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こまつた小吉

2012-01-31 01:18:00 | ブックオフ本


勝海舟の父、勝小吉の自伝を読んだ。

『夢酔独言 他』(勝小吉 著 勝部真長 編 東洋文庫 138 平凡社)

気はながくこゝろはひろくいろうすく
 つとめはかたく身をばもつべし

おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能よく不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。


『夢酔独言』の書き出しである。五七五七七なので歌なのだろうが、孫や曾孫のために遺す訓戒を込めたものらしい。「夢酔独言」を読み終わって、この冒頭に戻ると、じつに呆れるほど、この歌とは真逆の人生だったことがわかって可笑しい。思わず微苦笑を浮かべてしまう。

気長に構えて広い心どころか、気はすこぶる短い。五歳にして凧喧嘩から三歳年長の少年を石で殴り、唇から大出血させて以来、少年時代はケンカ三昧。長じてからも、道場破りといういわばケンカを続け、地元の本所下谷一帯では、いまでいう不良の大番長。

十四歳のときには、江戸を出奔して上方に行こうと乞食旅をする。乞食のような貧乏旅行をしたのではない。路銀を盗まれ、ほんとうに乞食になって、一文二文、米や麦をおもらいに回り、乞食の先輩や博打打ち、漁師の情けを受けながら、四か月暮らすのである。

色の道も薄くはない。金が入れば子分たちと吉原通い。少年から中年に至るまで止めない。貧乏御家人だから、妾を持つことはなかったが、吉原以外にも女出入りはあったようだ。武家の娘に惚れて「こまつた」あげく、女房に相談したところ、「私が貰いに行きます」といわれて頼んだりしている。

息子の麟太郎が剣術を学ぶ、後に幕末屈指の剣客となる島田虎之助を訪ね、修行中の身だから酒や煙草、女色はもちろん、甘味さえも断っていると固辞しているのに、無理矢理吉原に連れ出して、そのすべてを味あわせて骨抜きにするエピソードなど、たぶん旗本退屈男はぐれ雲のモデルに違いない。

勤めは堅いどころか、年貢七千両を運ぶ役目を命ぜられたときは、そのうち六百両を仲間と盗んで遊びに遣っている。また、隠居後も、兄の判を偽造して証文をつくり、金貸しから大金を借りて散財したり、悪智恵はよく働き、悪仲間を一声で集められる。

それやこれや数々の乱暴と不行跡から、三十七歳のときには、兄の家の庭に檻をつくられて、押し込められそうになり、息子の麟太郎に家督を譲って隠居し、暇にまかせて、文盲同然だったのに、書に親しむようになり、筆をとることになるわけだ。

「俺も昔は悪かった」という話や本は山ほどあるけれど、この「夢酔独言」を読ませれば、そこいらの「俺も昔は悪かった」氏など、赤面して後ずさりするしかない。「けんかえれじい」や「男一匹ガキ大将」のモデルではない。これらの主人公なら、たぶん、勝小吉の子分に過ぎないだろう。

勝部真長の解説によれば、勝小吉とはこんな男だ。

当時、江戸で有数の剣客にして不良旗本、放蕩児、いわゆる「あばれ者」、本所・下谷から浅草・吉原にかけての顔役、また同時に露天商人の親分で刀剣ブローカー、鑑定屋、行者、祈祷師などをも経歴し、最後に水野越前守の天保の改革のときに不良旗本として隠居謹慎を仰せつけられ、自ら夢酔道人と名のっての隠居中の仕事に、『夢酔独言』をかくのである。

小説以上に優れた評論を書いた坂口安吾が、感嘆して紹介している。

 僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。尤も夢酔は武芸者などと尤もらしいことを言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまり下らない生涯だから子々孫々のいましめの為に自分の自叙伝を書く気になって「夢酔独言」という珍重すべき一書を遺した。
(中略)
 僕は「勝海舟伝」の中へ引用されている「夢酔独言」を読んだだけで、原本を見たことはないのである。なんとかして見たいと思って、友達の幕末に通じた人にほ全部手紙で照会したが一人として「夢酔独言」を読んだという人がいなかった。だが「勝海舟伝」に引用されている一部分を読んだだけでも、之はまことに驚くべき文献のひとつである。

