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足立先生の跋文 5(終)

2015-01-31 14:14:16 | 宮崎修二朗翁
足立先生の跋文 5(終)

『神戸文学史夜話』によせて  足立巻一

① 宮崎修二朗さんと知りあったのは戦後まもないころで、おたがいに大阪の新興新聞の記者としてでしたから、交友はもう二十年になろうとしています。その二十年間、宮崎さんもわたしも当然、年をとり、生活も思想もずいぶんかわりました。しかし、宮崎さんのわたしに対する友情はすこしもかわっていません。たとえば、わたしのヘタな詩を戦後まっさきに写真入りでデカデカと新聞にかかげたのも宮崎さんですし、忍術をこっそりしらべているのを探知して東京の出版社に密告し、一端を発表させたのもかれです。こんな事例はいっぱいありますが、いままた、かれの労作に一文を書けと強要してやみません。このわたしとの交友関係にあらわれた宮崎さんの錯覚と一徹な行動とに、わたしはいつも詐偽をはたらいているような罪悪感におそわれるのですが、ちかごろでは、こんなに無条件で買いかぶってくれる友を得ることは、人生でそうザラにはないものだとわかりはじめてきましたし、かれの錯覚にも感謝し、かれのいいなりになることにしています。そして、そこに宮崎さんの人間性もよくあらわれているように思うのです。 つづく

② 宮崎さんは俊敏なジャーナリストです。そんな顔つきをしていますし、実際にそれだけの実績を持っています。しかし、根は無償の発掘者ではないかと思います。発掘者は山師ではありません。営々とガラクタを掘りつづけねばなりません。錯覚をおそれることなく、一片のガラクタにも愛情を持たないかぎり、発掘という営為も情熱も持続しません。おそらく、わたしもたまたまそのガラクタの一片として愛情をあたえられたのでしょう。じっさい、わたしのように、宮崎さんの周囲にはそのふしぎな友情を得たガラクタ――無名がじつに多いことをわたしは知っています。そんな宮崎さんだからこそ、地方文学史という無償の発掘作業を終生の仕事に選び、戦後一貫して推し進めてこられたのだと思います。 つづく

③ これは一種の〇〇〇〇(現在は差別語として使われない)のやることです。宮崎さんは大病をしているうちにふとこの仕事を思いついたと、いつかもらしていましたが、それはひとつの極限状況にそのひとの本質が顕示した例だと思います。そしてその実績はまず「文学の旅・兵庫県」(昭30)、ついで「ふるさとの文学」(昭32)「兵庫の民話」(昭35)などの著作となり、あるいは「兵庫県文学読本」、「古典と郷土」、「詩歌のふるさと」などの企画編集者として定着しましたが、しかもなお、その地方文学史発掘の作業をやめようとしません。それはおそらく、かれが死ぬまでつづくでしょう。わたしはこういう一徹ぶりがすきです。そんな性情はまた、富田砕花先生へのいちずな献身となってあらわれています。砕花先生に詩をみちびかれたひとりとして、宮崎さんにはその点でも深い感謝をささげるものです。 つづく

④ さて、宮崎さんの地方文学史についての考えと視点とは、この本のはじめに明確にしるされています。それはあたらしい文学史観であり、わたしはこれにまったく同意します。ただ、そのなかで著者は「すべてが点の羅列で、とぼしい材料のよせ集めだ」といってますが、これには注記を必要とします。その「とぼしい材料をよせ集める」のは、異常な情熱と意志との持続がなければできないということです。その材料はたいてい歴史から埋没し、散らばり、消え去っていたものです。図書館や古本屋を探せば出てくるといったシロモノではありません。発行部数のすくない同人誌や自費出版であることが多いからです。そして、それらは価値ないものとしてかつて流刑されたものです。しかも、宮崎さんはそれらにあたらしい価値を見つけ出そうとして、とぼしい時間をぬすんで忍耐強い探索をつづけたのです。これは常人にできる仕業ではありませんし、また、その集積は著者がいうように、「材料のよせ集め」ではけっしてありません。著者の謙譲にまどわされてはなりますまい。 つづく

⑤ わたしは『文学の旅・兵庫県』の出版記念会の夜の光景を忘れることができません。たくさんの賛辞をおくられて、やがて著者はあいさつに立ちましたが、途中で泣きだして絶句してしまったのです。それは片すみにいたわたしには、うつくしい人間の号泣のようにきこえました。それは著者が自分の営為に無償をしか賭けていなかったからでしょう。
 わたしはこの〇〇〇〇じみた、無償の発掘者をひとりの友として敬愛します。
(終)

