世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
内閣支持急落の私の見方
福田内閣の支持が急落し、民主党に支持が上昇していることが、今朝の朝日新聞1面トップで大きく取り上げていた。
政治批判を多くしてきた私だが、この報道は嬉しいどころか、日本経済の先行きのようにいっそう不透明感が増し、宙に目が行った。
自民党や政府への逆風が強まり、民主党への支持が高まったとも報じている。
私には単なる国こぞっての混迷した姿にしか見えない。
いろいろな面で行き詰まり、にっちもさっちも行かなくなるだろうとは、2年前の小泉さんの郵政解散の選挙後予測し、その状態なったことも先の安倍首相が辞任した際も、この日記に記した。
世論調査の結果を受けて、福田さんが「正直言って、ここんとこ、いい事ないですね。まあ、やむをえないかなと思っています。ただ、間違っている事をしているとは思いません。」とも述べたらしい。ある意味、福田さんの言うとおり、間違っている事をしているとは思わないし、気持ちが痛いほど分る。
そのことより、 世の中【当然自分自身を含め】が、因果関係【物事の原因と結果の関係】を丁寧に問わなくなって久しい。ある意味、世界中が同じようだった。
海原で、船の舵を手放したような現在、、『自然へ帰れ(ルソー)』のメッセージは洋の東西南北全ての民族の根源的普遍的価値観に合致するに違いない。そもそも人類も生き物も自然に対応しなくては 生きられなかったはずである。世界中どこの誰からでもいい、この「自然の理」を(しっかり)回復しょうとする声が出され、その声の広がることを日本や世界の現状が求めていると思う。
現状の求めから目をそらした他者だけの批判に終始するなら、それは逃げの抗弁にしかならないし、現状を放置することを意味するのではないか。
朝日新聞も国民(世論)も責任を他になす、(りつけ、その実、他に依存する変な真似は止めたほうがいい。(世論調査の結果と分析にそれを感じる。)
微々たる悪弊も、長期間続くと、分らなくなる。
これは社会も個人も違わないだろう。
地球の平和
一国の平和は勿論だが、環境や経済が地球規模で変化し展開しているのを見ると、どうしても地球の平和地球規模で考えなくてはならない。
ちょっとしたら将来、地球の平和が一国の平和の前提条件になる時代が来るかもしれない。(やがては来るはず。)
だとすると、現在我々は地球平和の戦略を描く必要がある。地球の平和戦略だけでなく、地球の経済経済戦略、健康・文化など幅広く地球の戦略を描くことが求められる。
今は、国連がその任を背負っているかもしれないが、各国の一国主義的な政治は国連が地球的な戦略を描き、その任の遂行を難しくしている。国連の機構自身そうはなっていない。
「理想と現実」と言ってしまえばそれまでだが、私が子供だったころとは比較にならないぐらい、現実の実態が変化し、「理想」として気楽に棚上げできないところまできているのではないだろうか。
地球温暖化の世界的な政治的課題はここ1~2年、急速な進展を見せ、その可能性を物語っている。(このテンポでも地球の現実には追いつけないぐらいだろうが。)
経済、とりわけ資源戦略は否が応でも世界的な戦略が求められるが、これも世界を超えて地球的な戦略にならざるを得ない。そしていつの日か、私的戦略ではなく(公的な政策)になる。
人口問題、食糧、水,防疫などなど、殆どが地球的な課題である。だから、地球を一個の星としてではなく、一個の【丸い文化体】?として考える、それが常識だと良いなあー。政治の指導者にこの一言でも聞けたらなー。
超高性能な望遠鏡で月から見た【丸い文化体】がどう見えるかは、いつか書いてみたい。
先ずは、家の掃除をして友達のところへ遊びに行ってくる。
「批評空間」の意味