 この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それほ実に「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった……ただ淡々と自分の一生の無頼三昧の生活を書き綴ったものだ。
(中略)
 子供の海舟にも悪党の血、いや、いつでも死ねる、というようなものがかなり伝わって流れてはいる。だが、親父の悠々たる不良ぶりというものほ、なにか芸術的な安定感をそなえた奇怪な見事さを構成しているものである。
(中略)
 夢酔の覚悟に比べれば、官本武蔵は平凡であり、ボンクラだ。武蔵六十歳の筆になるという「五輪書」と「夢酔独言」の気品の高低を見れば分る。「五輪書」にほ道学者的な高さがあり、「夢酔独言」にほ戯作者的な低さがあるが、文章に具わる個性の精神的深さというものは比すべくもない。「夢酔独言」には最上の芸術家の筆を以てようやく達しうる精神の高さ個性の深さがあるのである。(『青春論』)


私たちが映画やTV、時代小説などで知る、江戸時代や武士とは、実際はずいぶん違っていることが、「夢酔独言」を読むと、よくわかる。近代以前、つまり明治以前の人々が、私たちとはずいぶん違っていることもまた、よくわかる。

たとえば、勝小吉は自分については、「こまつた」とよくいう。いたずらが露見しそうになったり、大病したり、檻に入れられそうになることまで、すべて「こまつた」ですまして、いっさい内面を語らない。

そして、「悦んだ」。他人から困りごとの相談を受けたり、ケンカの仲裁をしたり、代わりに金を取り立ててやったり、困っていれば用立てたり、他人の世話を焼いたときに、相手が「悦んだ(よろこんだ)」。

勝小吉においては、自分が「こまつた」と相手が「悦んだ」という、この二つしかない。語彙が乏しいというだけでなく、自らの行為行動と人への関わり、それ以上や以下がない。表さない。じつにさっぱりとした境地は、私たちとはずいぶん違う。

坂口安吾は、その境地を勝小吉の非凡さにもとめているが、「いつでも死ねる覚悟」とまではいかなくても、「人間(じんかん)」に生きて暮らす幕末の江戸人には、いたって平凡な心構えだったように私には思える。人に頼り迷惑をかけ、人から頼られ世話をする、そんな「下世話」には、今生でも思い当たる節はあるからだ。

(敬称略)

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2 コメント

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Unknown (karanotomo)
2012-02-19 10:06:49
>「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂

隆 慶一郎が繰り返し書いていましたね。勝小吉を書いたものはあったかなあ。なければ必ず生きていれば書いたでしょうけど。

最近読んだSFの中で比較的マシな方に「シリンダー世界111」というのがあってその中にもこんな一節がありました。


> "あたし、死ぬんだ"
>でもそんなことはなんの意味もない。どうせみんな死ぬんだし、
>わたしがどうにか宇宙からもぎとっているひと息、ひと息は、
>子ども時代の悪夢がわたしから奪おうとして奪えなかったひと息、
>ひと息と同じなのだから。息をすることは勝利だ、息をすることはー
(「シリンダー世界111」アダム=トロイ・カストロ 小野田和子訳 p.436)
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Unknown (コタツ)
2012-03-06 00:22:36
死ねる境地にはもちろんないですが、いつでも殺せる、のほうなら、なんちゃって。勢古浩爾読んだら、「我々は無意味に生きて無意味に死ぬ」というのがよく出てきます。我々の生死に、どのような意味も付与できない、意味なんてクソ喰らえ、という意味かと思っています。引用していただいた「一息」にも対応している気がします。

隆慶一郎は読んだことがありませんが評判高かったですね。私と読む本が重なっていないのがいいですね。
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