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先週、藤岡琢也さんのジャズ葬が営まれ、生前交流のあった岸ミツアキさんによる献奏で旅立たれた。演技の枠を超えた人情味溢れる「渡る世間は鬼ばかり」のお父さん役は忘れられない。インスタント・ラーメンのCMも、その温かい人柄により一層美味しく映り、インスタント麺は札幌一番と決めていたくらいだ。
藤岡さんは、自身でもトロンボーンを演奏され、「Let's Swing Now」という5枚のアルバムでプロデューサーとして選曲に関わるほどジャズへの造詣は深い。「今夜はジャズで」という著書に、昭和28年に大阪でJATPを聴いたことによりジャズに開眼したと記されている。オスカー・ピーターソン、ジーン・クルーパ、それに藤岡さんの言葉をお借りすると、「フリップ・フィリップスなんてアメリカ製のタバコみたいな人や、レイ・ブラウンはレス・ブラウンの間違いじゃないか、エラ・フィッジェラルドも長ったらしくて舌を噛みそうな名前だからたいした歌手じゃないだろう」という顔ぶれだ。今にしてみると豪華メンバーである。
JATP(Jazz at the Philharmonic)は、ピカソの蒐集家としても有名なノーマン・グランツが、ジャズ・コンサートを主宰して全米ツアーで成功させたもので、その実況録音がヴァーヴ・レコードの出発点になっている。今でこそライブ盤は珍しくないが、興業のライブ音源をレコード化したグランツの慧眼は驚くべきものがある。全米ツアーで成功したあと、ヨーロッパ、日本でツアーを重ね、ジャズを世界に広めた功績は大きい。戦後間もない昭和28年にJATPを聴いたことで一気に日本でもジャズ・ファンが増えたであろうことは容易に察しがつく。
「俺はタクヤだよ、ブタヤという奴がいてトンでもないよ」と笑っておられたのを思い出す。台詞は必ず憶えて稽古に臨み、台本を持ってこなかったという藤岡さんは、ゆっくりジャズを楽しむ暇はなかったかもしれない。これからは「今夜はジャズで」ではなく、「今夜もジャズで」寛いで頂きたい。享年76歳。合掌。
藤岡さんは、自身でもトロンボーンを演奏され、「Let's Swing Now」という5枚のアルバムでプロデューサーとして選曲に関わるほどジャズへの造詣は深い。「今夜はジャズで」という著書に、昭和28年に大阪でJATPを聴いたことによりジャズに開眼したと記されている。オスカー・ピーターソン、ジーン・クルーパ、それに藤岡さんの言葉をお借りすると、「フリップ・フィリップスなんてアメリカ製のタバコみたいな人や、レイ・ブラウンはレス・ブラウンの間違いじゃないか、エラ・フィッジェラルドも長ったらしくて舌を噛みそうな名前だからたいした歌手じゃないだろう」という顔ぶれだ。今にしてみると豪華メンバーである。
JATP(Jazz at the Philharmonic)は、ピカソの蒐集家としても有名なノーマン・グランツが、ジャズ・コンサートを主宰して全米ツアーで成功させたもので、その実況録音がヴァーヴ・レコードの出発点になっている。今でこそライブ盤は珍しくないが、興業のライブ音源をレコード化したグランツの慧眼は驚くべきものがある。全米ツアーで成功したあと、ヨーロッパ、日本でツアーを重ね、ジャズを世界に広めた功績は大きい。戦後間もない昭和28年にJATPを聴いたことで一気に日本でもジャズ・ファンが増えたであろうことは容易に察しがつく。
「俺はタクヤだよ、ブタヤという奴がいてトンでもないよ」と笑っておられたのを思い出す。台詞は必ず憶えて稽古に臨み、台本を持ってこなかったという藤岡さんは、ゆっくりジャズを楽しむ暇はなかったかもしれない。これからは「今夜はジャズで」ではなく、「今夜もジャズで」寛いで頂きたい。享年76歳。合掌。
初心者のころ、惜しげもなくレコードを貸してくれた高校の時のY先生はまさに恩師であります。
私も楽器はできませんが、拙ブログをご覧頂いている方で50歳過ぎからサックスに挑戦している人もおられます。何事も始めるのに遅いということはありませんので、のほほんさんもいかがでしょうか。かく言う私も、いつかはと思いながら40年経ってしまいました。
私は初心者のころジャズ喫茶らしき数店のレコードを全部聴き歩きました。田舎のことですから、せいぜい2~300ですが、そのころの音はいつまでも残っているものですね。
赤松敏弘(vib)と岸さんの初共演ライブを
企画させていただいて以来、浅からぬご縁があります。
藤岡さんもいずれご紹介いただこうと、思っていた
矢先の今回の訃報、まことに残念でした。
謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
藤岡さんと岸さんは、以前ラジオ(FM?)で
「ときめきジャズ喫茶」という番組を毎週水曜日の
夜にやっておられたのですが、水曜日の夜は
何故か何かとばたばたしていて、
「あ、今日も聴くの忘れた!」の連続でした。
結局、一度も聴く機会がなかったのが、今一番の
心残りですね。
藤岡琢也さん、もっと長生きしてジャズを楽しんでいただきたかったのに残念ですね。
ジャズ好きな方の訃報は寂しいものです。
>私は初心者のころジャズ喫茶らしき数店のレコードを全部聴き歩きました。田舎のことですから、せいぜい2~300ですが、そのころの音はいつまでも残っているものですね。
私が初めて買ったアルバムは、リー・モーガンの「サイドワインダー」でした。45回転のドーナツ盤で表と裏で一曲入っているアルバムでした。まだ中学生の時で「ジャズってなんてカッコいいんだろう」と思ったことを思い出しました。それから兄貴にジャズ喫茶へ連れていかれ、本格的にジャズを聴くようになりました。
duku様同様、その頃聴いたアルバムは、今でも記憶の中に鮮明に残っています。
では、では、
岸ミツアキさんと、赤松敏弘さんのライブは、NHK-FM のセッション505で聴きました。良い内容でした。一度、生で聴きたいお二人です。
献奏曲は「ジーズ・フーリッシュ・シングス」、「ドリーム」だったそうです。藤岡さんがお好きな曲だったのでしょうね。好きなジャズに送られて旅立つのはジャズ冥利に尽きますね。
KAMI さん、ジャズ好きな方の訃報は寂しいものですね。
リー・モーガンの「サイドワインダー」は私も随分聴きました。私はLPでしたが、あの頃ドーナツ盤でジャズも結構ありましたね。「モーニン」はドーナツ盤を買いました。表から裏に引っ繰り返す時間が長く感じたのを覚えております。
先ず、藤岡卓也さんへの追悼は、私も書きましたが、本当に残念でした。
偶然、机の整理をしていましたら、引き出しから、1976年のSJ誌の付録が出てきて、藤岡さんがプロデュースしたLPの広告が出ていました。まだ5集の内の3集までで、4集、5集は予定で掲載されていました、近々BLOGに載せたいと思っています。
そして、1953年のJATPが載っているではないですか!
