Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Village Design 19.  大理・周城

2007年11月05日 | field work
 周城の集落は、概して日本と似ているが、少し異なるのは、日本のような鎮守の森がない。宗教が違うから当然なことである。その変わり集落の四つ辻に、オープンな広場的空間がみられる。写真にあるように、大樹がシンボルマークとして立ち、少し不整系な四つ辻が広場的な空間となっている。
 そういえば、喜洲鎮では、明快な空間的広がりを持った広場があった。雲南省の集落は、どちらかといえば、ヨーロッパ的な空間形成に、近いのかもしれない。教会に該当するのが儒教寺院であり、その玄関先が、東屋や池泉を配したレストスペースとなり、市が立つなど広場として使われる、といった具合にである。
 私は、集落民居を尋ね歩いているのだが、独自の文化をもっている少数民族に関心がシフトしてくる。人間にはまるというべきか。実際に、撮影対象も民居よりは、次第にこの土地で暮らす人間の方が多くなってくる。
 周城の広場を徘徊していたら、店先に座り込んだ怪しい静かな気配を感じ、なんとなく私はシャッターを切っていた。帰国後スライドを眺めていたら吹き出してしまった。なんという怪しい哲学的な老人達。人民帽に文化大革命時代の名残がみられるが、そんなモノゴトとは関係なく、その人なりに、この土地で長く暮らしてきた風貌がすごい。ここでは、こうした老人達が佇んでいること自体、至極当然の風景として、周囲にとけ込んでいた。
 実は私達が、雲南省の集落調査していた際に、時折こうした哲学的な老人達を見かけた。話を伺うと、穏やかな口調で、文物や地勢を理解し、漢詩などの素養を感じさせ、顔立ちは知的であり、そうした姿全体から知性が感じられた。私は、文化の哲人だとおもった。そこに日本より古い文化を有する泰然とした中国の姿を感じた。
 そう思えば、老人達が片隅に追いやられた日本の大都市の風景は、異常であると私は思う。排除する側にも、排除される側にも、ともに哲人的な眼差しを感じるような人物は、先ず見かけない。老人達の姿をウザイ!と思う人間と、老人であるとすることへの甘えの構図が、ぶつかり合っている状態にしか、見えない。日本では、料理の鉄人はいるのかもしれないが、聡明な文化の哲人はいないのだ、と私は思った。
 
1999年8月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
CanoScan9950F
コメント
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