3.11記念の特集記事や特別番組でにぎやかだった。にもかかわらず、だからこそなのか、風化がすすんでいる気がするのは、わたしだけだろうか。この集会を知ったときも、えっ、そこまで風化はきているのかと驚いた。
「つながろうフクシマ!さようなら原発大集会」
http://sayonara-nukes.org/2013/03/130309action/
「つながろう」にはいっとき安売りされた「絆(きずな)」の焼き直しを、「さようなら」には別れ忘れを連想したからだ。そうではなくて、福島の原発事故被害と脱原発の拡がりに連帯しようということらしい。それとわかるのに、しばらく時間がかかった。あなたはすぐにわかっただろうか。
「つながろうフクシマ!さようなら原発」。たった17字に過ぎないのに、異和感がまとわりつく。ひらがなとカタカナばかりの猫なで声、ヒロシマ・ナガサキにフクシマをつなげる安直さ。フクシマにも、「過ちは繰返しませぬから」と石碑でも建てるつもりなのか。
合意形成をめざす真摯な足踏みより、人を舐めた多数派工作の泥足がみえてしまうのは、わたしだけだろうか。「福島に連帯を 脱原発集会」、あるいは「3.11脱原発集会」ではどうしていけないのか。そこに、「つながろうフクシマ!さようなら原発」やら、多様な団体・個人が参加するならわかる。
統一スローガンを掲げなければという旧態依然には、かつての「勝手連」や最近の金曜日の官邸前デモ、ツイッターやフェイスブックの呼集デモなどから、何も学んだ形跡がみられない。目的も動機も行動さえ、統一させず、参加だけを呼びかける。そんな「経験」は、まるでなかったかのようだ。
上目づかいの見え透いた言葉づかいに、かえって運動のための運動が露呈してしまっているではないか。にもかかわらず、だからこそなのか、いつものように大江健三郎が登壇席に鎮座している。君はそこから降りて、文学者の一人として、最前列にあぐらをかいて座っているべきなのに。
脱原発もヒロシマ・ナガサキの反核運動とよく似たキャンペーン運動に堕したのかと、やはり風化を思わざるを得ない。あれから、まだ二年なのに、もう二年になり、人の噂も七年になるわけか。
(敬称略)
「つながろうフクシマ!さようなら原発大集会」
http://sayonara-nukes.org/2013/03/130309action/
「つながろう」にはいっとき安売りされた「絆(きずな)」の焼き直しを、「さようなら」には別れ忘れを連想したからだ。そうではなくて、福島の原発事故被害と脱原発の拡がりに連帯しようということらしい。それとわかるのに、しばらく時間がかかった。あなたはすぐにわかっただろうか。
「つながろうフクシマ!さようなら原発」。たった17字に過ぎないのに、異和感がまとわりつく。ひらがなとカタカナばかりの猫なで声、ヒロシマ・ナガサキにフクシマをつなげる安直さ。フクシマにも、「過ちは繰返しませぬから」と石碑でも建てるつもりなのか。
合意形成をめざす真摯な足踏みより、人を舐めた多数派工作の泥足がみえてしまうのは、わたしだけだろうか。「福島に連帯を 脱原発集会」、あるいは「3.11脱原発集会」ではどうしていけないのか。そこに、「つながろうフクシマ!さようなら原発」やら、多様な団体・個人が参加するならわかる。
統一スローガンを掲げなければという旧態依然には、かつての「勝手連」や最近の金曜日の官邸前デモ、ツイッターやフェイスブックの呼集デモなどから、何も学んだ形跡がみられない。目的も動機も行動さえ、統一させず、参加だけを呼びかける。そんな「経験」は、まるでなかったかのようだ。
上目づかいの見え透いた言葉づかいに、かえって運動のための運動が露呈してしまっているではないか。にもかかわらず、だからこそなのか、いつものように大江健三郎が登壇席に鎮座している。君はそこから降りて、文学者の一人として、最前列にあぐらをかいて座っているべきなのに。
脱原発もヒロシマ・ナガサキの反核運動とよく似たキャンペーン運動に堕したのかと、やはり風化を思わざるを得ない。あれから、まだ二年なのに、もう二年になり、人の噂も七年になるわけか。
(敬称略)