日曜日に舞鶴へ出かけた。目的はとれとれ市場で魚を調達すること、ついで吉原という街を徘徊することであった。魚はともかくとして、吉原という街がなかなか空間として心地よいところだ。中央に海から続く水路が走り住宅地の最後で止まっている。その水路に接するように両側に民家が密集して建ち並び、水路沿いの岸辺に各民家ごとに船を係留し、そのまま海へ漁に出られる構造になっているあたりは昔風の合理性である。そして狭い曲がりくねった路地が民家を貫くように続く。曲がりくねった路地沿いに民家の家並みが変化があって空間として面白い。
特に地元で観光に一役立てようという意図がないところも心地よい。そして路地沿いには、おそらく町内会組織が確立されており、地域共同体としてのコミュニティがしっかりあるのだろうことをうかがわせるお地蔵さんの祠が随所にたっている。それ自体がそうしたコミュニティの存在を示しているわけだ。つまり祠というのはほっとけばよいものではない。ちゃんと掃除をしないと次第にくずれてゆくものなのだ。
帰りに駅前の商店街を歩いたが、店はシャッターを降ろし大変閑散としている。駅裏の商業量販店が日曜日の買い物客を一手に集めているようだ。こりゃあかんなと思いながら通り過ぎた。全国どこの地方都市でみられる風景だといってもよい。
そんな街だから早々と特急列車は最終便が出てしまい。綾部まで各駅停車で行き、そこで特急へのりつぐことにした。それにしても綾部の街の閑散としていること。駅近くにはなぜか温泉とマンションが建ち、当然コミュニティなんかあろうはずがない。
吉原の街と比較すると、その差は歴然としている。コミュニティの存在が暮らしやすい街とそうでない街を分けているようだと感じられた。戦後の核家族化の中で、町内会組織による地域共同体が失われたところも多い。本当に町内会組織がなくてもよいのか。かまわれなくすむ気楽さはあるが、隣に誰が住んでいるかもわからない部屋にずっとこもっていることが本当に気楽といえるのだろうか。近所でなにか事が起きたらどうするんだろうか。そうでなくても街が災害に見舞われたら、やはりコミュニティがないと支給の食料だって届かないだろう。そんなふうに考えると、いささか綾部駅前をみていると疑問な所も多々ある。やはり街には地域共同体というコミュニティが必要だと思われる。
そういう私も今年は地元町内会の会長であり、これからいろいろと催事などで大変であるが、そういうことが町内の人をまとめてゆくことになる。住宅地ではコミュニティは、必要な機能なのである。