以上が、宮崎翁の若き日の著書『神戸文学史夜話』によせられた足立巻一先生の跋文です。
このように心のこもった跋文をわたしはほかに知りません。お二人の間柄が素晴らしく清らかだったことがよく分かります。今、兵庫県の文人の間にこのような間柄の人をみかけることはありません。少なくともわたしは。
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足立先生の跋文 4

2015-01-31 11:50:19 | 宮崎修二朗翁
足立先生の跋文 4

『神戸文学史夜話』によせて  足立巻一

① 宮崎修二朗さんと知りあったのは戦後まもないころで、おたがいに大阪の新興新聞の記者としてでしたから、交友はもう二十年になろうとしています。その二十年間、宮崎さんもわたしも当然、年をとり、生活も思想もずいぶんかわりました。しかし、宮崎さんのわたしに対する友情はすこしもかわっていません。たとえば、わたしのヘタな詩を戦後まっさきに写真入りでデカデカと新聞にかかげたのも宮崎さんですし、忍術をこっそりしらべているのを探知して東京の出版社に密告し、一端を発表させたのもかれです。こんな事例はいっぱいありますが、いままた、かれの労作に一文を書けと強要してやみません。このわたしとの交友関係にあらわれた宮崎さんの錯覚と一徹な行動とに、わたしはいつも詐偽をはたらいているような罪悪感におそわれるのですが、ちかごろでは、こんなに無条件で買いかぶってくれる友を得ることは、人生でそうザラにはないものだとわかりはじめてきましたし、かれの錯覚にも感謝し、かれのいいなりになることにしています。そして、そこに宮崎さんの人間性もよくあらわれているように思うのです。 つづく

② 宮崎さんは俊敏なジャーナリストです。そんな顔つきをしていますし、実際にそれだけの実績を持っています。しかし、根は無償の発掘者ではないかと思います。発掘者は山師ではありません。営々とガラクタを掘りつづけねばなりません。錯覚をおそれることなく、一片のガラクタにも愛情を持たないかぎり、発掘という営為も情熱も持続しません。おそらく、わたしもたまたまそのガラクタの一片として愛情をあたえられたのでしょう。じっさい、わたしのように、宮崎さんの周囲にはそのふしぎな友情を得たガラクタ――無名がじつに多いことをわたしは知っています。そんな宮崎さんだからこそ、地方文学史という無償の発掘作業を終生の仕事に選び、戦後一貫して推し進めてこられたのだと思います。 つづく

③ これは一種の〇〇〇〇(現在は差別語として使われない)のやることです。宮崎さんは大病をしているうちにふとこの仕事を思いついたと、いつかもらしていましたが、それはひとつの極限状況にそのひとの本質が顕示した例だと思います。そしてその実績はまず「文学の旅・兵庫県」(昭30)、ついで「ふるさとの文学」(昭32)「兵庫の民話」(昭35)などの著作となり、あるいは「兵庫県文学読本」、「古典と郷土」、「詩歌のふるさと」などの企画編集者として定着しましたが、しかもなお、その地方文学史発掘の作業をやめようとしません。それはおそらく、かれが死ぬまでつづくでしょう。わたしはこういう一徹ぶりがすきです。そんな性情はまた、富田砕花先生へのいちずな献身となってあらわれています。砕花先生に詩をみちびかれたひとりとして、宮崎さんにはその点でも深い感謝をささげるものです。 つづく

④ さて、宮崎さんの地方文学史についての考えと視点とは、この本のはじめに明確にしるされています。それはあたらしい文学史観であり、わたしはこれにまったく同意します。ただ、そのなかで著者は「すべてが点の羅列で、とぼしい材料のよせ集めだ」といってますが、これには注記を必要とします。その「とぼしい材料をよせ集める」のは、異常な情熱と意志との持続がなければできないということです。その材料はたいてい歴史から埋没し、散らばり、消え去っていたものです。図書館や古本屋を探せば出てくるといったシロモノではありません。発行部数のすくない同人誌や自費出版であることが多いからです。そして、それらは価値ないものとしてかつて流刑されたものです。しかも、宮崎さんはそれらにあたらしい価値を見つけ出そうとして、とぼしい時間をぬすんで忍耐強い探索をつづけたのです。これは常人にできる仕業ではありませんし、また、その集積は著者がいうように、「材料のよせ集め」ではけっしてありません。著者の謙譲にまどわされてはなりますまい。 つづく

