暮らしと生活

「幸せに暮らしていました」と言っても、「幸せに生活してました」とはあまり言わない。中身は同じなのかもしれないが、感じが違う。「田舎暮らし」はイメージしやすいが、都会は「都会生活」の方が似合う感じだ。昔話ならほとんど「暮らしていました」となるだろう。暮らしには共同体的な季節や自然、周囲の人との関係も含んでいる。「生活」はどこか都会的で、周りのものがそぎ落とされてる感じにになる。
それでは「都会暮らし」はどうなっているのだろうか。例えば「家族の暮らし」はどうだろうか。昼食は別にしても朝ごはんと晩御飯だって家族はどのぐらいそろっているか。詳しくは書かないが、教室に来ている子どもたちに聞くと、そろっているのはほんの1部で例外的にさえ見える。当然家族団らん、家族のコミュニケーションなど望むべくもない。家族のお出かけはあるがあれは暮らしとはいえない。(恥ずかしながら、私自身子育てが終わってから気がつきました。)誰しも何とかしようと頑張ってはいるのだが、社会や生活の仕組みの壁は簡単には破れない。人は落ち着いた暮らしがないから、他のことで紛らさざるをえない。今や、田舎も似たり寄ったりだろう。とどめようなく続いてる異常な社会現象は
日本全体に広がっている。
ところで、暮らしのないところで、子どもが生まれ育つとしたらその子どもはどうなるだろう。
「暮らし」の中には心の居場所を含んでいるように思うが、もしこれが子どもに与えられていなかったら、あの小さくやわらかい赤ちゃんの心はどうなるだろう。健康に丈夫に大きく育つだろうか。この実験はすでに何十年と続けられている。、結果も目に余るほど出ている。
政治家も学者もメディアもほうたらかしならまだしも、さらにアクセルを踏んで拍車をかけてる感じだ。私自身もこうして書くぐらいしか出来ない。あせる気持ちはないが、自分は何が出来るだろうかと考える時間は増えている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )