奇蹟なのだから

子供のころ、夜の星空が大きかった。
 学生時代、あの何万光年の見えるか見えないかの星の向こうを想像したが無理だった。
 今,あの想像できない果てしない向こう?から、満天の星のかけらとも見えないこの地球を想像した。
 無限分の1の存在だから、あってもなくても良いぐらい。時間的にも前後の無限の時間から見ると、人類が地球上に出てきたこの数百年万年も、無限分の1で、あってもなくても分らないぐらいの大きさ。
  無限分の1の一人の人間やその一瞬の心も、奇跡中の奇蹟で
   ある。
  しかし、
分子の1からみると、 1である事に違いなく意味は無限に大きい。
 
 分子である1を生んだ親は子供の幸せを願わない親はただの一人としていない。生まれた分子の1も己の幸せを願わなかった者はただの一人としていない。
 無限分の1には奇蹟と願いの意味がある。
 地球上のどんな人との出会いや出来事も奇蹟的で生来的な意味をもつ。
 果たして地球や地球上の人々はそうなっているだろうか?生来の意味を忘れていないだろうか。
 無限分の1の地球や一人は奇蹟からも親や己の願いからも離れ、地球を壊し、あれこれ理由をつけては間仕切りし争い、親や己が願っていた幸せとは等しくないものを追い求めていないだろうか。
 奇蹟を知り一つ一つ丁寧に幸せを願わない限り、幸せにはならない
 それどころか、遠い星のかけらの「馬鹿げたヒトの話」で終わる。

子供のころ星空を見てそんなことは思いもしなかった。 

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