』とトレードすることになり、
持って帰ってきたのがこれ。

まず『まどろみの海へ』を読み始めたのだが、読みやすい。
すぐにこれはプロの文章だと思った。
それで「堀江誠二」をワード検索してみた。
そしたらやはり多くの著書があり、ひとかどの人物だった。
こんな近くにそんな人がおられたなんて。
もっと早くに知ってお近づきになりたかった。
わたしの日記帳は昔からごく普通のB版大学ノートである。
今日、古い記録を調べるのに20年ほど前のノートを触っていた。
ノートの間にはいろんな資料や切り抜きが挟まっている。
それを見だすと時間が取られてしまって大変なのだが、つい読んでしまったりする。
そんな中に今日も編集工房ノアの涸沢さんが朝日新聞に登場しておられるものがあって、読んでしまった。
「足立さんの文章 受け継ぎたい精神」と題されている。1999年6月22日付。読まぬわけにはいかない。
読みたい人、「喫茶・輪」に来てください。涸沢さんのお若い写真が載ってます。
それとは別に、写真も挟まっている。
これも裏に1999年とある。西宮市民会館でのもの。

これも若いなあ。
しかし何をやっているんだろう。
若いころはいろんな司会を仰せつかったが、これは覚えがない。
多分、詩の朗読なのでしょうねえ。
古い資料を触ると、時間を食ってしようがない。
今日、古い記録を調べるのに20年ほど前のノートを触っていた。
ノートの間にはいろんな資料や切り抜きが挟まっている。
それを見だすと時間が取られてしまって大変なのだが、つい読んでしまったりする。
そんな中に今日も編集工房ノアの涸沢さんが朝日新聞に登場しておられるものがあって、読んでしまった。
「足立さんの文章 受け継ぎたい精神」と題されている。1999年6月22日付。読まぬわけにはいかない。
読みたい人、「喫茶・輪」に来てください。涸沢さんのお若い写真が載ってます。
それとは別に、写真も挟まっている。
これも裏に1999年とある。西宮市民会館でのもの。

これも若いなあ。
しかし何をやっているんだろう。
若いころはいろんな司会を仰せつかったが、これは覚えがない。
多分、詩の朗読なのでしょうねえ。
古い資料を触ると、時間を食ってしようがない。
2月18日の夜、テレビを何気なく見ていたら「四角い太陽」という文字が!
「四角い太陽」といえば、菅原洸人画伯の自伝だ。
感動的な人生が書かれていて、広く読まれてほしい本だ。
故に「四角い太陽」といえば菅原画伯の専売特許だと思っていたのだが、実際に見ることができるとは!
ああ驚いた。

「四角い太陽」といえば、菅原洸人画伯の自伝だ。
感動的な人生が書かれていて、広く読まれてほしい本だ。
故に「四角い太陽」といえば菅原画伯の専売特許だと思っていたのだが、実際に見ることができるとは!
ああ驚いた。
先日インタビュー取材させていただいたM川さんに昨日、草稿をFAXしておいたのだが、今日、お見えになった。
少し修正してほしいとのことで。
それとは別にM川さん、「将棋をしませんか?」と。
将棋盤と駒をお持ちになってこられた。

その盤駒セット、「使ってもらえれば」とプレゼントしてくださった。
盤は三寸で、それほど上等ではないが、駒は高級彫り駒です。
50年ほども昔に、何かの大会で賞品にもらったものだと。
よく使いこまれている。
そして、今の駒より少し薄く仕上げられていて、指し心地がいい。
将棋だが、M川さんは中飛車。わたしは居飛車で、中盤、ちょっとした隙をつかれて少し作戦負けかな?と思ったが、
なんとかいい勝負で終盤へ。
しかし結局はわたしの攻めが切れて投了。
さすがに五段、受けが強かった。
少し修正してほしいとのことで。
それとは別にM川さん、「将棋をしませんか?」と。
将棋盤と駒をお持ちになってこられた。

その盤駒セット、「使ってもらえれば」とプレゼントしてくださった。
盤は三寸で、それほど上等ではないが、駒は高級彫り駒です。
50年ほども昔に、何かの大会で賞品にもらったものだと。
よく使いこまれている。
そして、今の駒より少し薄く仕上げられていて、指し心地がいい。
将棋だが、M川さんは中飛車。わたしは居飛車で、中盤、ちょっとした隙をつかれて少し作戦負けかな?と思ったが、
なんとかいい勝負で終盤へ。
しかし結局はわたしの攻めが切れて投了。
さすがに五段、受けが強かった。
こんな物が出てきました。

