世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
自戒
社会には常に協力・競争関係が存在するようだ。
対立関係は協力関係が破綻し競争関係を越えた段階ではないか。
現代社会は比較競争や対立関係が主流になって政治経済を動かしていいるように見える。
国会における与野党の質疑応答は(まともな質疑応答)の体をなしていない。
はじめから、質問者は相手をいかに罵倒し答える方は如何に曖昧にし誤魔化すかに知恵を使う。
非創造的で非生産的な論議を長年繰り返してきたのだから、行き詰まりは当然と言えば当然の帰結。
加えて、マスコミは情報を一方的に流したり流さなかったり、隠したり誇大宣伝したりして、スポンサーと世論を売買しているかのようだ。
社会のこの構造が拠つ立つ地球を壊し、安全を脅かし、経済を崩壊させ膨大なツケを子孫に残した。
(飛ぶ鳥後を汚さず)と言うが、こんなことをしていては我々は(尻も拭かずにタレッ放しの飛び立つ鳥)ようなものではないか。
日本の頭脳である都知事の(我欲)云々は、尻ぬぐをさせながら尻拭いしている嫁にブースカいう頑固なボケ老人を連想させる。
お互いに自戒しないと…
しかし、根底的には地球への1元化と地上の多様性は確実に進んでいて、国の在り方や仕組みが問われだしていることも事実である。
産業を別にしないで
復興・首都・エネルギー・財政・税・社会保障・少子化対策が国会はじめ討論会などで取り上げられている。気になるのは、それぞれがそれぞれの区切られた分野での話に終始していることだ。
社会の出来事は経済社会の中にあってそれと離れて区切られて存在するものはない。
しかし、上記のようにことが、専門家であれ政治家であれジャーナリストであれ区切って論じられることが多い。
そもそも 経済の土台は産業であり、 産業を離れて論じて、意味があるのか?と疑問に思う。
たとえば原発事故は産業における利潤追求の効率化が原因していたはず。
とかく議論が、具体性を帯びるにつれて隘路に入りタコ壺論議になる傾向がある。
政治は各分野を総合するのが仕事のはずだが、政治家自身が政治家としての専門分野になっている。
政治の議論では、むしろ事実を全体的な中で考えるために、経済や産業の(概念のとらえ直Iし)ぐらいのことが求められているのではないだろうか。