訪れ先に尋ねたい人がいるときに出かけるのが、旅の動機だといってもよい。友達、親戚、教師、恋人あるいは昔の恋人といった具合に。留学というのも立派な旅だ。
だから尋ねたい人もいない観光旅行でガイドブックに載っている観光地にゆけば、みんな同じような物をみて、同じような写真をとり、同じようにWEBにアップされて、結果としてステレオタイプ化してくる。
例えばGoogleで小樽と画像検索すれば、あの運河沿いの風景ばかりが山のようにでてくる。だから観光旅行はステレオタイプ化する傾向がある。さらに費用をかけたのだから、それでよいのだと自分を無理無理に納得させる欺瞞的な意識の操作が必要だ。
私にいわせれば、観光地とか世界遺産などは、およそつまらないので、ついでにゆくぐらいで調度よい。ついでにいって感激すれば、そりゃ、それでよかろうというわけだ。それよりも自分の感性で見た風景を探す方が面白い。
私にとっては反面教師であるメディアで、最近そんなマイナーな旅番組をみかける。彼らも観光地がつまらないことに気がついている。といってそんなマイナーな地域を尋ねても視聴率は上がらないので、早晩消え去るか、あるいは陳腐化するだろうと私は予想している。
そんななかフォトグラファー達は、私が述べたような旅を実践し斬新な視覚を切り取り写真集などで公開している。例えば黒テンの毛皮のコートに金縁サングラスをかけたオバ半の姿に、ああっ、これはまさしくロシアだと思わせるものがある、といった具合にだ。
私がいうところの旅とは、私の感性が刺激し持ち帰ることのできないその場のリアルな瞬間や空気を記録する行為だと定義できる。持ち帰ることができないから撮影という方法で感性や刺激の断片をメモするわけだ。
さらに危険を顧みずとなれば、フリーランスの戦場フォトグラファー達がいる。なにしろ私達ではみられない画像を代わりに撮ってくるので、今世界は、こうなんだと感性と理性を痛烈に刺激してくれる。
だから日本のテレビ局もそんなフォトグラファー達に外注ばかりしていないで、時には自ら撮影機材をしょって戦場へでかけて取材をすべきだろう。頭上を砲弾が飛び交うなかで現地リポートを発信しろ!、飛んでくる砲弾を撮せ!!、破壊される瞬間の建築や戦車を撮せ!!!、といいたい。そんな風に私が旅にでたときのリスクを肩代わりしてくれるところにメディアの役割がある。つまりテレビ局は視聴者の身代わりであり私達の眼のかわりだ。テレビの視聴者は、そんなリアリティを求めている。
開高健:ベトナム従軍期,朝日文庫,1990、は朝日新聞社の特派員として作家が戦場に赴いた数少ない戦場のリアリティが表出するドキュメントである。朝日新聞社のカメラマンが同行していた。彼らは、200人の兵士達について戦場にゆき、戦闘の結果17人しか生還しなかったなかにいた。
フィリピン,ブラカン州、ピットピタン
EOS1DsMark3、EF28-300mm/F3.5-5.6L,IS,USM
1)ISO3200,焦点距離70mm,露出補正0.33,f/6.3,1/100
2)ISO3200,焦点距離60mm,露出補正0,f/4.5,1/30
3)ISO3200,焦点距離70mm,露出補正0.33,f/5,1/60