「著者の謙譲にまどわされてはなりますまい」に胸突かれます。さすが足立先生です。
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足立先生の跋文 3

2015-01-31 08:20:43 | 宮崎修二朗翁
足立先生の跋文 3

『神戸文学史夜話』によせて  足立巻一

① 宮崎修二朗さんと知りあったのは戦後まもないころで、おたがいに大阪の新興新聞の記者としてでしたから、交友はもう二十年になろうとしています。その二十年間、宮崎さんもわたしも当然、年をとり、生活も思想もずいぶんかわりました。しかし、宮崎さんのわたしに対する友情はすこしもかわっていません。たとえば、わたしのヘタな詩を戦後まっさきに写真入りでデカデカと新聞にかかげたのも宮崎さんですし、忍術をこっそりしらべているのを探知して東京の出版社に密告し、一端を発表させたのもかれです。こんな事例はいっぱいありますが、いままた、かれの労作に一文を書けと強要してやみません。このわたしとの交友関係にあらわれた宮崎さんの錯覚と一徹な行動とに、わたしはいつも詐偽をはたらいているような罪悪感におそわれるのですが、ちかごろでは、こんなに無条件で買いかぶってくれる友を得ることは、人生でそうザラにはないものだとわかりはじめてきましたし、かれの錯覚にも感謝し、かれのいいなりになることにしています。そして、そこに宮崎さんの人間性もよくあらわれているように思うのです。 つづく

② 宮崎さんは俊敏なジャーナリストです。そんな顔つきをしていますし、実際にそれだけの実績を持っています。しかし、根は無償の発掘者ではないかと思います。発掘者は山師ではありません。営々とガラクタを掘りつづけねばなりません。錯覚をおそれることなく、一片のガラクタにも愛情を持たないかぎり、発掘という営為も情熱も持続しません。おそらく、わたしもたまたまそのガラクタの一片として愛情をあたえられたのでしょう。じっさい、わたしのように、宮崎さんの周囲にはそのふしぎな友情を得たガラクタ――無名がじつに多いことをわたしは知っています。そんな宮崎さんだからこそ、地方文学史という無償の発掘作業を終生の仕事に選び、戦後一貫して推し進めてこられたのだと思います。 つづく

③ これは一種の〇〇〇〇(現在は差別語として使われない)のやることです。宮崎さんは大病をしているうちにふとこの仕事を思いついたと、いつかもらしていましたが、それはひとつの極限状況にそのひとの本質が顕示した例だと思います。そしてその実績はまず「文学の旅・兵庫県」(昭30)、ついで「ふるさとの文学」(昭32)「兵庫の民話」(昭35)などの著作となり、あるいは「兵庫県文学読本」、「古典と郷土」、「詩歌のふるさと」などの企画編集者として定着しましたが、しかもなお、その地方文学史発掘の作業をやめようとしません。それはおそらく、かれが死ぬまでつづくでしょう。わたしはこういう一徹ぶりがすきです。そんな性情はまた、富田砕花先生へのいちずな献身となってあらわれています。砕花先生に詩をみちびかれたひとりとして、宮崎さんにはその点でも深い感謝をささげるものです。 つづく

ここに「それはおそらく、かれが死ぬまでつづくでしょう」とあります。50年も前に足立先生は予言しておられます。その通り今も宮崎翁は、毎日机の前で研究に余念がありません。わたしは頭を垂れるほかありません。
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足立先生の跋文 2

2015-01-30 20:20:08 | 宮崎修二朗翁

『神戸文学史夜話』によせて  足立巻一
① 宮崎修二朗さんと知りあったのは戦後まもないころで、おたがいに大阪の新興新聞の記者としてでしたから、交友はもう二十年になろうとしています。その二十年間、宮崎さんもわたしも当然、年をとり、生活も思想もずいぶんかわりました。しかし、宮崎さんのわたしに対する友情はすこしもかわっていません。たとえば、わたしのヘタな詩を戦後まっさきに写真入りでデカデカと新聞にかかげたのも宮崎さんですし、忍術をこっそりしらべているのを探知して東京の出版社に密告し、一端を発表させたのもかれです。こんな事例はいっぱいありますが、いままた、かれの労作に一文を書けと強要してやみません。このわたしとの交友関係にあらわれた宮崎さんの錯覚と一徹な行動とに、わたしはいつも詐偽をはたらいているような罪悪感におそわれるのですが、ちかごろでは、こんなに無条件で買いかぶってくれる友を得ることは、人生でそうザラにはないものだとわかりはじめてきましたし、かれの錯覚にも感謝し、かれのいいなりになることにしています。そして、そこに宮崎さんの人間性もよくあらわれているように思うのです。 つづく


