原さんです。いたくご立腹。
「昨日や、ニトリでソファー見とって、ええな思たから店員に聞いたんや。そしたら、配送料無料ていうから注文したんや。日曜日の午前中に持って来てくれ、言うたら、あっ、それなら時間指定ですね、1000円頂きます、て言いよるんや。それはおかしいやろ!ちゅうこっちゃ。」
確かに、それなら先に言うべきですね。宅急便など、時間指定に別料金はありませんもんね。
「パートみたいなおばちゃんに、きつう言うたもんやから泣きそうになりよって、上のもん出せ、言うたんや。そやけどそいつも頼りない奴で、らちあくかいな。ほんで、もっと上のもんや、言うたら店長みたいなんが出て来て、ヤッサモッサして、こういうシステムになってますので、て。他のお客様にはこれで納得して頂いてます、とか言いよる。それはおかしいやろ、しぶしぶやろ。俺も営業の仕事してる者や。ムリゆうとらへん。これ、トラブルになったことなかったか?言うたら、おばちゃんは、言われたことあるて。そらそうやろ。そやけど泣き寝入りやな。俺は納得できん。100円でも払わんで、と。そしたら、緊急ミーティング開きます、ちょっとお待ちを、ということで、今回特別に、ということになったんや。そやけどそれもおかしな話やろ。これからちゃんとポップに書いておけ、「時間指定の時は1000円頂きます」と、て言うた。」
しかし、原さん、エライ。わたしなら「もういらん」言うてキャンセルするだろう。けど、「いや、あれ安かったし、俺、欲しかったんや」と。なんと純真な人だろう。原さん、ゴンタでも人に好かれる理由がわかるというものだ。
心臓、脳と精密検査の結果、大きな異常なしだったので一安心なのですが、膝痛がまだ残っています。
今日も整骨院に行きました。一応先に整形外科でX線は撮ってもらっていて、悪質ではないと診断を受けています。が、なかなか治らず、整骨院での治療を続けています。今日も鍼治療を受けました。徐々に良くなってきていて後少しです。
犬山城、明治村のバスツアーが心配でしたが、無事に終り、頼まれていた原稿も書いて送り、今日はホッとしています。
快晴の中の「宮っ子バスツアー」でした。
行きのバス中で犬山城の歴史講座を努めました。堅い話ばかりでなく、あっちこっちで仕入れた小話(笑話)など取り入れ、爆笑を誘いながら。
犬山城です。
天守閣から木曽川を望みます。
噂に違わぬ絶景でした。天守の周りを回廊がめぐらされており、四方が見渡せました。殿様になった気分が味わえます。
城内の石組みです。
いかにも戦国の城、野性味にあふれ迫力がありました。
犬山城の次に明治村へ。
西宮市甲東園から移設された芝川邸です。
内部は豪華でした。バス中で、このお屋敷の話をしたら、乗客の一人Aさんが、「芝川さんはうちの親戚です」と言われて驚いた。明治44年築の家ですが、トイレは様式でした。
明治時代にこのようなトイレが作られていたことに驚きです。
あすは「宮っ子バスツアー」で明治村と犬山城へ行きます。
その歴史案内役を仰せつかってますので、このところ犬山城に関する資料を集め勉強してました。毎年のことで、いつも司馬遼太郎さんの「街道をゆく」をテキストにするのですが、今回は苦労しました。残念ながら司馬さん、犬山は書いておられなかったのです。実は、1996年に急死されるのですが、最後の「街道をゆく」が「濃尾参州記」で、未完に終わっています。これから犬山方面を、というところで終わったのです。まことに残念というほかありません。しかし、それも話の種として乗客の皆様にお話ししようと思っています。
司馬さんはお城がお好きでした。日本のほとんどのお城を書いておられます。しかし、犬山はこれからだったようで(もしかしたらどこかに書いておられるかも)残念でした。で、バスではお城ついでに越水城など西宮のお城のことも話そうと思っています。そして、勝海舟が作ったという香櫨園の砲台のことも。
夜、仏さんにお参りしていると咲友がやってきた。
わたしが叩いている木魚の鐘木を取り上げて、わたしの代わりにポクポクと叩いてくれた。
仏さんは喜んだでしょう。
編集工房ノアの涸沢さんから「海鳴り」24号が届いた。
年に一回出るノアのPR誌である。PR誌だがいつもいい読み物が載っている。
今号は、社主、涸沢さんの「大洲からの手紙」に泣かされた。
杉山平一先生の詩集『希望』を読んだ人からの手紙のことが書いてある。
「話が長くなりますので手紙を書くことにします。私が杉山平一さんの『希望』を購入しました理由から話さねばなりません。」
と手紙は始まる。
そして、元同級生から「このお方は学徒動員で尼崎精工に行っていた時の社長さんのご子息様です」と教えられる。
手紙は続く
「専務さんのお話をお聞きしまして…、私はお顔はなぜか今でもよく覚えております。」
杉山平一氏は、父が昭和13年に設立した尼崎精工株式会社に翌年から勤務することになり、人事課で青少年工の指導に当たった。
これは少女から見た貴重な学徒動員の証言である。手紙はさらに、地方紙に載った現在の杉山さんの写真を見て、自分が思う同一人物か、市立図書館に確かめに行く。図書館に杉山さんの『詩と生きるかたち』があり、その中に、昭和20年代のものが入っていて、「わたしの覚えておりました背の高いお方に間違いありませんでした」と、かつての専務さんが、詩人杉山平一であったことを確認する。
その後、杉山さんの『わが敗走』を読む。
―後略―
この続きを読みたい人は、「輪」へおいでください。感動的な話が続きます。
「海鳴り」24号、20冊頂いています。お譲りします。
昨日、久しぶりに宮崎先生を訪ねて、頂いてきた本『柵』を読んでいて、「あれ?」と思った。これです。
「火曜日」109号からの転載記事である。そしてこれは4月号。
先生は開封せずにわたしに下さったのでお読みにはなっていない。
わたし、今まで転載されてること知りませんでした。前にもそうだった。『柵』1月号にも「火曜日」108号から転載されていたので、連続である。その時も知らなかった。
まあ、『柵』主宰者の志賀英夫さんが取り上げて下さったのだからヨシとしよう。
で、志賀さんだ。うちの店にも十数年前に一度だけおいで下さったことがある。「風媒花」同人の詩画展を催した時だ。
その志賀さん、先日お見かけした。杉山平一先生の葬儀に箕面からお見えだった。年行かれたなあとこちらから見ていたのだ。お声をかけなかった。もう私なんか忘れておられるだろうと思っていた。多分顔はお忘れだろう。こんなことなら、お声をおかけするのだった。
久しぶりに宮崎修二朗翁をお訪ねした。夕刻いきなりである。ちょっと食料をお持ちしたのだ。
帰りに持たされたのは、詩誌「柵」の4,5,6月号。そして、宮翁さん宛の古い書簡。
探偵作家、香住春吾から宮翁さん宛のもの。昭和41年3月9日の日付。
丁寧な手紙である。香住は1909年生まれだから、この時57歳。宮翁さん、46歳だ。しかし手紙の一部に「宮崎さんになにかと指導して頂いたお蔭で今はどうやら呑気なことをいっていられます。ほんとはもっとえらくなって、宮崎さんにも自慢して頂ける男にならねばならぬところですが、非才を如何にせんです」とある。
これを読むと、やはり昔から宮翁さんは、「触媒」に徹しておられたのだ。
それはともかく、今日の宮翁さん、書斎で勉強中。お元気そうで良かった。