野田さんの話のつづき。
このご夫婦に子どもさんが二人おられた。血縁関係は、なにか事情があったように思うが詳しいことは知らない。
ひろ子さんという人がおられた。わたしは「おっこちゃん」と呼んでいた。
この人が入園当初のわたしを連れて一緒に登園して下さっていた。彼女は中学生だったように思う。中学は小学校の校庭の南側に建っていた。わたしは小学校の東にあった浜脇幼稚園である。
浜脇まで約1キロぐらい。焼け跡が残る道を付き添って下さって歩いて行った。多分わたしの親が頼んでくれたのだと思う。ひろ子さんとはそれぐらいの思い出しかない。
ひろ子さんのお兄さんだったと思うが実さんという人がおられた。
この人はユニークだった。
我々ガキどもはいつも渦を巻くように遊んでいたが、よくこの人に号令をかけて集められた。もう働き始めておられた。
わたしたちにのど自慢大会をやらすのである。
路地の真ん中に石炭箱を置き、それがステージである。
順に歌を歌う。伴奏はあの空気銃の田淵正さんのハーモニカだった。
わたしはよく一等賞をもらった。賞品が実さんのポケットマネーで用意されていたのだ。わたしの得意曲は「牧場の朝」だった。「ただ一面にたちこめた…♪」といつも歌っていた。
審査員は実さんだ。講評までしてくれたように思う。
今、そんな人いないねえ。まあ、今は号令かけても子どもも集まらないけど。
またこの人は、当時絶大な人気だった花菱アチャコの物まねが上手で「わてもう、ムチャクチャでござりまするわ」とやってわたしたちを笑わせていた。で、ラジオの物真似番組の予選に出たことがあった。結果は予選落ちではなかったか?もしかしたら本番まで行かれたのかもしれない。
ホントにこの人はユニークな人で、戦後のあの時期にしか咲かない路地の雑草の花のような人だった。
つづく
兵庫県立芸術文化センター 神戸女学院小ホールへ行きました。
「新しい日本の歌 5」のコンサートです。
芸文センター前のイルミネーションがきれかったです。
手ぶれしてますが。
さて、歌曲コンサートですが、歌手の皆さま素晴らしかったです。
チケット下さった柴田さんの詩を歌われた薬谷佳苗さんですが、見事でした。彼女は本当に実力のあるソプラノ歌手だと思います。帰りにロビーでお会いして、「良かったです。見事でした。あなたのお母様をよく存じております」とご挨拶しました。彼女、握手を求めてこられました。わたし、うれしく応じました。実はお父様も存知あげているのですがね。
コンサート全体の感想としては、詩人は歌手に完全に負けてるのではないかということでした。これはあくまで門外漢のわたし個人の感想です。
心に残るほどの詩は正直少なかったです。ただ、歌にするのにはこんなのがいいのかなあとも思います。作曲家が詩を選ばれているのでしょう。曲はわたしには解りません。
とにかくわたしは歌手の方に感心しました。皆さん見事でした。ほとんどの歌手が暗譜しておられました。詩人はどうでしょうか。自分が作った詩をキッチリと覚えているでしょうか。わたしは自信がありません。歌手の方は自分が作った詩でもないのに曲とともに覚えておられる。見事に歌いあげられる。その澄んだ声に心と耳を洗われました。
あ、それからちょっと気になったこと。
20曲ばかりの歌の中に震災に関するものがなかったということ。今、日本で新しい歌曲が作られるのなら1曲ぐらい震災を歌ったものがあってもよさそうに思ったのだが。
昔の思い出の8回目。
世話人名簿の4人目に載っている野田利之助さん。
この人は左官屋さんだった。
お地蔵さんの北隣に住まわれ、奥様とは正式な婚姻関係にない内縁だった。わたしは子どもだったがそう認識していた。後に気づいたのかもしれない。うちでは米穀通帳というものを扱っていたから、ある程度その家の戸籍が分かった。
今なら個人情報ということで問題だろう。まあ、それだけ米屋が信用されていたということもある。
利之助さんは左官屋さんだったが働く姿をわたしは見たことがなかった。もう老人だったし、また近くでの仕事がなかったのかもしれない。
この人、背中いっぱいに大きな彫り物があった。たしか登り龍だったと思う。夏などは日常でも見かけたが、銭湯で一緒になることもあり、おとなしい人なのに子ども心に恐かった。
それに関して思いだすことがある。
その野田さんの北隣に湯浅さんという家があり、忠佳、俊介(字はどうだったか?)という兄弟がいて、わたしの遊び相手だった。その弟の方の俊介が、この野田さんの使いで、入船市場のそばの栗野医院に行ったことがある。薬瓶を返しに行って瓶代を返金してもらうために。その一部をお駄賃にもらえるのだった。ところが、医院は返金できないと答えたそうだ。そこで諦めないのが俊介。「野田さんのおっちゃん、恐いねんぞ!背中にでっかい刺青あんねんぞ!」と脅したというのだ。俊介、まだ小学生だった。しかも低学年ではなかったか。もしかしたら就学前だったかもしれない。栗野先生は女医さんだった。でも、脅されたからというわけではないだろうが、彼にお金を持たせたということだった。
