今日、koh,sato,koyoを迎えに大阪福島へ行った。
阪神野田駅手前に「松下幸之助創業の地」という案内板がある。
「そうか、ここが…」とこれまで思ってきたのだが、先日のこと、今里駅近くを歩いていたら「松下幸之助起業の地」という案内を見た。
えっ!どっちがホント?
で、調べてみた。
すると、野田は「松下電気器具製作所」を創業した場所で、今里の方は「松下式ソケット」の製造販売を始めた所ということだった。
ということは、本当に最初は今里ではないのだろうか?
「KOBECCO」の鳥羽さんに無理をお願いしていたコピーが届きました。
1967年10月号の「KOBECCO」に掲載されている、足立巻一先生の「非悪童物語」第一回目。先生、54歳だ。
津高和一さんが挿し絵を描かれている。津高氏の後の抽象画とは少し趣が違う。
これを知ったきっかけはこちらのページに。↓
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20130314
第一回目を読ませてもらって、やはりこれまでに読んだことのない文章だ。本にもならなかったのでしょう。けど、その後、自伝風のものを書かれることになる端緒でしょうか。
書かれていることが生々しく、面白いです。
第二回目以降が楽しみ。
鳥羽さん、お忙しいでしょうから、急ぎません。よろしくお願いいたします。
『ウランバートル捕虜収容病院』の中に、こんな記述が。
―(略)兵隊は、私の時計を耳に当ててから右腕に巻いた。その太い腕にはすでに二個の時計が巻いてあり、更に左腕の三箇の時計を見せて、満足そうな足取りで去って行った。―
わたしの父も言っていた。
「露助が日本兵の時計を奪って、いっぱい腕に巻いていた。時間も読めないくせに」と。
彼らは他に万年筆やライターなど光りものを欲しがったと。
そんなことを言っていたのを思い出した。
弟の信雄さん87歳の話である。
抑留中に二十歳の誕生日を迎えたという。
話の中に「家族がおる兵隊は特に落ち込んどったね」と。
すぐには内地へ帰れないと分かった時のことである。
うちのオヤジはその家族持ちだった。
先日注文していた本が昨日届いた。1991年1月発行。
「ウランバートル 病院」で検索してこの本に出会うことができた。
こんな本が出てたことは全く知らなかった。当時、話題にもならなかったのだろう。
知っていれば買ったに違いない。
読み始めて驚いた。
父が言っていた「ホジロブロン病院」というのは「ホジルボラン」だったのだ。
「ホジロブロン」ではいくらワード検索しても出ないはずだ。
父は現地の人が話す言葉を聞き違えていたのである。よくあることだ。
ボチボチ読み進めているが、昔、父が話していたことを次々と思い出すことが書いてある。
しかも、不思議に思っていたことが、「あ、それで」と納得させられるようなことも。
これまで父の抑留体験を漠然としか認識していなかったが、これを読むとその情景が具体性を帯びて胸に迫ってくる。
開場時間前に行ったのだが、すでに開場されていて615人定員の会場はほぼ満員だった。
もっと前で観るつもりが後ろの方になった。あれだけ人が押し寄せれば時間前の開場は致し方ないでしょう。開演前には立錐の余地ない満員。驚きました。これほどの盛況とは想像していなかった。
・
チケットを千秋さんから頂いて行ったのだが、お会いできなかった。
しかし驚いた。
あまりにも素晴らしい歌声!
わたしと同い年とは思えない。スタンドマイクはない。上方に吊るされたマイクのみである。よく声が持つなあ!と思いながら聞いていた。
千秋さんとの縁は、北山冬一郎である。
今回、北山の歌を一曲歌われた。「紫陽花」である。
『紫陽花』 北山冬一郎 詩 團伊玖磨 曲
そのひとと めぐりも逢はず
そのひとと 語らふを得ず
あはれ けふも
紫陽花の花は咲くなり
七月の陽もくるめき
そのひとと めぐりも逢はず
紫陽花の花は咲くなり
見事だった。
これは動画。↓
http://www.youtube.com/watch?v=pnb9cysHbp4
遠くからのチャチなデジカメで収録したので画像は悪いが、雰囲気は伝わるのでは?
さて、幻の詩人北山冬一郎である。
宮崎修二朗翁が昔、接触しておられた。そのお話をもとに以前、『KOBECCO』にミニ評伝を書いた。
酔っぱらいで、ウソつきで、ええかっこしいで、借金まみれで、最後は放浪をし、煙のごとく世間から消えてしまった詩人の話。
その北山の詩の何遍かに團伊玖磨が曲をつけている。
それが今も色んなコンサートで歌われている。
しかし、歌手は北山がどんな人だったか知らなかった。
ということで、この千秋さんも自分が歌う歌の作詞者のことを知りたくなり、この拙ブログにたどり着かれたのだった。
そのようなご縁でチケットを戴いたというわけ。
千秋さんが歌われる「紫陽花」を聞きながら、不思議な感覚に襲われた。
素晴らしい歌声が会場を満たしている。
それを満員の聴衆が感動を持って聞いている。
しかし、この歌の作詞者はあの北山冬一郎である。
北山がこの光景を知ったらどうだろうか?と思う。
・
行って良かった。
他のコーラスもレベルが高く良かった。
素晴らしいコンサートだった。
千秋さん、ありがとうございました。
そして、おめでとうございます。
『コーヒーカップの耳』
今日のは、ちょっと目がウルウルします。←クリック
読みにくいでしょうか?
