コタツ評論

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左利き志願

2010-03-07 01:29:00 | ノンジャンル
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左利きになるためには、まず、衣服のポッケに入れるものを左右逆にしなければならぬ。たとえば、電車に乗る際に必要な小銭。これまでは、ズボンの右ポッケにコイン、左のポッケに紙幣を入れていたが、これを入れ替える。上着の場合も同様に、よく取り出すタバコとライターを右から左へ、ハンカチやティッシュは右に移す。

ズボンの尻ポッケに財布を突っ込んでいるが、これはそのまま。右利き用に、左の尻ポッケには止めボタンが付き、右ポッケには付いていないというだけでなく、慣れぬ左手で財布を抜き差しして落とし、カードを散らばすのを怖れたからだ。背広の胸ポッケや内ポッケも、右利き用に左側にペン挿しなどがつくられていて、これも代えようがない。

さて、駅の券売機で切符を買って、改札を通過するのに、かなり手間取った。ズボンの左ポッケに左手を突っ込み、コインのあらかたを掴み出すということが、うまくできない。右ポッケに右手なら造作なくできることが、左ポッケに左手では、厚い手袋をはめたようにもどかしく、少なからぬコインをポッケの底に残してしまう。

次ぎに、蛇口から水を飲むときのように、器にした掌を揺すり傾けてコインを選り分け、親指と人指し指の腹を擦り合わせて、一枚ずつ送り出したコインを券売機の投入口に入れるという作業となる。たとえば、西武池袋線小手指駅から池袋駅まで、360円の切符を求めるとき、10円玉6枚と50円玉2枚、100円玉2枚を使いたいとする。

左手でこの作業をやってみると、コインの選り分けと送り出し、投入という流れ作業が、遅々として進まない。10円玉と50円玉、100円玉を掌でおおざっぱに寄せ分けることがそう簡単ではない。5円玉や1円玉が混じっていれば、10円玉を入れた後に、続いて親指が押し出した5円玉を入れざるを得なくなり、次ぎに100円玉を入れるような無秩序になる。

5円玉を入れざるを得ず、というのは、その5円玉を親指先から戻そうとすると、掌中の他のコインを落としそうになるからだ。実際に、何度か、コインを券売機前でばらまいてしまったことがある。みっともないだけでなく、かなりはた迷惑な行為である。したがって、間違った、無駄な投入とわかっていても、押し出された5円玉や1円玉を投入口に入れるのである。

改札を通るには、券売機ほどの困難はない。ただし、改札も右利き用につくられていて、切符の吸い込み口は右のバーに空けてある。左手に持った切符を右側のバーに入れようとすれば、少し左半身(ひだりはんみ)に身体を捻って、左手を右側のバーに添わすように改札にはいることになる。それくらいは、別にどうということはないが、向こうから同じ改札を出ようとしている人を、少し戸惑わせることになりかねない。

周知のように、自動改札とは、たいていが双方向につくられている。こちらが通れるときは、直進の矢印が、向こうが通るときには、車と同じ進入禁止の電光掲示が出る仕組みだ。直進の矢印をめざして歩いていても、向こうが先に切符を入れれば、進入禁止が出て、そこで立ち止まって待つか、向こうに人が続いているなら、ほかの改札を探さなければならない。カード専用改札が過半数を占める駅が多いから、切符吸い込み型改札がけっこう離れている場合もある。

改札まで互いの距離と歩速によって、こちらが先か、あちらが先か、微妙なときがある。ことさら、歩を速めず、先に切符を入れたときは、ちょっと嬉しいし、先を越されたときは、ちょっと口惜しい。しかし、そうした決戦に至ることはめったになく、たいていは改札のかなり前で、歩速を調整するか別の改札を探して方向を変えるものだ。真っ直ぐ急ぎ足で向かって来る人に、意地になって進路を変えないのは大人げない人だ。

そんなふうに相手に気づかれぬよう譲れるのは、向かってくる相手のめざす改札が、相手の位置取りからどこかわかるからなのだが、左利きで改札を通ろうとするときは、やや左半身の姿勢を取り、右側のバーに添っているため、二つの改札を跨いで歩いてくるように見えるらしい。どちらの改札に向かうか判断できず、向こう側の人の歩速が落ちる様子がわかる。申し訳ない。

意外に困ったというか、苛立つのが、ペットボトルである。お茶にしろ、水にしろ、ペットボトルから飲むとき、右利きなら、必ず左手にボトルを持ち、右手でキャップをねじ切り、口に運ぶ。ボトルやキャップをほとんど見もせずにできる作業だ。だが、ボトルを右手に持つだけで、かなり戸惑う。そして、左手指でキャップが開けられない。ねじが固いのだ。「エイヤ!」と心中で声を発するくらい、力を込めないとキャップが回らない。

子どものように非力になった気がする。力だけの問題でもないようだ。右利きでやり直してみると、キャップを左に回そうとしながら、ボトルを右に少し回して、小さな力を効率的に使っているのがわかる。これが左手になると、左手指だけを使って力任せにキャップをねじっているのだ。飲み終わり、逆の手順を踏むときにも、バヤリースオレンジをもらったチンパンのように、ボトルネックとキャップを注視しつつ、閉めていくことになる。

