コタツ評論

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猫の名前はすぐに変わる

2010-08-19 17:19:00 | ノンジャンル


当初の名前はサルトルでした。貧相で醜い顔をしていたからでしたが、どこか思慮深い表情を見せたことも命名の理由でした。成長するにしたがい、ブギャー、ブギャーと悪声で啼きだし、ドアを開けるまで単調に続く騒音が、サッカーW杯南アフリカ大会でおなじみになったブブゼラによく似ていたので、以降、ブブゼラと呼ばれています。この♂猫が、貧弱な身体にデカ頭という見かけによらず、ハンターの才能を発揮し、ゴキブリ、バッタ、カナブン、そして最近は、死にかけのセミをくわえてくるのです。一晩に数匹も。ジジジとモーター仕掛けのように回転するセミを前にして、目くそがついた瞳で見上げるブブゼラに、「ノー、とる、ダメ、ネ、セミ、これ、ダメ、ネ、セミ」と、以前は、サルトルでしたから、片言の英仏語風に諭すのですが、もちろん彼にわかるわけもなく、他の猫も加わった深夜のセミサッカーに悩まされている次第。で、最近の綽名が、「ノートルダメのセミ死男」というわけです。ま、それだけの話ですが。

(敬称略)



母をたずねて三千円

2010-08-19 01:50:00 | ノンジャンル


グループホームに居室を移した母は
存外、健康で清潔だった
髪にも櫛を通した跡があった
職員たちと母に分けた
フルーツゼリー菓子の包みを出し
冷蔵庫で冷やしてもらうように頼むから
と説明する
母の部屋は個室だが冷蔵庫はない
食生活を管理する仕組みなのだろう
別に買ってきた
小さなシュークリームを食べさせた
あまり旨くなかった

しばらくして
死ぬのが怖い
と母は言った
やっぱり死ぬのは怖いか
と私は尋ねた
怖いよお
そうだな、死ぬのは怖いよな
どうなるかわからないものな
俺はまだ考えたことないけど
早く死にたいよ
死ぬのが怖いから、死にたいわけか
母は一瞬、虚をつかれた表情をした
誰かあたしを殴り殺してくれたらいいのに
お前が殺しておくれよ
まだ論理矛盾はわかるらしい
と安心した

ほかのみんなとはうまくいっているかい
外交辞令やお世辞が苦手な母だった
無理をしてそれを言おうとすれば
怒鳴るようになり
相手を困惑させてしまう
うまくやっているよ
だけど、ときどきは当たる人もいるからね
○○子さんが服を買ってきてくれて
それに着替えたりすると
やっかむ人もいてね
だから、早くここを出たいんだけどね
弟もその嫁さんも
ちょくちょく来てくれているようだ

トイレは自分でできるのか
うん、できる
母は少し胸を張った
死にたいって嘆くほどひどい身分じゃない
と思うけどね
母は俯いた顔を上げてこちらを見やった
その小さく埋もれた瞳の奥を見入った
言い返すことは許さない
言い返すことは許されない
と知った母はまた俯いた

じゃ、涼しくなったら、外に出てみるか
とたんに母の瞳に喜色が浮かんだ
どこも具合が悪くなくて、
トイレも介添えすれば自分でできるなら、
どこでも出かけられるものな
うん、お父さんの墓参りも一度もしてないし
近くでいいから行きたいね
それまでは生きていたいと思っていられるよ
声に明るい張りが戻った

墓参りに行って、あとは温泉か
この辺りなら、七沢温泉か鶴巻温泉
鶴巻温泉が近くていいか
日帰り入浴でも、貸し切り湯がなければ
二人では入れない
ちょっと調べてみるか
そんなことを考えていると
母は耳掻きを使っていた
届かないのか顔を顰(しか)めている
ペン立てには耳掻きが五本もささっている

TVのある食堂兼ホールで
三時のおやつの和菓子から
好きな物を選べる権利をかけた輪投げゲームに
母と一緒に参加してからホームを辞した
一時間半
土産代三千円
八十六歳
秋までは
また行方不明老人となる母に
じゃ、またな
と虚ろに告げれば
ありがとうね
と小さな声が返ってきた
俺は何かをわずかに憎んだ