世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
「責任」の乱用
「私の責任で」と大飯え原発を再稼働した元首相はもうその座にはいない。汚染水や消費増税で現首相は国の内外に公約して回っているが、どんな意味で「責任」の言葉を使っているのだろう?
責任をとって辞職されても被害を受けた人には何の償いにもならない。他所のガラスを割って責任をとるとは弁償することであり、他人を傷つけた場合いくら刑罰を受けても、真の責任は取れない。要するに責任には取れる責任と取れない責任があって、首相たちの用いてる責任は元々取れない責任を取れるかのように言う、単なるホラ(大言)でしかない。
それをマスコミはフリーにパスし、世界の人々もパスする。
しかし、そんな物言いが積み重なるとその使い方を見抜かれ、信用を無くし当てにされなくなるのは世の常。
このタイプの責任の取り方はかなり蓄積しているようだから、国際化の時代に「日本人の文化」ととられないかと気にはなるだけでなく、国内的にもこrが醸し出すものは人心や子どもにも良い影響は与えない。
政治はモラルに尽きるとも言われるが、反対に帝王学と権謀術をカン違いしているのかもしれない。
素直でない自分
子供は「素直で可愛い」と思ってる親や大人が多いようだが、どうだろう?
大人がそう思いたがるのは身に覚えもあるし分かるのだが、果たして子供たちには素直で可愛いくしていられる環境が与えられているのだろうか?
ちょっとたら、子どもが親を喜ばせ、心配かけまいとして先回りしているのかもしれない。
かも知れないと言うより、経験上はそれが大半だった。
考えて見れば我々は地球を怖し膨大な借金を背負わせ、勉強でぎゅうぎゅう詰にし、虐待と間違えるような状況に追いやっているのだから、「素直で可愛い」と大人は罪滅ぼしをしなくては身が持たない。
「自然は美しく子供は可愛いい」式の大人の会話やマスコミの取り上げ方を見ているとへそ曲げて見たくなる。
教育の役割
世界の政治や経済の行き詰まりは近代化の限界に起因していると思うが、教育も同様に人為を優先した自然からの乖離が問題の発端になっていると考えている。
経済社会が自然から遊離していく中にあっては教育は自然にそれに飲み込まれていく。
日本で顕著な不登校・発達障害・学力問題・いじめ・暴力の何れも自然の欠如が作用している。
自然環境だけでなく大人や子供の自然への感性もが失われつつある中での現象である。
子どもたちを豊かな自然環境の中で自然の感性を呼び戻しすことで、子供の抱える課題が改善するだろうとの仮説をもって検証作業をしているが、やぶの中だからか興味は尽きない。
経済や政治が自然を正当に扱う展望が持てないように、教育もまた自然を正当な位置に取り戻すのは気が遠くなるほどの手間と時間がかかるだろう。
しかし、政治も経済も教育された人間の活動だから、教育や文化の分野から切り開らかれるのはこれまた自然かもしれない。
希望の灯は消せない
これだけ大地の傷みが留まることなく進む中でどんな希望を見い出せば良いのか。
希望無しに生きるのは大人であっても難しいのだから、子供はどんなに困難を背負わせている事か。今の世界にあって子供たちの眼は未来に向けどれだけ輝けるだろう。
しかし、自ら望んで出生してきたのではない子供たちには、大人はだれもがどんな場合も希望の灯を見せてあげる立場いいる。
今やるべきことは、大地の傷みは身勝手な人間活動を競い争った結果であって、やがてその矛盾に気が付き、直せるのが人間なんだと、子供たちにはっきり伝えることではないだろうか。特に経験を積んできた老人に求められる仕事だ。