インスタント食品の調理もなかなか難儀である。たとえば、日清食品の冷凍「鴨南そば」を食べようとする。パッケージを左手の指先を使って破く最初から手間取る。そばに密着したセロハンを爪で剥がすことも難しい。右手指に比べて、左手指の神経が100本ほど足りないのではないかと思えるほど、指先に繊細な感覚が乏しい。左右どちらの指でも蚤取りができる猿に感心した。

そばが煮え、粉末スープを入れ、丼に盛り、最後の困難な事業は七味の入った小袋を裂いて開けることだが、これはほとんど不可能な作業だった。いったい、あれほど小さな、切手の半分以下の大きさしかない袋に、拡大鏡でようやく見えるようなギザギザに裂いて、微少な七味を散らし入れるという複雑きわまる作業を、どれほどの人が難なく行えるというのだろう。早々にハサミ使用に切り換えた。

比べて、タバコの場合はずっと容易い。これまでにも、右手で何かを書きながら、左手指に挟んだりしていたのだから、はじめての経験ではないせいだろう。とはいえ、ポケットからタバコの箱を取り出し、そこから一本つまみ出すというのはなかなか難しかった。やはり、箱を上下に揺すってタバコを浮かせ、その瞬間につまみ出すという連携ができないせいだ。いまではかなり慣れたが、それでも、(ほら左手)(それは右手)と意識し続け、あわてて持ち直したりするせいか、右利きで吸っているときより、心なしタバコが旨くない気がする。

いつまでたっても、不自由なままで不完全に終わるのが排尿である。ズボンの前開きやチャックの位置も、やはり右利き用につくられているから、左側から蓋がチャックに被さる造りになっている。右側から蓋を上げつつチャックのつまみの金具を見つけて、下ろすという作業である。このチャックに被さる前開きの蓋は、わずか1cmの幅しかない。ところが、左手指が、そのわずか1cmの幅を飛び越えて、蓋下に潜り、チャックのつまみの金具を見つけるには、手首を曲げて指先を丸めて探るという、非常に不自然な動きが課せられるのだ。何度か、親指の付け根が攣りそうになった。

これが右手なら、サッ、チャー、ジョーと手早く小用を済ませられるところが、左手となると、サッのところからして、モソモソモソ・・・モソモソくらいに時間がかかる。小便器の前で、小便を奔らせず、顎をぶら下げて股間を覗き込み、いつまでもまさぐっている男くらい、見苦しいものはない。貧弱な一物なるがゆえ、探すのに苦労しておりますと泣きべそをかいているも同然。野良犬が通りかかれば、片脚上げて小便を引っかけられそうな間抜けである。

ようやくチャックのつまみの金具を見つけた後も、安心はできない。むしろ、本当の恐怖と苦痛はここから先に待ち受けている。前開きから一物を取り出し、放尿の快感に浸ったのも束の間、仕舞い込む作業中に、包皮をチャックに挟んでしまうという悲劇が、ときに起きるのだ。さらに怖ろしい惨劇は、包皮よりはるかに敏感な亀頭皮を挟んでしまうことだ。どうしてこれが中世の拷問や刑罰に採用されなかったか、と思うほどの激痛である。採用されなかったのは、たぶん、あまりにも酷すぎると思われたからだろう。中世に、まだチャックはなかったという説もあるが。

そうした不安と羞恥と苦痛に混乱して、手指や下着を濡らしてしまうという不始末も起きる。膀胱がパンパンに脹れ上がり、一秒を争うときなど、酔狂な左利き遊びに、膀胱は堪忍袋を破裂させ、ちびる。洩らすのである。内股を生温かい液体が伝い下り、ズボンが張りつき、やがて下着が冷たくなったとき、「やーい、小便垂れえ!」と囃されて、泣きながら家へ走り帰った昔日の屈辱を想い出さぬ男はいないが、同時に大でなくてよかったと胸を撫で下ろすのが年の功であろう。

ふだん右手でしていることを左手に代えただけで、これほどの不自由を味わうことになるとは思わなかったが、私は不自由を味わってみたかった。ひとつには、正月に歩行も覚つかぬ老母の世話をしたこと、ふたつには、脳梗塞の後遺症で半身が不自由となった先輩に接したからである。「なぜ、これしきのことができぬか」「なぜ、リハビリに懸命に取り組まぬか」という私の心中の声に、「そんなこといっても」という彼らの心中の声が被さったからだ。

何気なく、意識もせずにできたことが、できなくなる。それがどういうことなのか、多少なりとも経験したくなったのである。不自由なことは、やはり不快なことが多い。右利きから左利きに代えてみるという、ほんのちょっとした身体運用の違いによって、生活のあらゆる場面で不都合に出くわし、不自由を感じることがわかった。ただ不快と遮断することはできない経験でもある。無能と無力の向こう側に、少し身体の奥行きを感じ取れた気もする。

ところで、ついに花粉症になったか、日毎の寒暖の繰り返しで風邪を引いたか、鼻水が止まらない。デスクの上はティッシュの花盛りなのだが、鼻をかむにも右利き左利きがあるのに気づいた。ティッシュで鼻を押さえ、右の鼻の穴を塞ぎ、左の鼻の穴を開けるのが右利き、その逆が左利きである。左利きの方がかみにくい。お試しあれ。

(敬称略)