わたしはよくもこんなしょうもないことを覚えているものだ。
でも、この利之助さんは優しかったと思う。大きな声を聞いた覚えはない。
奥様(内縁)の方が怖かった。顔も怖かった。奥目の目玉がギョロリと力があって、怒られると縮みあがる思いがした。顔は陽に焼けて真っ黒だった。というのも、日雇い仕事に出ておられたのだ。市の失業対策の仕事で、川や溝の掃除や道の草抜きなどに出ておられたのだ。内縁だったから出来るのだと聞いた覚えがある。
ここの家の軒先に蝙蝠が巣を作っていて、いつも夕方になると飛び立っていた。子どもでも捕まえられそうな高さで舞っていた。
つづく
先日の「ブルーグラス45」の宝塚でのコンサートだが、少し録画してきた。
画像はあまり良くないが、音はよく録れていると思う。
リードボーカルのジョッシュ大塚さんとこのほど連絡が取れ、youtubeでの公開の許可を頂いたので、アップした。
http://www.youtube.com/watch?v=WVm6Ig3B3FE&feature=plcp
http://www.youtube.com/watch?v=GbujFGL2vhQ
http://www.youtube.com/watch?v=_LblZkZRWe4
PCにスピーカーをつないで聞いて頂きたい。
実はライブでは、曲の間のMCが面白くてメッチャ楽しいのだが。
思い出、7回目。
U谷S吉という人があった。
うちの家から二軒北。
トヨエースという小型のトラックで運転手をしておられた。
たしか、塗料を運んでおられたように思う。
父が健在のころだから、昭和30年代前半、たまにこの人に店の手伝いをしてもらっていた。冬に使う練炭、薪、木炭などを値段の安い夏にまとめて購入されるお得意さんが何軒かあった。裕福な家庭で夙川方面だったと思う。雲井町だったかな?そのお得意さんは父が戦前奉公していた森具の古賀商店時代の知り合いだった。それの配達をU谷さんの仕事が休みの時にお願いしていた。うちの店ではまだ自転車で配達していたので。
U谷さんは因島出身だった。村上水軍の末裔だなどと聞いたことがあるがこれは眉つば。でも彫の深い赤ら顔で髪は癖毛。異国の血が入っていても不思議ではない。思い出せば目の色も多少青みがかっていた気がする。
U谷さんはお酒が滅法好きだった。
よく外へ出て飲んで帰って来られた。
夜中に外で歌声が聞こえる。U谷さんだ。お地蔵さんの床几に腰掛けて歌っておられるのだ。ごきげんだ。歌は必ず「われは海の子」。
子どもの頃の因島を思い出して歌っておられたのだ。
しばらく大声で歌ったあと家に入られる。
この人、酒飲みの運転手だったが、実は物知りでもあった。
「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という言葉を教えて下さったのはこの人だった。子ども心に賢い人なんだ、と思った。
ということで、この人の子どもさんは学業に優れていた。私よりたしか二歳ばかり下。U谷M重と言った。
4人兄妹だったが皆優れていた。
ところがこのM重君と私は特に仲が良かった。いつも遊んでいた。そしていつもケンカをした。子ども時代に最も多くケンカした相手だ。
そうだ思い出した。彼は子どもの頃、冬になるといつも青洟を垂らしていた。まああのころは多くの子どもが栄養不足で青洟を垂らしていたものだった。
鼻の下に2本の青洟が垂れている。それを見つけたうちの配給所の職員の小路さんはメリケン粉を手にM重を追いかけ捕まえ、鼻の下に擦りつけるのである。
するときれいに2本の白い縦線が現れた。懐かしい思い出だ。
さてS吉さんだ。
晩年は奥さんを先に亡くされ淋しそうだった。子どもたちも独立して家を出て行き、一人暮らしだった。夕方うちの店にやって来てメニューにないビールを飲み、家内の作った小鉢のものを肴にしみじみ飲んでおられた。うちの店では歌うこともなくおとなしいものだった。
つづく
膝を傷めたのはこの春、3月だった。
階段の上がり下りにも苦労した。
正座はおろか胡坐もかけなかった。
N村整形外科に行ってレントゲンを撮ってもらった。
大したことはないといわれた。でも膝に水が溜まっていると。
しばらくリハビリに通って下さいということだった。
でも、リハビリに毎日通うのは〇もかかるし面倒だしで行かなかった。
大したことがないのが分かればそれで良かった。
リハビリなら家でやればいい。
けど、なかなか良くならなかった。