米屋をしていた時に、年末にお得意さんにお配りした粗品です。
電話番号の局番がまだ一桁ですので大分古いものです。
いかにも「粗品」ですね。まだ日本が裕福になる以前の時代?
こんな安物の布巾でも台所で使われたのですね。
この後、お配りする粗品はタオルになりました。
うちは小さな米屋でしたので、用意したのは400枚までだったと思います。でも結構な出費ではありました。

米屋をしていた時に、年末にお得意さんにお配りした粗品です。
電話番号の局番がまだ一桁ですので大分古いものです。
いかにも「粗品」ですね。まだ日本が裕福になる以前の時代?
こんな安物の布巾でも台所で使われたのですね。
この後、お配りする粗品はタオルになりました。
うちは小さな米屋でしたので、用意したのは400枚までだったと思います。でも結構な出費ではありました。
西宮の地域情報誌「宮っ子」は、昭和54年10月に創刊されて以来、この1月号で356号となっています。
宮崎修二朗先生の指導の下発行されたのでした。
真ん中の見開きを含む4ページ(紙一枚裏表分)は、各地域の編集委員によってその地域の話題が編集されています。
ほぼ、小学校区に分かれていて、わたしの地域では「わがまち用海」というわけです。
創刊号からわたしにも編集委員の要請があったのですが、その直前に長男の幼稚園のPTA会長を引き受けていて、「人生初めてのことを、同時に二つはできませんので、しばらくご容赦を」と一応お断りしました。
しかしそれから間なしに再び要請があり、編集委員になってから、すでに40年近く経ってしまいました。
始めは若手だったのに、今や老残になってしまいました。
インタビュー取材をわたしが担当するようになってからも17年ほどになります。
初めは2002年、「タイムトラベル」というタイトルで、地域の古老の昔話を聞いて記事にするものでした。
その後、2005年2月より「わが町この人あり」のタイトルでの連載になりました。
当初は毎月発行(1,2月号は合併号なので年間11回)でしたが、2006年より隔月発行になっています。
で、「わが町この人あり」ですが、先日取材させていただいて、それが75回目です。
取材ノートも10冊目に入っています。
よく頑張ってきたものですが、いい勉強をさせていただいています。
宮崎修二朗先生の指導の下発行されたのでした。
真ん中の見開きを含む4ページ(紙一枚裏表分)は、各地域の編集委員によってその地域の話題が編集されています。
ほぼ、小学校区に分かれていて、わたしの地域では「わがまち用海」というわけです。
創刊号からわたしにも編集委員の要請があったのですが、その直前に長男の幼稚園のPTA会長を引き受けていて、「人生初めてのことを、同時に二つはできませんので、しばらくご容赦を」と一応お断りしました。
しかしそれから間なしに再び要請があり、編集委員になってから、すでに40年近く経ってしまいました。
始めは若手だったのに、今や老残になってしまいました。
インタビュー取材をわたしが担当するようになってからも17年ほどになります。
初めは2002年、「タイムトラベル」というタイトルで、地域の古老の昔話を聞いて記事にするものでした。
その後、2005年2月より「わが町この人あり」のタイトルでの連載になりました。
当初は毎月発行(1,2月号は合併号なので年間11回)でしたが、2006年より隔月発行になっています。
で、「わが町この人あり」ですが、先日取材させていただいて、それが75回目です。
取材ノートも10冊目に入っています。

よく頑張ってきたものですが、いい勉強をさせていただいています。
鳥取民藝美術館の尾崎さんからお贈り頂いた『鳥取が好きだ。』を読んでいて、オッと思った。
「因州和紙」の項だ。
←二段階クリック。
「鳥取の因州和紙」どこかで最近縁があったぞ、と思った。
思い出した。
一昨年「宮っ子」の「わが町この人あり」で取材させてもらった長谷川さんだ。
平成29年7月号。
お若いころ、東京まで紙すきの実演に行ったとのこと。
こうして話がつながると尚更興味が湧く。本を読む楽しさの一つである。

「因州和紙」の項だ。

「鳥取の因州和紙」どこかで最近縁があったぞ、と思った。
思い出した。
一昨年「宮っ子」の「わが町この人あり」で取材させてもらった長谷川さんだ。
平成29年7月号。
お若いころ、東京まで紙すきの実演に行ったとのこと。
こうして話がつながると尚更興味が湧く。本を読む楽しさの一つである。