コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

産経抄の手口を学んだらどうかね

2013-08-07 23:23:00 | 政治
新聞コラムを読むなら、朝日「天声人語」や読売「編集手帳」より、産経「産経抄」です。大学の入試問題には向かないが、「日本語の作文技術」を縦横無尽に駆使していながら、ほとんど作為を感じさせない見事なコラムを書いています。



2013.8.3 03:08[産経抄]http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130803/plc13080303080004-n1.htm

▼久々にぎょっとした。朝日新聞など一部メディアが繰り広げている「麻生太郎副総理ナチス発言」祭りに、である。きのうの朝日新聞を見ると、1、2面と政治、社会面、それに社説まで動員しての大騒ぎである。

読売新聞も社説で、「麻生財務相発言 ナチスにどう改憲を学ぶのか(8月3日付))」と痛烈に批判しているのに、なぜか朝日新聞だけを名指して書き出しています。その理由は後で判明します。

▼麻生氏は7月29日、都内で開かれたシンポジウムで「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気がつかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね?」と発言した。確かに字面だけをみれば、あたかもナチスの手法を称揚しているようにみえる。

この「字面」と称揚が、重要な仕掛けと伏線になっています。ふつうに読めば、「字面」とはこの文章のはずです。

ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気がつかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね?

この「字面」を再構成して、要約に印象をくわえたのが、次の一文です。

確かに字面だけをみれば、あたかもナチスの手法を称揚しているようにみえる。

新聞にふさわしい文章語にただ書き換えたようですが、じつはかなり手が込んでいます。わかりやす「過ぎる」話し言葉をわかり難くする、それがこの文章の目的です。

「犯行の手口」というように、「手口」といえば、きわめて即物的なものに対し、「手法」はもっと広く方法論まで指すものです。したがって、「手口」を「手法」と言い換えるのは無理があるのですが、「字面」とやや貶めているために、やや高級な表現に言い換えたくらいにみえます。

しかし、それ以前に重要な仕事がすでに済んでいます。「手口を学んだら」という誤解しようもないひとまとまりの言葉を、「手口」と「学んだら」に分解しているのです。悪事を連想しがちな「手口」をいちはやく遠ざけたのは、そのついでに過ぎません。真正なテキストである「字面」から、読者を「解放」しているわけです。

「手口」を「手法」と言い換える以上に、「学んだら」を「称揚している」に置き換えるのは、かなりの曲芸です。誰でもわかるこの不自然を「ようにみえる」と印象にして逃げています。「ようにみえる」のは、筆者の印象なのか、あるいは一般的な印象なのか、ここでは不明です。

書き手の印象を書くことは、無署名の報道記事では禁じ手なのですが、特定の筆者が書くコラムなら許されます。その強みを活かして、筆者の印象を一般的な印象に重ねて、最大限の効果を狙っています。

「学んだら」から 「 称揚している」というあきらかな飛躍を納得させているのは、読者の予想を裏切り麻生批判の次数を繰り上げているからです。右寄りといわれる産経新聞において、「産経抄」は左批判の直言をすることで知られています。「なぜか?」と読者は疑問を膨らまします。

前段で、「麻生ナチス発言」批判を「祭り」とあきらかに揶揄しながら、「ナチスから学んだら」を「 称揚している」とより高次に上げて、火に油を注ぐような真似をしています。麻生擁護の立場なのに、墓穴を広げたようなものです。

「称揚」と打った駒の役割は何でしょう? オセロゲームでいえば、「称揚」の白面は、「ナチスを称揚した」と麻生批判の次数を繰り上げたことです。「称揚」の黒面は、麻生さんが「ナチスを称揚した」事実はないということです。ここでは、白面が表になっていて、裏に伏せられている黒面は見えません。マスコミのオセロゲームでは、黒面を打ったり黒に裏返す者はいません。

さて、ここでまた、「字面」に戻ります。シンポジウムのスピーチという音声情報なのに、「確かに字面だけをみれば」と筆者はいいます。この「字面」とは、筆者がすぐ前で自身が引用した文章だけをじつは指していません。そう誤解させる狙いはありますが、いちはやく朝日新聞が文字起こして掲載した「麻生ナチス発言」の全文こそ「字面」なのです。

つまり、この産経抄は、朝日新聞の「麻生ナチス発言」記事への紙面批評なのです。したがって、「字面だけをみれば」には、(表面的)という朝日への皮肉を込めています。ちなみに、書き出しの「ぎょっとした」は、8月1日付の天声人語からの借用です。また、字面(表面的)という皮肉は、麻生さんへも幾分かは向けられているかもしれません。

鞄を持った女のブルース

クラウディア・カルディナーレです。いい女でした。

もちろん、産経抄の読者がすでに朝日新聞掲載の麻生発言全文を読んでいるとは限らず、読んでいたとしても全文を覚えているとも限りません。むしろ、そんな人はごく少数でしょう。そこで、麻生発言全文を「あたかもナチスの手法を称揚しているようにみえる」と読者に代わってまとめてみせた「ようにみえる」わけです。

