この地図を見ていると次々と思い浮かんで来ることがある。
その一つ。
今の日本盛の北のセンチェリービルの所はわたしが若い頃は空き地だった。畑だったかな?たしか野壺もあった。
ここにも人には言いにくい思い出があるが、それはさておき、その北側に戦前に建てられた鉄筋の建物があり、戦災で大きく壊れていた。その壊れたままの骨組みを利用して、住居になっていた。藤川さんといった。
ここも含めて今は日本盛の敷地になっている。
住居の前には結構広い空き地があり、庭になっていて、自然石を使った大きな石灯籠が立っていた。
そばに梅だったか桃だったかの姿のいい木があった。
昔は裕福だったのだろうと想像された。
おじいさんがおられて、戦前は樽屋の職人さんだったと聞いていた。
指に障害を持っておられたが、仕事でそうなられたのだろう。
いかめしい顔をしておられたが、物静かなひとだった。
父の話では「あの人は偉い人」とのことだった。
川柳か俳句の先生だと。
中に入ったら土間があったが、その一角に雑誌の束が積んであったのを思い出す。
あれは川柳か俳句雑誌だったのだろう。
主宰しておられたのか、発行元になっておられたのか。
その焼け跡の鉄筋住宅に三世帯が住んでおられた。
ご長男一家と、ご長女一家と次女一家の三世帯。
二階までが利用されていた。
藤川さん、国本さん、井山さんといった。
このうちの国本さんは後に広田の建売住宅に転居され、その玄関には色紙が飾られていて、俳句か川柳が達筆で書かれていた。
その後、西宮港の近くに転居された。
奥さまは笑顔良しの美人でいいお人だったが、早くにお亡くなりになった。今でもありありと顔を思い起こせる。
色紙は藤川さんのおじいさんの筆跡だと聞いた覚えがある。
その藤川さんだが、三代吉さんといった。
で、「藤川三代吉」で今ググってみたが出てこない。
著名ではなかったということか。
そういえば、宮崎修二朗先生の話題にも上ったことがなかった。
もしかしたら、信行寺の老僧ならご存知かもしれない。次にお会いしたらお聞きしてみよう。
付随して思い出すことたくさんあるが、また。