先日、雑誌『世界』の中から、仏の学者ベルナール・スティグレールの『批評空間』について書いた。その意味がまだ私自身が曖昧なので、復習の積もりでその人の言葉をなぞって見る。
①象徴的[言語]貧困と、批評が減退してるのは『実践』の後退ではないか。実践なしに言語を識別することは出来ない。知の消費主義の発達が実践知の後退や破壊を生んだ。
②話し手が、話されたたものの中から何かを識別し、それに対してシンボルを返す。つまり批評することがが出来なければならないのです。
誰かが話して、それを理解するためには、じぶんの話が出来なければならない。言葉や文字やイメージを受け取りそれを送り返す、『象徴環境とは』そのような『交換』『分有』のための環境[空間]のことです。
私が考えたのは、日常の会話であろうと、授業や公演であろうと
一方的な話は批評空間の保障されないある意味人権を無視した無意味な空間である、と言うことだった。
特に、会を企画する人は気をつけたほうがいい。
警戒警報
多分、昭和20年の敗戦前のことだと思うが、近所のおじさんがメガホンを持って『警戒警報!警戒警報!』と大声で走って回った。我が家では、玄関の柱の釘に「警戒警報」の木札を掛け家族全員が庭先に掘った防空壕に駆け込んだ。あの時は何事もなかったが、場合によってはあの後、『空襲警報』の呼びかけで,木札を裏返し、赤色の地に墨で「空襲警報」と書いた面をに架け替えるとのことだった。
あのときのことは今でも焼きついている。
今、経済が行き詰まり・突然政治の大連合が模索され・犯罪の頻発する社会・教育や文化の崩れ。
これらを見てると、いつどこで何が起きてもおかしくない不吉さを感じる。少しでも犠牲を少なくするため、あのときの『警戒警報』でも、台風前の『注意報』でもいいから、皆に知らせまわるタイミングではないかと思う。サイレンまではいらないが、赤信号の点滅ぐらいはあったほうがいい。転ばぬ先の杖。
朝方、布団の中で、そんなことが思い浮かんだ。
だからと言って、(0か1)と考えている訳でもない。
一昨日は、ハトが、昨日はススメがベランダのところに3ヶ月ぶりに来て、撒いたお米を食べていた。ほうとした。
今日も近くでスズメの声は聞こえるし、影も見える。さっき、お米を多めに撒いておいた。
自然の回復力だけは間違いないからなー。
今、酷いと気付いた3つのこと。
1、批評空間を保障。 一方的に話をしたり、聞かされることの、人権感覚の鈍さに気をつけたほうがいい。
2、権力者のよく使うプラスチックワードはそれに反対する人たちも逆の意味でよく使う。
3,12月17日朝日新聞の社説 産業力Aクラスを保つ3本柱 の大見出しで横に 希望社会の提言8
・生活密着型のサービス産業を守備の要に
・金融を鍛え、ものづくりを磨いて反転厚生へ
文末は農業から製造業へ、さらにサービス業へと産業の構造は変わっていく。グローバル化は国際分業を促し、途上国に譲らなければならに分野も出てくるが、要は、高く売れる産業が生き残ると言うことだ。 とまとめている。
せめて「中長期の産業構造へ」ぐらいの提言があってもいいのに、これでは超短期の「濡れ手に粟産業」のすすめではないか。
これだから経済だけでなく、世論から世相までおかしくなる。「選挙、選挙」」と言う朝日が選挙を空洞化させ、モラルを低下させている。
戦前の朝日の報道の反省の言葉を大にしながら、今も同じことをやっている。
その事に、朝日は気が付いていいるのか、いないのか?
エミッションの経済(神話としての「経済成長」の限界)
現実の経済は、「経済ゲーム」のようで、換金するのも不確かなゲームセンターでコインを追い求めるかのようだ。
変調をきたしてる地球でせこせこ、コインを追い求める姿を月から望遠鏡で見ると、どんなに哀れで滑稽に見えるだろう?
よかったら、どうぞ!
