このとおりの事実関係なら、北沢防衛相と枝野官房長官は腹切りもの。これまで、民主党政権の失策、無能、失敗については、真偽不明を含めて数多く見聞してきたが、俺にとってはこれが最低最悪の事件である。
東電社長・自衛隊機利用問題 枝野氏らが責任転嫁 「車を飛ばすのが当然だ」 実際には不可能
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110426/plc11042623410023-n1.htm
>「北沢防衛相は(輸送機について)被災者救援の輸送を最優先すべきだと指示していた。
3月11日夜、東京電力福島第1原発の1号機と2号機の非常用の発電機が大津波によって失われ、政府は原子力災害対策特別措置法に基づき、「原子力緊急事態」を宣言した。このとき東電トップの清水正孝社長をその出張先から一分でも早く、東京本社に戻して適切な指揮をとらせることが、誰がどう判断しても被災者救援よりはるかに、最優先事項。いったん離陸した航空自衛隊輸送機をUターンさせてまで清水社長を下ろすなど、信じられない愚行。
管首相に、「無視するんですか!」と呼び止めたのは、被災者だからまだ同情や斟酌の余地があるが、自身の誤判断を被災者救援をダシに言い逃れしようとする北沢防衛相の卑劣には言葉を失う。また、枝野官房長官の「飛行機が使えないなら、車を飛ばせばいい」と子どものような言い返しにも呆れるばかり。
上位者の重要な役割は、部下の責任をとるところにあり、ましてや3.11のような緊急事態には、大小さまざまな「超法規的処置」が必要とされ、上位者はよりいっそうの責任を負うことが求められるもの。自らの責任を逃れるために、卑劣な言い逃れと愚劣な言い返しをして恥じない者が、それをできようはずがない。
管首相に同情すら覚えてしまうが、こんな卑劣漢を防衛大臣に、こんな愚劣なガキを官房長官に任命したのだから、いちどは管民主党政権を選んだ国民ともどもに、自業自得というほかはない。
しかし、地位や責任が人をつくるのもまた、一方の真実だ。ごく平凡な人でも、困難に遭遇し、重大な責任を負うたとき、目が覚めたように考え抜き、あるいは動く場合がある。3.11に際し、そうした平凡な人々の非凡な場面場面は数限りなくあった。私たちはそれを知っている。校長先生は卒業生に立派なはなむけを書き、高校球児は気迫溢れる選手宣誓をものし、中学生は声涙下る卒業生の答辞を読んだ。
残念ながら、そうした言葉と態度の変化を管民主党政権の面々に見ることはなかった。人間的な成長どころか、政治家としての前進すら見受けられなかった。もちろん、寡聞にして私が知らない、ということはあるだろう。人の内面やその働きを軽々に臆断すべきでないのは、大人の常識である。
それでもここまではっきりと、これ以下を思いつかない卑劣と愚劣を見せつけられれば、少なくとも北沢・枝野の二人は、3月11日に、自らの責任と義務を理解していなかったし、その47日後も相変わらず理解していない、といわざるを得ない。これほどの困難に直面してなお理解しないならば、470日後も、4700日後も理解していないだろう。
しかし、かねて自民政権を熱望する産経新聞、「枝野氏ら」と肩書きすら付けないのは、菅内閣総辞職の「新聞辞令」か。
(敬称は付けたくない)
東電社長・自衛隊機利用問題 枝野氏らが責任転嫁 「車を飛ばすのが当然だ」 実際には不可能
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110426/plc11042623410023-n1.htm
>「北沢防衛相は(輸送機について)被災者救援の輸送を最優先すべきだと指示していた。
3月11日夜、東京電力福島第1原発の1号機と2号機の非常用の発電機が大津波によって失われ、政府は原子力災害対策特別措置法に基づき、「原子力緊急事態」を宣言した。このとき東電トップの清水正孝社長をその出張先から一分でも早く、東京本社に戻して適切な指揮をとらせることが、誰がどう判断しても被災者救援よりはるかに、最優先事項。いったん離陸した航空自衛隊輸送機をUターンさせてまで清水社長を下ろすなど、信じられない愚行。
管首相に、「無視するんですか!」と呼び止めたのは、被災者だからまだ同情や斟酌の余地があるが、自身の誤判断を被災者救援をダシに言い逃れしようとする北沢防衛相の卑劣には言葉を失う。また、枝野官房長官の「飛行機が使えないなら、車を飛ばせばいい」と子どものような言い返しにも呆れるばかり。
上位者の重要な役割は、部下の責任をとるところにあり、ましてや3.11のような緊急事態には、大小さまざまな「超法規的処置」が必要とされ、上位者はよりいっそうの責任を負うことが求められるもの。自らの責任を逃れるために、卑劣な言い逃れと愚劣な言い返しをして恥じない者が、それをできようはずがない。
管首相に同情すら覚えてしまうが、こんな卑劣漢を防衛大臣に、こんな愚劣なガキを官房長官に任命したのだから、いちどは管民主党政権を選んだ国民ともどもに、自業自得というほかはない。
しかし、地位や責任が人をつくるのもまた、一方の真実だ。ごく平凡な人でも、困難に遭遇し、重大な責任を負うたとき、目が覚めたように考え抜き、あるいは動く場合がある。3.11に際し、そうした平凡な人々の非凡な場面場面は数限りなくあった。私たちはそれを知っている。校長先生は卒業生に立派なはなむけを書き、高校球児は気迫溢れる選手宣誓をものし、中学生は声涙下る卒業生の答辞を読んだ。
残念ながら、そうした言葉と態度の変化を管民主党政権の面々に見ることはなかった。人間的な成長どころか、政治家としての前進すら見受けられなかった。もちろん、寡聞にして私が知らない、ということはあるだろう。人の内面やその働きを軽々に臆断すべきでないのは、大人の常識である。
それでもここまではっきりと、これ以下を思いつかない卑劣と愚劣を見せつけられれば、少なくとも北沢・枝野の二人は、3月11日に、自らの責任と義務を理解していなかったし、その47日後も相変わらず理解していない、といわざるを得ない。これほどの困難に直面してなお理解しないならば、470日後も、4700日後も理解していないだろう。
しかし、かねて自民政権を熱望する産経新聞、「枝野氏ら」と肩書きすら付けないのは、菅内閣総辞職の「新聞辞令」か。
(敬称は付けたくない)