承前
② 宮崎さんは俊敏なジャーナリストです。そんな顔つきをしていますし、実際にそれだけの実績を持っています。しかし、根は無償の発掘者ではないかと思います。発掘者は山師ではありません。営々とガラクタを掘りつづけねばなりません。錯覚をおそれることなく、一片のガラクタにも愛情を持たないかぎり、発掘という営為も情熱も持続しません。おそらく、わたしもたまたまそのガラクタの一片として愛情をあたえられたのでしょう。じっさい、わたしのように、宮崎さんの周囲にはそのふしぎな友情を得たガラクタ――無名がじつに多いことをわたしは知っています。そんな宮崎さんだからこそ、地方文学史という無償の発掘作業を終生の仕事に選び、戦後一貫して推し進めてこられたのだと思います。 つづく

93歳の宮崎翁は今も、『環状彷徨』の加筆訂正を続けておられます。ここで足立先生が「終生の仕事…」と書いておられる通りのことが、50年後の今も続いているわけで…。
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足立先生の跋文

2015-01-30 18:15:36 | 宮崎修二朗翁
タイトルを「足立先生の跋文」としました。
けど、カテゴリーは「宮崎修二朗翁」に入れました。
その理由はこの後お読み頂ければお解かり頂けます。

宮崎修二朗翁の著書に『神戸文学史夜話』というのがあります。


昭和39年発行です。
これの跋文を足立巻一先生が書いておられます。
わたしのこの拙いブログを毎日読んで下さっている人に、一度その文章を読んで頂きたく、ここに転載します。
一度には大変なので、何回かに分けて。
足立先生、渾身の跋文だと思います。
わたしがなぜ、宮崎翁を畏敬し、足立先生を尊敬するかが解って頂けるかと思います。

神戸文学史夜話』によせて  足立巻一
① 宮崎修二朗さんと知りあったのは戦後まもないころで、おたがいに大阪の新興新聞の記者としてでしたから、交友はもう二十年になろうとしています。その二十年間、宮崎さんもわたしも当然、年をとり、生活も思想もずいぶんかわりました。しかし、宮崎さんのわたしに対する友情はすこしもかわっていません。たとえば、わたしのヘタな詩を戦後まっさきに写真入りでデカデカと新聞にかかげたのも宮崎さんですし、忍術をこっそりしらべているのを探知して東京の出版社に密告し、一端を発表させたのもかれです。こんな事例はいっぱいありますが、いままた、かれの労作に一文を書けと強要してやみません。このわたしとの交友関係にあらわれた宮崎さんの錯覚と一徹な行動とに、わたしはいつも詐偽をはたらいているような罪悪感におそわれるのですが、ちかごろでは、こんなに無条件で買いかぶってくれる友を得ることは、人生でそうザラにはないものだとわかりはじめてきましたし、かれの錯覚にも感謝し、かれのいいなりになることにしています。そして、そこに宮崎さんの人間性もよくあらわれているように思うのです。 
つづく

この文章が書かれてから50年以上の時が経っています。足立先生が亡くなられてから30年になります。けど宮崎修二朗先生は今もご健在です。そしてわたしはしょっちゅうお会いさせて頂き薫染を受けております。幸せなことです。


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夢のかけ橋

2015-01-30 12:19:18 | 本・雑誌
昭和40年発行の『神戸というまち』という本の巻末です。

想像図として合成写真が。
著者の陳舜臣さんは、この本を次のように締めくくっておられます。

 「この方が早いで…」
  と、得意げに海をひとまたぎした橋のすがたは、神戸のもつ、ややおっちょこちょいで あけっぴろげの性格と合理性を、そっくりかたちにあらわしたものになるはずだ。 
 何年さきになるかわからないが、夢のかけ橋は、きっと神戸の新しい象徴になるであろう。


書き写しながら、陳さんの文章にはひらかなが多いな、と思った。
これを書かれてから50年。
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若き市長

