お客さんの清水さんの話。
お孫さんの友達が家に遊びに来ていて、将棋の話になったと。実は清水さんも将棋が好きでうちのお客様になって下さった人。
で、そのお孫さんのお友達と話していたらその子が「宮水ジュニア」に行っているということだったので話を進めると「imamura」の名前が出たのだと。
そして、その子が言うには、将来、「将棋を教える人になりたい」だったと。
これはうれしいではないか!
その子の名前を聞くと、N君。大いに思い当たる。いつも一番前の席に着き、わたしの話を一生懸命目を輝かせて聞いている子だ。しかも、今年度前期のクラスにも参加していて、西宮浜公民館まで通って来ていた子だ。いわば私のオッカケである。こんな子が何人かいる。
で、N君だが、先日の最終回に、詰将棋解説の役をわたしの代わりにやらせたのだった。上手にできたので褒めたのでした。
それにしてもうれしいですね。
将棋の好きな子どもは普通、将来は「プロ棋士になりたい」というものでしょう。
ところが彼は「教える人に」と。きっとわたしの姿を見てそう思ってくれたのだ。ありがと、ありがと。自信が出来ます。
今朝の「正平調」の後半。
井上靖の「人生」という詩が引かれている。
わたしは遠い昔、この詩に大いに感動した。まだ詩に興味を持つ前だから独身時代のこと。
米屋を専門に回ってきておられた「武田食品」の営業マンに西本紘二さんという人がおられた。
優れた営業マンだったが、お人柄も素晴らしく、わたしは親しくお付き合いさせて頂いていた。今も年賀状交換をさせて頂いている。
ある時、この人がわたしに本をプレゼントして下さった。薄い文庫本のそれは、井上靖の『北国』という詩集だった。
その巻頭にこの「人生」という散文詩が置かれていてわたしは衝撃を受けた。
それからである、わたしが多少、詩に興味を持ったのは。しかし自分が詩を書き出したのはもっとあと、子どもが出来て言葉を発し出してからのことだった。けど、この「人生」という詩が大きく影響していることは間違いない。今も折りに触れて読むことがある。
夕方の関西テレビの「アンカー」という番組で「芦屋川」のことを放送していた。昔のテレビドラマの主題歌が話題に。これの作詞者がフランク永井の「大阪ぐらし」などの作詩で有名な石浜恒夫さん。
ちょっとしたことから、その奥様とのつながりができた。今回取り上げられたことを非情に喜んでおられると。奥様、ご健在だったのだ。
放送の一部をちょっと、youtubeに上げました。
http://www.youtube.com/watch?v=cSbJwVJYtxE
パソコンが故障で不便してます。
画面に網がかかったような状態になってしまいました。
再起動しても変わりません。
辛うじて、上部が少し見えますので、その隙間からこれを書いています。
しかし、いつ何時ダメになってしまうか分かりません。
更新が途絶えた時はそのようなことですのでしばらくお休みすることになるかも知れません。
今朝の神戸新聞「あ・ん」欄。平松正子記者が書いておられる。
とかく川柳は軽く見られる。一般に文学としての価値が低く思われている。
駄洒落のように思われている。
実はそんなものではないんだ、と懸命に世の中にアピールされたのが新子さんだった。
そうですか、平松さん、新子さんから一句頂かれましたか。
実はわたしも一句頂いたことがある。
しかも大きなパーティーの席で、わたしを指差し、万座の中で朗詠された。
その句は内緒です。
一昨日、大阪のK・Kさんからハガキが届いた。
わたしにとってうれしい内容の文章のあと、
「杉山平一先生に感銘される方はみんな私の同志です。うれしくなりました」とある。先に、このKさんに私お便りしたのですが、それに杉山先生のことを書いたのでした。
このKさんも杉山先生を尊敬してやまないお人です。
「杉山先生のご息女によろしくお伝えください」とありました。
藤田靖生さんの葬儀に家内と参列してきた。
思えば長いお付き合いだった。
わたしがまだ二十歳になる前だったから、もう50年にもなる。
いつも変わらぬ人だった。
お付き合いは長かったが、それほど深いものではなかった。
いつも淡々とこちらの言い分を聞いて「よっしゃ、わかった」とことを運んで下さった。
任せておけばいい信用のできる人だった。
このご夫婦の新婚時代から知っている。
初め、石在町の酒蔵通りより少し北の路地を入った所の文化住宅に住まわれた。
わたしはそこへお米を配達に行っていた。
あ、その前に、奥様のトシ子さんは、まだうちの父親が生存中に、うちの店の事務員として少しの間お手伝いしてもらったことがあった。わたしはまだ子どもだった。その後トシ子さんは東町米穀店に長く勤められた。
だが、所帯を持たれて、東町米穀店からではなく、うちからお米を買って下さり、それはうちが米屋をやめるまで続いた。
靖生さんは努力の人だった。
丹波から出て来て、高沢工務店で修業して、二十歳代で独立し、がむしゃらに働かれた。うちの工事の時も一人で黙々と仕事をしておられた。
やがて、職人さんを何人か雇用されて会社にされた。
そこに出入りしていた安西さんという人がある。
手伝い(てったい)を派遣する親方だった。
この人から聞いた話に、「藤田さんは偉かった。若い時のことや。朝、人夫を頼みに来たんや。そやけど、『今からでは間に合わん』と家の戸口で断って、奥へ入ってご飯を食べた。ご飯を済まして、もう諦めて帰ったと思って出てみたら、まだそこにおった。ほんで『なんとかお願いします』て言うんや。あの根性には恐れ入った」と。
この安西さんも亡くなられて久しい。