図1.早稲田界隈 古民家長屋が軒を連ね早稲田大学に通う学生達の下宿屋だっただろうか
図2.学習院下 背後の杜が宮様も通われた学習院
図3.面影橋のあたり
図4.東池袋のあたりだろうか?
図5.所在地不明、荒川車庫???
図6.終点三ノ輪橋
鉄ちゃんに連れられていった1967年の都電銀座線廃止後、順次都電がなくなってゆくのを肌で感じていた。ならば今のうちに撮っておこうと当時は考えた。それに街歩きが面白いと気づいたのもこの頃だ。特に早稲田の古民家の裏を抜けて、学習院下、雑司ヶ谷、大塚、飛鳥山、王子を経由して三ノ輪橋に至る都電32系統に興味をもった。なんといっても古い地名が数多く登場し、専用軌道であることがユニークだし、それにこの沿線の街が面白そうだ。
図1の早稲田界隈なんか古い下宿屋の裏を抜けてゆくなんざあ、当時のフォークソング南こうせつとかぐや姫の「神田川」で歌われた街がまだ残っているではないか。作詞家の喜多條忠は早稲田大学に通っていたから、この界隈をよく知っている。当時の早稲田大学の界隈には古い下宿屋が多数残っており、そこから数多くの著名人を輩出した大変個性ある大学街だ。あの早稲田文庫という喫茶店は、今もあるだろうか。
図2は、都心に近く少しハイソで一寸住みたいところでもある目白。あの我が国を代表するプロダクトデザイナー榮久庵憲司を擁したGKデザインのアトリエも、この目白にある。
図3は面影橋に向かうあたりだろう。小さい頃練馬の叔母の家にゆくのに池袋まで都バスに乗っていると、途中でみえるこの専用軌道がなんだろうと思って気になっていたところである。そんな幼少期の思い入れがある面影橋だ。その後、都電の背後に新宿の超高層ビル群が立ち並ぶ風景が見えるのも、このあたりだ。
図4.は数寄屋橋行き都電との交差部だから東池袋あたりかな?。高度経済成長する前の姿といってよい当時の民家のスタイルが伝わってきて、たっぷり昭和の空気なのであった。当時建築物は2階程度だったが、今ではサンシャイン60の超高層ビルが間近に見えるはずである。
図5は、場所がわからない。都電32系統の車庫は荒川車庫だが記憶曖昧。あるいは小さな車庫があったのかもしれない。それでも当時の、のんびりとした空気が漂い、高い建物は皆無で、背後に広がる青い空が見えていた時代であった。そう当時の東京の街の風景には、タップリと青い空が見えていたのである。
図6は終点三ノ輪橋。ホームに面して商店がつらなり、その先の狭いアーケードがやはり下町固有の魅力的な空間だったことが記憶にある。
このように都電32系統は、青春の街、宮様が通うハイソな街、古くからの住宅街、池袋副都心、巣鴨あたりの場末をぬけ下町に通じるという、1967年、東京の街の断面図みたいな路線であった。
都電32系統は、ほとんど専用軌道を走り代替交通機関がなかったので廃止を免れ、現在東京さくらトラムとして同じ路線で運行されている。むしろ大きく変わったのは街の方だ。どこも垢抜けした街になり高層マンションやビル群の足下を電車が走る姿をみていると、もうあのときの街の空気、そう神田川に歌われた街の世界は既にないだろう。だから再度訪れたいとは思わない。
都電32系統荒川線、1967年12月
Canon6L,50mm/F1.4,Tri-x