2015-01-30 08:00:36 | 日記
西宮市の若い市長、今村氏についての記事である。今朝の神戸新聞「正平調」。




論評は控えておきます。
わたしも少し考えてみます。

彼はわたしの息子とほぼ同年。
昨年、彼が市長に当選して間もない頃の話をしましょう。
地域のバスツアーの案内役をした時、何かの話のついでに、「彼はわたしの息子です。どうぞよろしくお願いします」と話しました。だけどすぐに「冗談です」と言っておいたのですよ。
ところが後に聞いたところでは、わたしを本当に市長の親だと思ってしまった人があったようでした。
人前で、しかもマイクの前では迂闊なことは言えません。
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読書です

2015-01-29 16:25:51 | 本・雑誌
昼から三宮図書館へ。
予約してあった本が準備できましたとメールが入ったので。
西宮の図書館にはなかったのです。

二冊お借りしてきました。一冊は分厚いです。全集の中の一冊。
他にも読んでいるのがあるので、ちょっと大変。

原稿、間に合うかなあ?

三宮図書館は三ノ宮駅近くの勤労会館一階にあり便利なのです。
今回お借りした本、一冊は中央図書館のもの。もう一冊は長田図書館。
ネットで予約するのですが、その時に受取り図書館を三宮にしてます。
さて、三宮図書館ですが、狭いです。
通路も狭い。しかし、椅子に座って読書する人がいっぱい。
だから歩くのも注意が必要。
みな本を読むために来てるのかなあ?
もしかしたら時間つぶし。あるいは避寒では?
座れるところは全部びっしりと人が座ってはりました。
それもわたしの年齢あたりの人がほとんど。
年寄りがずら~と並んで、我関せずと本を読んでいる光景はホント、ちょっと異常なくらいです。
わたしは借りるもの借りたらサッサと帰ってきましたよ。
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岡見裕輔さん

2015-01-28 12:46:20 | 
今新聞を見ていてアッと声が出た。
詩人の岡見裕輔さんがお亡くなりになったのだ。

今年は年賀状が来なかった。以前からご病気だったが…。
この人のことは感慨深いものがある。
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西宮の銅鐸

2015-01-28 09:27:19 | 西宮のこと
『今津物語』という本がある。

昭和48年発行。今津小学校創立100周年事業の一環として、長部文治郎委員長のもと刊行されている。立派な本だ。
多分「大関酒造」が資金を提供されたのだろう。
わたしは何年か前に古書で入手したのだが、最近は復刻版が出て安価で購入できるようだ。

この中に西宮で出土した銅鐸についての記事がある。

明治13年に津門村、前田源兵衛の畑から、と。しかし、昭和20年の空襲で破損してしまったと。

実は昨日、あることでお知り合いになった、この前田家の奥様がお見えになった。
前田家は今津の有力な旧家である。その昔は他人の土地を歩かずに駅まで行けたという。
で、銅鐸についてお聞きしてみた。
すると、破損したのが今も家に有るのだと。
西宮郷土資料館には写真を元に復元したのがあるが、破損したのは自宅にあるのだと。
しかし「大きく破損してますので値打ちはないです」とおっしゃる。
「いや、そんなことはないですよ。空襲で融けた物、それも貴重な歴史遺産ですよ」と申し上げたことでした。本当にそう思う。破損したとはいっても、弥生時代の物であることには違いない。それが空襲で融けた、そのことで二重に歴史の意味を持つ。
その欠損した銅鐸の写真も『今津物語』には載っている。


なぜこの銅鐸が被災したかということもお聞きしました。
前田邸は大きなお屋敷です。戦時中、自分とこ専用の防空壕がお庭にあったと。
銅鐸はそこへ一旦避難させていたのだが、雨水が流入して、錆びさせてはいけないと再び屋内に置いていた時に大空襲があったのだと。
良かれと思ってしたことが徒となったのでした。
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ホーキング博士

2015-01-27 18:45:41 | 
今年になって初めて逸見さんご来店。
「こんな詩をご存知ですか?」と言って差し出された紙片。逸見さんの字は、書きなれたいい字です。

ホーキング博士の詩である。

  宇宙から見れば

  人類の滅亡は

  小さな惑星にできた

  化学物質の泡が

  消えた だけのこと。

  
  でも

  孫たちの未来が

    あるか

    どうか

  私は憂う


「読んだことがあります」とお答えした。
「以前、逸見さんから教えて頂いたのではなかったでしょうか?」と言うと
「いや、そんなことはないと思います」と。
しかし、この詩は強く印象に残っており、多分逸見さんからのお手紙で知ったのだと思う。