次はM浦整骨院にいって鍼などの施療をしてもらった。
これは少し続けた。
しかしこれもそれほど効果上がらずやめた。
やはり時間と〇がもったいない。
そんな効果もないものに使うのなら本を買う。
で、家で柔らか灸をした。
少し改善した。
薄皮を剥ぐとはこのことかと。
でも、これもなかなかだった。
で、灸がいいのなら、柔らか灸ではなく、本当の灸をすればいいと、この夏ごろから始めた。
これは熱かった。
そりゃあそうだ。火が直接に皮膚につくのだから。
それでも毎晩風呂上がりに続けた。
関節の周りが灸の痕だらけになった。
体操も続けた。
森光子さんがやっていたスクワットの真似ごとを。
100回×一日3回。
これは本当に、薄皮を剥ぐように良くなるのが実感できた。
風呂の湯船の中で、少しずつ正座をする練習もした。
秋が深まって来た頃に相当良くなってきた。
そして昨夜のことだ。
毎晩お参りする仏様の前で正座をしてみた。
風呂では出来ていたが、どうかな?と思いながら。
すると、なんとかお経を終えるまで出来た。
うれしかった。
8ヶ月ぶりだった。
やっと全快する目処がついた。
もう少しだ。
でも焦らないでおこう。
ここでまた傷めたら、今までの努力が水の泡だ。
宮城県の「笑顔カレンダー」のこと、神戸新聞夕刊に大きく出ました。
これについて書いた先日のわたしのブログはこちら。↓
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20121123
ブログで触れたように、女道化師、森文子さんが応援してはります。
皆さま、購入して上げて下さい。
ジャック・イン・スマイルのホームページで申し込むか、吉川さん(?070・5629・6553)へ。
12時過ぎだから先ほどのこと。
タクシーを乗りつけて来られたお客様があった。
知らないご婦人。
店の中を見渡して「あれ来てません?」と待ち合わせのご様子。
「用海町には他に喫茶店ありますか?」と。
「いえ、うちだけです」
「近くには?」
「ありますよ。多分そちらでしょう。うちはお客さん滅多に見えませんから」
納得して出て行かれた。
すると店内におられたお客様から一斉に笑い声が。
この笑いには深い意味がある。
子どもの頃の思い出話の第6回目。
この前のページに地蔵さんの仮堂建設の話を書いた。
資料に世話人の名が並んでいた。みな懐かしい名前である。
父は別にして順に想い出を書いていこう。
この隣保はまったく庶民層であった。今もだが、下町も下町、「用海谷、地獄谷」と揶揄されたことも。よくケンカもあった。
先ず、田淵三次さん。
空気銃の正さんのお爺ちゃんにあたる。
わたしもうっすらと覚えている。いかにも頑固そうな人であった。
田淵さんの玄関の前はちょっとした空き地になっていて、よく遊んだ覚えがある。田淵さんの敷地内だった。しかし、三次さんの仕事の邪魔になったのだろう、叱られた覚えがある。まあ、当時、私は近所のお年寄りにはよく叱られたものだが。これはゴンタ自慢になるか?いやそんなことはない。ゴンタではなかった。いたっておとなしかった。ただ、当時の大人は近所の子どもをよく叱ったものだ。
この人の、お地蔵さんに関わるエピソードがある。
縁起『小墓圓満地蔵尊』にも記した話だが、
夜、境内の工事をしていたところ、大きな狸らしきものが現れて驚かせたと。家に飛んで帰り「恐ろしいものが出た」と震え上がったということである。
三次さんは小柄だったがいわゆるカチコミというようながっちりした体形。まったく小心者というタイプではなかった。
このあたり、戦前にはキツネがたくさん棲んでいて狸も驚くには当たらないが、余程大きなものだったのだろう。ついでに言うと、戦後、私が子どもの頃、「日本盛」の敷地内で子ギツネが捕まったことがあった。私は実見していないが。
つづく
もう一つの届きものもコピーである。
今や入手困難なもの。
『文学雑誌』19号。相当古いものである。
街の草さんがその一部を27枚もコピーして下さった。
杉山平一先生が書かれた「風浪」が載っている。
わたしが杉山平一先生のファンだと知っておられて送って下さったのである。
ここに発表されたのが初出なのであろう。
後に『わが敗走』(1989年)に再録されている。
そして、『百艸句集』に寄せられた足立巻一先生の序文。
これがいいなあ!
足立先生は、序文や跋文も素晴らしいものがある。人情が溢れている。
やっぱり私は足立先生を心から敬愛している。
・
加納さん、ありがとうございました。
そして、松岡さんもありがとうございます。
みなさんに支えられて少しずつ勉強させて頂きます。とは言っても遅いなあ。もっと早くに勉強すべきだった。
けど、杉山先生の詩、「もうおそい ということは 人生にはないのだ」を胸に頑張ります。