私は1961年のJMを聴いたのがジャズの最初としていますが、実はこの1953年、6歳の時に母と一緒に聴いているのです。
当時は日劇でやりましたが、実はもう一回やっているのです、進駐軍向に、日本人はお断りで、アーニーパイル劇場、即ち今の宝塚劇場で、周囲は米軍関係者のみ・・と言っても私は6歳でわけもわからずに聴いていたのですね。やたら太ったオジサンがとても早くピアノを弾く、・・実はピーターソンだったのですね。(笑)
でもこんな調子ですから、体験とは言えないのです。
母親から聞いて、そうだったのかと言うくらいです。
当時、巷では「KISS OF FIRE」が流行っており、自宅には78回転のSP盤でレーベルにやたら口紅の赤いオネェチャンが写っている写真が印象的でした。
KISS OF FIREは確かタンゴ曲の替え歌ではと・・・また歌手は誰だったのでしょうか。6歳ながら歌詞を覚えていました。意味は不明でしたが、「DON’T BEKIEVE ME」とシャウトして繰り返す歌詞を子供ながらに歌っていました。
これが私のジャズの原体験かもしれません。
私の父の仕事の関係で、アーニーパイル劇場に入れたのです。
アルゼンチン・タンゴの名曲「エル・チョクロ」ですね。
最近では、黒人ベテラン・ピアニストの
ハロルド・メイバーンがよく演奏しています。
3年ほど前にテナーのエリック・アレキサンダーとの
共演ライブを赤坂Bフラットで聴きましたが、
その時もピアノトリオでやってました。
もう、ノリまくりで満場大喜びでした!
ありがとうございます。
そうですね、「エル・チョクロ」ですね。
メイバーンがやっているの思い出しました。
今度自分でも弾いてみます。6歳のときのメロディーの記憶は恐ろしいもので、未だにフルコーラス分覚えています。
写真のライブ盤は日劇のものですが、藤岡さんが聴いたのは大阪梅田劇場で、A席が千円だったそうです。目玉がとび出すほどの高額と記されておりました。1953年はルイ・アームストロングも一般公演をしておりますが、ジューン・クリスティとジョージ・オールドは駐留軍慰問で一般公演はありませんでした。当時の時代背景を反映しておりますね。
「KISS OF FIRE」は、25-25 さんがご指摘のようにタンゴの「エル・チョクロ」で、当時流行ったのはジョージア・ギブス(Geogia Gibbs)です。「火の接吻」と邦題が付いていたようです。その後流行ったのが、「100万回のキッス」、「キッスは目にして」でしょうか。接吻とは時代を感じますね。そういえば斎藤茂吉の作品に「接吻」というのがありました。
宮川一笑の春画にも描かれておりました・・・この時代の表現は・・・高尚なブログに反する内容になりそうです。(笑)
25-25 さん、名盤揃いのメイバーン好いですねぇ。
ハハハ、やっぱり言うと思いましたか。
退散!
ええ?!
昨年の横浜「KAMOME」でやったジョイント・ライブ、
音を撮ってあったってことでしょうか?
それとも、あの初共演を切っ掛けに再演したのかしら?
であれば、小生としてはキューピッド役になれて、
大変嬉しいですね!
赤松氏を中心とした企画ライブはこれまで4回やっていますが、
心残りなのは一度も音を撮っていないことです。
もちろん、記憶には鮮烈に残ってはいるのですが、
記録として残っているのが自身BBSに書いた
拙いライブ・レポだけというのも、ちと寂しいかな、と・・・。
まあ、これからも長いお付き合いになるでしょうし、
もっと回数を重ねてさらに親密になってからでも、
(プライベート録音させてもらうのは)遅くはないかな、
と思って敢えて切り出してはいないのですけどね。
やるとなると、色々とクリアーしなければいけない
問題も沢山あるでしょうし。
>当時流行ったのはジョージア・ギブス(Geogia Gibbs)です。
ギブスのベスト・アルバムを持っているのですが、
そういや「エル・チョクロ」やってたっけな!
けっこう、ねちっこい感じだったような記憶です。
私はハロルドのノリノリのピアノトリオ・ヴァージョン
のほうが好きですね。