ダウン症の晋介君の送り迎えの担当の直子ちゃんが、トイレに行きたかったのを我慢して家に送ったのです。「ここで待ってて」と言っても晋介君には解らなくて目が離せないので。
しかも晋介君は道草をくったりわがままを言ったり、時間がかかりました。なんとか送り届けて自分の家に走って帰る途中、我慢できずにおもらしを…。
そして「あのねちょう」に書いたのがこれ。
「おもらし」
しんちゃんをおくっていくときから
おトイレにいきたかったんだけど
がまんして
しんちゃんをいえまでつれていって
はしっていえにかえるとき
みちばたででてしまいました
わたしはとってもはずかしいおもいで
いえにかえりました
せんせい ないしょね
最後の「せんせい ないしょね」でグッと胸にきます。
わたしの父が戦地から持ち帰ったものは、先に上げた食器だけではなかった。
覚えているものをここに書いておく。
飯盒が二個あった。
そのうち一つには、彫刻というほどのものではなかったが、絵と文字が彫り込んであった。父の手になるもの。
自分の干支のトラの絵が彫ってあったのをハッキリと覚えている。
文字はなにだったか覚えていない。
長くうちにあったが、いつのころだったか、誰かに貸したまま返って来なかった。
他に、やはり食器で、これもブリキの手づくりの四角いもの(ブリキを折り紙のように折り畳んで作ってあった)で、それで高粱飯を食べたと言っていた。わたしが子どもの頃、それは、外での石鹸箱として使っていた。
ある日、家の前の庭に置いてあったそれを、拾い屋さんが通りがかりに持って行った。それを父が家の中から見ていて、血相変えて飛んで出て行き、追いかけて行って、とっ捕まえて「お前は拾い屋か泥棒か!」と叫ぶと同時に殴って取りかえした。拾い屋は「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」と言っていた。彼も不思議だったかもしれない。そんなしょうもない物を血相変えて取り戻した父を。
その石鹸箱もいつの頃かなくなってしまった。
他に、毛皮のいいのを自慢していた。父は羊の毛皮だと言っていたが、あれは多分、羚羊(れいよう)だったと思う。大きく立派なもので、後に大峰山の修験道を始めた時に尻あてに作りなおして自慢していた。これもその後、父が死んでから、じっと押し入れに置いていて手入れをせずダメにしてしまった。
もう一つ覚えているのが、長靴(ちょうか)だった。これは二足持っていた。長いのと短いのと。
これも今ではもうない。しかし抑留されていたのに、どうしてそんな物を持ちかえれたのか今は不思議だが、確かめる術がない。
kohは明日参観日で学校があるので来ませんでした。
satoとrihoちゃんがままごと遊びをしているところに、お<wbr></wbr>参りのおじさんが。
般若心経を唱え始めました。
http://www.youtube.com/<wbr></wbr>watch?v=i_xPULcbNtY
語り部は細見竹雄さん91歳。
偶然、うちの父親とタケオという名が同じだ。但し、漢字は違う。
うちは武男。生きていたら、丁度100歳になる。
・
昨日紹介した写真。
武男が手づくりで作った食器である。
一番上のしゃもじ。金属でできている。どうして作ったのだろうか。
これについてこんなことを言っていた。
「おかゆなど熱いものを食べるのに困った。唇がやけどするから」と。
それで、木で作ったのが2番目のスプーン。
これ、ガラス片で削って作ってある。つまみの所の模様なんかもいじらしい。
その下の箸も木切れを削って作っている。堅そうな木である。
そして、一番下の小刀。鉄片を利用している。
父は話した。
「これはな、…」
この先はここには書けない。
人が究極で生きることの壮絶な話。
昨日のこと。
月に一度うちの店でOG会をなさるグループがある。
奥の大きなテーブルを使って頂く。
昨日は「イナリずし」をご用意した。
うちのイナリずしが好きな中林さんにも予告していたのでご来店。
その中林さん、OGさんたちの隣の席へ。
ところが彼、しばらくしたらカウンターの方へ出て来て、
「かなんわ」と小さな声。
「なにが?」とわたし。
「いや、あのおばちゃんら、病気の話や、もうあかんわ、とかいう話ばっかりや。気分が暗うなる」
そのOGさんたち、平均年齢は80歳をいくつか過ぎておられる。お仲間も大分少なくなられた。初めは10人以上だったが、昨日は6人。
で、わたし、中林さんに言ってあげた。
「中林さん、充分馴染んではるよ。一緒にいはってもまったく違和感ないから、お友達にならはったら?」
「マスター、ムッチャ言うわ」
中林さん、最近定年になって、昨日はスポーツジムの帰り。悠々自適の生活で、仕事人だった以前の厳しい風貌は消えてしまっている。
「充分お仲間になれますやん」
「ええかげんにしい!」
怒らせてしまった。