ある人から戴いた。

薄田泣菫と富田砕花の関係について書かれた、宮崎修二朗翁による記事の切り抜き。
昭和63年(1988年)だから、私の店「輪」がオープンして約一年のころ。
すでに宮崎翁とわたしの交流は始まっていた。
店のオープンに思いがけずお祝いに来てくださったのだから。
記事の肩書に「大阪芸術大学講師」とある。
神戸新聞を定年退社したあと、足立巻一先生の推挙によって就かれた職場である。
そこでフランキー堺さんと仲良くなった話などもしてくださったことがある。
フランキーはその時教授だった。お二人は学生に人気があったのだと。
記事のことである。
泣菫と砕花とのお付き合いのことが書かれている。
何年か前に、西宮芦屋の郷土文学を研究している人からわたしに問い合わせがあった。
泣菫と砕花は近くに住んでいたのだから、なんらかのお付き合いがあったのではないか?と。
その時、宮崎翁が何かに書かれたものを提示して差し上げた覚えがある。
但し、この記事ではない。こんなに詳しくはなかったと思う。
この記事と同じようなことをどこかに書かれているはずだが、今思い出せない。
ちなみに泣菫は西宮市の浜脇幼稚園の園歌及び浜脇小学校の校歌を作詞している。

薄田泣菫と富田砕花の関係について書かれた、宮崎修二朗翁による記事の切り抜き。
昭和63年(1988年)だから、私の店「輪」がオープンして約一年のころ。
すでに宮崎翁とわたしの交流は始まっていた。
店のオープンに思いがけずお祝いに来てくださったのだから。
記事の肩書に「大阪芸術大学講師」とある。
神戸新聞を定年退社したあと、足立巻一先生の推挙によって就かれた職場である。
そこでフランキー堺さんと仲良くなった話などもしてくださったことがある。
フランキーはその時教授だった。お二人は学生に人気があったのだと。
記事のことである。
泣菫と砕花とのお付き合いのことが書かれている。
何年か前に、西宮芦屋の郷土文学を研究している人からわたしに問い合わせがあった。
泣菫と砕花は近くに住んでいたのだから、なんらかのお付き合いがあったのではないか?と。
その時、宮崎翁が何かに書かれたものを提示して差し上げた覚えがある。
但し、この記事ではない。こんなに詳しくはなかったと思う。
この記事と同じようなことをどこかに書かれているはずだが、今思い出せない。
ちなみに泣菫は西宮市の浜脇幼稚園の園歌及び浜脇小学校の校歌を作詞している。