今年の1月10日のブログで小樽妄想旅行を書いた。妄想としたのにはわけがある。今積丹半島の集落に出かけても、そんな雪国らしい風景が撮影できるということは疑わしいからだ。民家は新建材の建物に建て替えられ、村をあるく住民はノースフェイスのレインコートだったりする。もちろんだるまストーブの雑貨屋はコンビニに変わっているだろう。
つまり私達の生活環境が変化し、混沌とした空間がなくなりり整然としてきた。一方で小樽では、100年以上続いてきた手宮市場が廃業されるなど流通構造が変化しつつあり、住民のライフスタイルも変わり、次第につまらない街、つまらない日本になりつつある。
今の日本の市場を歩いていると、なによりも子供達の姿をみかけなくなった。以前の日本ならは、親が働いている姿をみせるのも教育だったし、成長すれば仕事も手伝わざるを得ない。もちろん市場を訪れる子供達もいない。いまは高等教育を受けさせるために、子供達は塾や習い事に追いやられ、高等教育を受けて大企業のサラリーマンをめざす。その結果店自体も後継者がいなくなり廃業するところが多い。
そんな現象の一端にゆきあたると、混沌としていた空間が消え去り、整然として、ライフスタイルもステレオタイプ化し、「つまらない日本」、という言葉が浮かび上がってくる。日本は次第に、つまらなくなってくる。今は、つまらなさの一時をスマホがうめている。つまらないという言葉が暗示する意味に、国民も政府も無関心だ。
そんな時に、フィリピンのマロロスの市場を訪れたら、夫婦で店を切り盛りし、そんな親の姿を小さな子供が恐る恐る眺め、成長すれば店の戦力として働き、そして市場を冒険のワンダーランドのように走り回っている子供達がいた。好奇心と冒険心とで子供達の眼は輝いていた。
1つの仕事を夫婦で、親子で、生活の経験をし苦労するということは大切なことだと私は思う。今日本は旦那は会社で、奥さんは別会社で、子供は塾や稽古で、と1つのことを家族で経験し苦労し共有し共感する機会が少なくなってしまった。精々趣味程度の共有もどきではねぇー・・・。共有や共感がなければ、もはや拡散した疑似家族、仮面家族、あるいは合法的な生殖・生育システムだけ、といってよいかもしれない。
日本は、家族で生活の共有や共感といった大切な経験を捨ててしまった以上、もはや回復できず、すでに万事遅いのであろう。
フィリピン,ブラカン州マロロスの市場
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