で、今日はそこから話が発展し、わたしが逸見さんに
「こんな詩をご存知でしょうか?」と、
井上靖の「人生」という散文詩をパソコンでネットからお示しした。

人 生

M博士の「地球の生成」という書物の頁を開きながら、

私は子供に解りよく説明してやる。

――物理学者は地熱から算定して地球の歴史は二千万年

から四千万年の間だと断定した。しかるに後年、地質学

者は海水の塩分から計算して八千七百万年、水成岩の生

成の原理よりして三億三千万年の数字を出した。ところ

が更に輓近(ばんきん)の科学は放射能の学説から、地球

上の最古の岩石の年齢を十四億年乃至(ないし)十六億年

であると発表している。原子力時代の今日、地球の年齢

の秘密はさらに驚異的数字をもって暴露されるかもしれ

ない。しかるに人間生活の歴史は僅か五千年、日本民族

の歴史は三千年に足らず、人生は五十年という。父は生

れて四十年、そしておまえは十三年にみたぬと。

――私は突如語るべき言葉を喪失して口を噤(つぐ)んだ。

人生への愛情が曾(かつ)てない純粋無比の清冽さで襲っ

てきたからだ。



何か通じるものがあるような気がして。
この詩は、わたしがまだ詩というものに興味を持つ以前に感動した詩です。初めて読んだ時、胸震える思いがしたのでした。

ところで話はここからまた発展する。

逸見さんに関連する昔話をした。
≪この「人生」という詩は昔わたしが米屋をしていた頃、まだ独身時代のことですが、武田薬品の食品事業部の営業マンの人からプレゼントされた井上靖の詩集『北国』の巻頭詩でした。≫
とそんなことから話は進み、彼、武田の営業マン、西本さんとの話に。
12月のボーナスシーズンに入った日曜日に、彼に頼んで4トントラックにプラッシーというジュースを200ケース積んで来てもらって、うちのお得意先に訪問販売に行った。得意先の玄関先に二人で1ケースずつドンと置いて売り込みです。
「そんなん要らない」とおっしゃるが、。「クリスマスの準備に」と言うと、「ほんなら、せっかく来てくれはったんやから1ケースだけね」と言ってほとんどのお得意さんは買って下さった。中には2ケース買って下さる人も。
昼食はどこかの食堂で取って、一日中かけて回るのだが、車に積んで来てもらった以上、売ってしまわなければならない。少しは残っても残りは倉庫に在庫。
その後、クリスマスまでに消費してしまうお客さんから追加注文が入る。さらにお正月用にとよく売れたものだった。
わたしも若かった。「よく頑張ったですねえ。あのころが懐かしいです」と話したことでした。

ホーキング博士の詩から、話はとんだ方向へ飛びました。ちょっと”若き日自慢話”みたいになってお恥ずかしいが。




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裏打ち

2015-01-27 17:14:10 | アート・文化
昨年より裏打ちをお願いしてあった書が届きました。
字はわたしのものではありません。書家、六車明峰氏の手になります。

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原稿用紙

2015-01-27 09:03:58 | 原稿
陳舜臣さんの半自伝『青雲の軸』を読んでいる。

その中で、ア、と小さく声に出た箇所が。

「ペンをおろした以上、めったなことで退却してはならない!」の一行。
真似は出来ない。
わたしは取りあえず書き始めて、あとからどんどん書きなおすタイプだ。
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仲良し三人

2015-01-26 19:59:09 | 
一昨日の写真です。
隣のお地蔵さんで遊ぶ仲良し三人組。
9歳、6歳、1歳。






子どもは工事現場が好きだ。
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地蔵さんの藤棚

2015-01-26 14:12:08 | 地蔵さん
地蔵さんの藤棚が腐ってきていて危険な状態になっていました。



この際、思い切って新しくすることにしました。
今日、雨の中、工事をして下さいました。

こんなに頑丈そうなのが出来ました。鉄骨です。もうこれでわたしが生きてるうちは大丈夫です。
しかし、セミが産卵する木柱がなくなりました。

どこかへ運ばれ焼却されます。
この柱にも昨夏産みつけられた卵がたくさんいるはずなのですが…。
ちょっと切ないが仕方ありません。
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