コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

冤罪というより

2013-03-15 21:43:00 | 政治
裁判未満だろう。もうむちゃくちゃでんがな。もうこうなったら、てっぺっぺに加盟してアメリカの弁護士を輸入したらいい。日本の司法試験に合格していなくても、アメリカの弁護士資格のまま弁護活動ができるようにして、日本のでたらめな裁判官や検察官を駆逐してもらいたいもんだ。

新聞各紙のなかでとりわけひどかったのがこれ。

元秘書2審も有罪 小沢氏に議員辞職求める 2013.3.14 03:24 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130314/trl13031403250000-n1.htm

マイナーメディアの片隅で記者生命をかけているが、新聞のアリバイづくりがこれ。

石川議員は5千万円を受け取っていない 2013年03月15日http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/2013031400059.html?iref=webronza

君は黒犬を見たか

2013-03-15 20:51:00 | 新刊本



先日、新刊書店をのぞいたら、文春文庫から食指がうごく短編集が2冊出ていた。『1922』(スティーブン・キング)とアンソロジーの『厭な物語』。家には手持ちの未読が30冊ほどあるので、両方とも買い込むのは後ろめたい。近年ごぶさたのキングは後日の楽しみとして、『厭な物語』に。

「癒やされる」とか「愛おしい」をもじれば、「厭わしい」とか「嫌される」短編小説の名作・傑作を集めています。

それって、憎悪や悲惨、虐待や殺人、流血に苦痛だらけなのに、善意や救済はかけらもないやつでしょ。そのとおり。なんと物好きな、そんな後味の悪そうな小説なんぞ読みたくもないね。それでいい。

しかし、もったいない。勘違いだからです。読後感は、どの一篇をとっても爽やか、スカッとすること請けあいます。名作や傑作を読んだ充実感はずっしり残ります。直後の読後感は意外なほど悪くないどころか、ごちそうを食べた後の満腹感に似た悦びがあります。「後味が悪い」「最悪」「ムカツク」という感想や紹介を真に受けてはなりません。それは、「ゲテもの喰い」の優越感みたいなものだからです。

「スカッと爽やか」には、にわかに頷けないでしょうから、「充実感ずっしり」の理由(わけ)をいくつか見つくろって。まず、アガサクリスティの「崖っぷち」によくあらわれていますが、気持ちがよいくらいとても道徳的な作品です。karaさんから教わった倫理4段階論そのままに物語は進みます。

倫理には3段階ないし4段階あって、自己保存→相互性→法の支配(復讐の禁止)→自己犠牲で、これらは階層をなしていて、しかも他人に求めていいのは法の支配までなのに、どうも自分は復讐イケイケで三段階目にも到達していないのに、いきなり他人には四段階目を求める輩が多いのでいやになります。http://9101.teacup.com/chijin/bbs/1953

「崖っぷち」を眺めるクレアをはじめ、この「厭な物語」に登場する悪人や犯罪者たちは、つねにこの4段階を意識しています。強烈な自己保存の衝動に駆られていて、やられたらやりかえせの相互性に力で訴え、なんとかして法の支配を逃れようとぢたばたし、他者の自己犠牲をあてにして自らは生き延びようとします。

あなたは倫理や道徳なんて、ふだん考えてみたこともないでしょう? 彼らは焦がれたあげく自意識と重なるほど、つねに思い、悩んでいます。これほど道徳的、倫理的な人間に、俗世間ではめったにお目にかかることはできません。ま、お目にかかったが最後ですがね。

なにをいうのやら、得手勝手なだけじゃないかって? 道徳や倫理とは真逆だろうというわけですね。そうですね。彼ら悪人や犯罪者なら、こんな風に開きなおるかもしれません。

もっとも上の道徳的・倫理的行為ってのは、「自己犠牲」なんじゃないのか? ならば、悪の道を邁進することで、道徳や人倫を光りとともに降臨させて、自らは地獄に落ちる我々こそ、尊い自己犠牲を払っているともいえるわけだ。

ま、わたしがいうとただの詭弁に聴こえるでしょうが、「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」の「悪人正機説」そのものなのが、フラナリー・オコナーの「善人はそういない」です。殺される善人より、殺す悪人の方が、はるかに知的で、宗教的な理会も深いのです。

この「半端物」と渾名される脱獄囚も、いずれ殺されるかのたれ死にするのでしょうが、すでに往生しているのがわかるはずです。ほかにも、ジョー・R・ランズデールの「ナイト・オブ・ザ・ホラー・ショー」では、人殺しより犬殺しを嫌悪する道徳的な悪人が登場します。

「スカッと爽やか」するのは、わたしたちもまた、彼らのように道徳的・倫理的人間になれるのだという解放感によるものです。

そして究極の自己犠牲を捧げんと上昇することもできる。地獄へ降りずに。読者ですから、どこまでも安全な立場で、見晴らしのよい場に立てるわけです。

と、ここまでが直後の読後感です。消化不良を起こして不快感が残るという悪影響が、もっとずっと先になって出てきます。「ゲテもの喰い」の人がいう「後味が悪い」とはこのことです。

ふと考えるわけです。彼ら悪人は、道徳や倫理に縛られていないとか、縛られているとかじゃないのではないか。わたしたちが考えるプラスチック成形されたような社会道徳や人間倫理を、彼ら悪人が意識しているとはとても思えない。

概念以前、言葉以前から意識されたもの。まるで血肉をそなえるかのように、気味わるくうごめき震える、規範と後に名づけられたある欲望に、彼ら悪人は捕らわれたのではないか。たとえば、ヌルヌルのたうつ黒犬の化け物と対話するおぞましい異界で。

そして、彼ら悪人の規範の化け物と、わたしたちの道徳や倫理とは、じつはつながっているのではないか。いや、そんなことはあり得ない。いや、すでに人間が考えたことは、すべてあり得ることだ。現にそんな小説物語がこれほどたくさんあるじゃないか。

そんな風にぐるぐる思い考えるようになります。これが消化不良に似た不快感の正体です。ヌルヌルのたうつ黒犬の化け物を呼び出し、対話をはじめているのです。そこでほんとうの不安と恐怖を楽しむことができるのです。それは悪い遊びです。では、ほかの「厭な物語」をご紹介。

「すっぽん」パトリシア・ハイスミス
厭な母親が出てきます。

「フェリシテ」モーリス・ルヴェル
厭な紳士が出てきます。

「くじ」シャーリイ・ジャクスン
厭な村人たちが出てきます。

「シーズンの始まり」ウラジミール・ソローキン
厭な狩人が出てきます。

「判決、ある物語」フランツ・カフカ
厭な父子が出てきます。

「赤」リチャード・クリスチャン・マシスン
厭なパパがいます。

「言えないわけ」ローレンス・ブロック
厭な遺族がいます。

「うしろをみるな」フレドリック・ブラウン
厭な男があなたのうしろに

自分を除けば、こんな厭な人間はまわりにいないはずです。しかし、念のために厄払いしておきましょう。

May God always fill your heart with happiness!

Godを逆に綴ると・・・。

(敬称略)