「学んだら」を「称揚している」と飛躍させたのは、朝日新聞の麻生批判記事の要約から導き出された印象(批評)であると横滑りして、つまりは朝日が言い出したと朝日批判に逢着する仕組みです。朝日新聞が「称揚している」やそれに類する表現をつかったのかは、つまびらかではありませんが、そう思わせることに成功しています。

読者にとっては、他紙記事の要約と紙面批評を一度に読めるわけで、便利で親切な印象が残ります。しかし、繰り返しますが、麻生さんが「ナチスを称揚した」事実やその形跡はないのです。朝日新聞掲載の「麻生ナチス発言」全文を読めば、すぐにわかることです。また、わざわざ読まずとも、「ナチスの手口」という貶めた表現は、「称揚」ではあり得ません。

つまり、「称揚」とは、後でパチンと破裂させるために膨らませた風船のようなものです。ありもしない風船をあるかのようにみせているだけですが、パチンと音がして風船が眼前にないとき、破裂して消えたのか、元からなかったのかはわかりません。麻生さんの発言全文を読む人は珍しいからです。そして、その風船を膨らませたのは筆者ではなく、朝日新聞だと言外にいっているわけです。

▼在米のユダヤ系人権団体が「どのような手法がナチスから学ぶに値するのか」と非難したのもうなずける。しかも、ナチスは憲法を改正も制定もしておらず、形の上でワイマール憲法は戦後まで存続していた。

在米のユダヤ系人権団体とは、たぶんサイモン・ヴィーゼンタール・センターのことだと思いますが、「どのような手法が学ぶに値するのか」というコメントは興味深いものです。原文を読みたいところですが、それはともかく、風船がパチンと破裂する音が聴こえたでしょうか? 

ナチスがワイマール憲法を改正していなければ、その改正の手口を学びようがありません。したがって、ナチスから学ぶ、反面教師として学ぶ、いずれも成り立ちません。麻生発言のナチス例示が不適切という以前に、事実誤認に基づくので、その批判を含めて無効だ、ということです。

▼首相経験者であり、しかも政権の柱である副総理として軽率極まりない。ただ、彼の肩を持つ義理はないのだが、前後の発言を詳しく点検し、当日会場にいた記者や傍聴者の話を聞くと、だいぶ様子が違う。

たたみかけるように、「軽率極まりない」と読者国民に代わって叱るという手仕舞いに入っています。先の「字面」が「軽率」と巧く対応しています。

しかし、ワイマール憲法を改正してナチス憲法へ、だれも気づかないで変わった、それが麻生の事実誤認であろうと、「だれも気づかないで」憲法を変えるという反民主主義的な「手口を学んだら」とした発言の問題は相変わらず残るのではないか。そんな疑問を残す読者には、「だいぶ様子が違う」と現場の声を振り向けます。

▼討論者の一人として参加した麻生氏は「(憲法改正は)喧噪(けんそう)の中で決めないでほしい」と改正積極派が多い聴衆に向かって何度も繰り返している。「ナチス発言」も彼特有の皮肉な口調で語られ、場内に笑いも起きたという。ある傍聴者は、「ナチスをたたえているようにはとても聞こえなかった」と話す。

取材としては貧弱ですが、ようするに、自民党の参議院選圧勝に勢いづく改正積極派が多い聴衆を前にして、「静かに憲法改正を進めよう」という意図から、「ナチスの手口を学んだら」となかばジョークを飛ばしたに過ぎない。そういうまとめです。「だれも気づかないで変わった」に対する、反論、反証の体をなしていませんが、次の決定的な一行がこの疑問を打ち消してしまいます。

▼朝日新聞などが、シンポジウム翌日に一行も報じていないのが何よりの証拠である。

乾坤一擲の一行です。これまで長々と解説してきたように、この産経抄はさすが練達の書き手だけに、文章、構成ともに工夫が凝らされていますが、これには唖然としました。

当初、朝日は書かなかった、朝日自身も問題発言とは思わなかったからだ、麻生発言に「軽率」以上の問題はない、当初、書かなかったのが、「何よりの証拠である」。

委曲を尽くして、「麻生ナチス発言」擁護とその批判の沈静につとめながら、積み上げてきた記述のすべてを無視するかのように、最後の風船を破裂させました。パチン! 風船が消えた後に残るのは、この一行だけです。

朝日新聞の権威の裾に縋りつきながら、脚に噛みついている。真剣と自傷の巧まざるユーモア。この産経抄が読者に愛される理由がわかる気がします。

コラム同業者の天声人語子へエール交換でもあります。この8月3日の産経抄と8月1日付けの「天声人語」を読み比べると、「発言の真意」において、ほとんど異同なしと読むこともできます。右産経と左朝日の対立というのも、ありもしない風船に思えます。

(敬称略)