2年前、このブログと一緒にもう一つ他のブログ(アメーバー)で日記を書いていた。
それは1年ぐらいで止めた。このブログに写す方法が分らないのでそのままにしている。
dozidoziで検索 日記の名は「今思う」
初めのころは書き分けていたが、面倒なのでこのブログ一つにした。この日記もそうだが、特にあのころはどこから書けばいいか分らなかった。この日記と同様、かなりの誤字脱字集である。
よかったら、どうぞ。
見識の境
昨日、国会の質疑応答を見ていて、今日の世界的な見識の到達点を見る思いだった。決算委員会だったので外交・経済・格差など国の内外の今日的な問題について質疑は展開された。その中で首相の応答ではっきりしていたのは、「共生と自立」の意味は従来の経済成長路線を基本にして、外交や国内問題の改善を図る。資源やエネルギー問題は更なる開発や倹約やリサイクルでカバーすると言う。これまで首相の見識には個人的に嫌いではないし、実際首相は見識と実権を持った最高の立場にある人でもある。しかし、首相の答弁は結局、無尽蔵な資源の開発を前提とした従来の産業構造の延長線で経済発展を考えているようだった。この経済観が行き詰まるのは自明なこと。私は地球の有限な資源をしっかり視野に入れた論文や話を未だ耳にしたことがないが、政治家だけでなくて良い、経済学者であろうと自然科学者であろうと芸術家であろうと、普通の庶民であろうと子供であろうと(子供は、思考が組織化されたり思考停止になっている大人や専門家より感覚的に気が付きやっすい立場にいるから)誰でもいいから、そんな当たり前の話が聞きたい。有限な地球の産業は地球的に人類の自給自足しか持続のしようがないはずだし、究極的には人類が食いつなぐ方法は人類が生み出したもので賄う他は有得ない。現在の経済成長は比例的に
(将来的な経済の意味)を失う。経済成長の概念の変更を前提とする以外、建設的に将来は描けないはずである。現代の政治・経済・文化の見識の基本的な境はここにあると思う。
雑誌「世界」の1月号で私の好きな経済評論家の内橋克人さんが「共生と協同?」のテーマで論文が載るので楽しみにしている。是非地球環境や地球資源をしっかり視野に入れた未来の描ける産業・経済の提言をしてほしいと期待している。
世の中の行き詰まりを思わせる【ガタガタ】を【見識の境】を【越える好機】と考えたい。
境を背にした論議や政策や文化的な活動もあまり意味がない。
今までの「価値観や行動様式の見識」が強ければ強いほど、新しい状況の「当たり前の見識」は見えにくく、それを物にしにくいのは、良くも悪くも人間の捨てにくい性質から来るのかもしれない。
学習した力
人も生き物も本能的な生まれながらにして備わった能力と、経験など学習によって獲得した力の合わせた能力によって判断し行動する。能力は皮相的な知識から、資質的な深く根ざした能力まで層をなしているようだ。そして行動は生活習慣や反射的なものから生活習慣に至るものが多いが、意識的にコントロールされた意識的な行動もある。それらの個人差は大きい。長い教師生活をしていて思うのは、思いと実際の行動の差の大きいことである。自分自身職業柄「~すべき」事柄は多く、口にもした。しかし自分がしていることと言う事とは話は違う。教師の「言行不一致」は自他共に認めるところだが、教員を辞めて最近思うのは、これはあまり職業に関係なく「人の普通」だと言うこと。東洋の倫理観に「言行一致」があるが、このズレは自分や他人を見る時の大事な観点だと最近強く思うようになった。特に親子の間ではズレも人一倍強くなっているような気がする。しかも,繋がり(愛情)が強いだけ、そのズレに一層、気が付きにくい。自他共によっぽど心しないと間に合わないな、と思う。
時代の端境期(はざかいき)
歴史年表を見ると、多くの時代を経て現代に至っている。日本だけではない。隆盛だったどんな時代も、賞味期限が切れたかように、必ず、その役割を終え社会的に不都合になると、新しい仕組みの社会に変わっていく。それは絶対王政であれ民主主義であれ社会主義であれ変わらない。さらに年表に表現されるかどうかは別にして地球を一つの社会としてみると、国際関係にも時代と共に、変わっている。地球も日本も、年表で言えば端境期ではないかと思う。現在の価値観や社会的システムを始め、一人ひとりの基本的行動様式まで、現状に合わなくなっているのではないだろうか?日本では「構造改革」とか次々法律を作り世界に適応すべく制度の変更を繰り返すが、世界そのものが経済や環境などで対応の変更を迫られ、国際関係も新しい枠組みが模索されている。全体的に模索と言うより、混迷の感がないでもない。内外の社会のシステムをどのような形に変えるか、その基本的な方向が見えない。そういう中で我々一人ひとりの価値観や行動様式も混迷し定まらない。一般的には時代の端境期だからしかたないかもしれないが、欲もからんで「目の前のお金を追い掛け回した」この(無限を前提にした)時代が続けられなくなり社会も個人も新しい生き方を模索しているとは言える。社会も個人も、(有限)に気が付けば、もう少し話は早い。自分の命が有限なのに、お金や物が無限なはずがないことは分りきってる。
自然の法理に背いた現代文明だから、来るべくしてきたと言える。政治・経済・文化など文明を本来に戻す方向以外解決しない。(言うまでもなく、ここでは政権交代・政治体制の変更等、政治の端境期程度のことではない。)
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