コタツ評論

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風とおる銭湯の脱衣場のような

2012-04-08 23:34:00 | ブックオフ本


古本屋の特価本コーナーを選ぶのは、思わぬ出会いがあるからだ。本との出会いというと、何かかっこうよい響きがあるが、実際はけっこうけちくさいものだ。とくに新刊書の場合は、まず値段に見合った頁数か気になる。もちろん、厚くて字がびっしりしていたほうが嬉しい。また、人に知られても恥ずかしくないテーマや著者を選びがちだ。受け売りして友人知人に講釈垂れられるくらい、結局はなじみがある分野に落ち着く。これで出会いとはおこがましい、ただの反復消費、見栄消費である。

そこへいくと、100円均一か数百円の特価本の場合、これらの購入条件はまったく気にならなくなる。エッセイや対談集などの薄手、タイムリー本やトンデモ本など安手、難解思想や純文学など苦手、どんな本にも門口が広くなり、たとえ期待はずれに終わっても、著者や編集者に舌打ちすることはなくなる。対価といえるほど払っていないし、一円の印税も著者や出版社にいくことはないのだから、消費者面はできない。

だから、傑作や秀作、力作に出会うと、いや、そういうランキングをしなくなるから、よい文章のおもしろい本だったことがわかると、素直に嬉しくなり著者や出版社に感謝したくなる。ちょっと申し訳ない心持ちになるから、人に勧めたい気持ちも高まる。思いがけず敬愛できる友人を得て、つい知り合いに紹介したくなる、ちょっと誇らしい気分。次に紹介する本もそんな一冊。

『日々の非常口』(アーサー・ビナード 新潮文庫 Arthur Binard "EVERYDAY EMERGENCY EXITS")

著者は、来日してから日本語で詩作をはじめたというミシガン生まれのアメリカ人。平凡な日常の小さな発見を綴った文章が実に心地よい。たとえば、銭湯。

アメリカでは、「まったくのシャワー派。湯船は水を排水溝に送り込むためのものだった」が、池袋の風呂無しアパートに入居してから、「銭湯に通うことになった」。湯船に体を沈めるのは初体験だったわけだ。

 ある日、日本語学校から帰って、開店と同時に銭湯に入り、独り占め状態の浴槽で体を伸ばした。天井の水滴の模様をしばし眺め、視線をふと下げると、自分の足が水面から十本の指を出している。ほてった指たちが気持ちよさそうにそれぞれ動いて、左右の親指が互いに触れあい、まるで挨拶しているようだ。こっちが、脳から指令を出してやらせているというよりも、独立して入浴を楽しんでいる感じだった。あのとき、浴槽が本当はなんのためにあるか分かった気がして、自らの体との付き合い方も、少し変わった。(61p)

主語や目的語を省略できる日本語の愉悦を意識しながら、同時にそれが英文への翻訳の難しさとなっていることをよく知る著者が、「自分の足が水面から十本の指を出している。」と「自分の足が」を主語に使うおもしろさ。日本人が書く場合、「水面から十本の足指が出ている。」とすぐに情景描写にしてしまうだろう。そうはせずに、あえて、「足」を独立させ、身体論にしながら、「感じ」を描写した。

スイスイ読めるが、ちょっと違う。けっこう、骨格が違うかもしれない。そんな風に文体に興味を持たせるところがおもしろい。書く内容は決めていても、どのように書くかに、迷っている。日本語と英語を行きつ戻りつ、ぎりぎりまで考えている。そこが風通しのよい文体にしているのかもしれない。日本語や英語からある言葉を取り上げ、その異同を確認する思考とは、日本語や英語という家の戸や窓を開け閉めする作業がともなうからだろう。

アメリカから吹いてくる風を日本で感じている時評的なものも少なくない。著者が物心ついてからずっと戦争を続け、いまもイラク人の死者10万人以上に責任があるアメリカへ、豊かな言葉を捨て去り「御用流行語」であるユビキタスをありがたがる日本へ。行きつ戻りつして、湯冷めしてくしゃみをしたように我に返る数編もある。が、その多くは、古今東西の詩や童話や歌、箴言、警句などを手際よく紹介しつつ、人間知に裏づけられた豊かな言葉の世界に誘ってくれるものだ。

銭湯の脱衣場を吹き抜けていく風のように、読後感が気持ちがよいのは、著者が言葉の縁側を開けてくれているからだろう。言葉の場所としての縁側は、物心ついてから著者の身近な人々である家族や友人たち、20代の一時期を過ごしたイタリアで知り合った人々なども集い、故郷ミシガンをはじめとするアメリカの自然や風土に通じている。

ただし、シェークスピアやオスカー・ワイルド、バイロン、夏目漱石、斉藤茂吉などはともかく、ヘンリー・アダムス、アンナ・アフマートワ、エドナ・セントビンセント・ミレー、ロングフェロー、サミュエル・ホッフェンスタイン、エスキモーの歌『春の入り江』、山之内獏、『アナイス・ニンの日記』、ウッディ・ガスリー、ダルマージン・バドバヤールなどには、注解がほしかった。山之内獏『ねずみ』や栗原貞子『生ましめんかな』の詩のすばらしさを、本書ではじめて知っただけに。

(敬称略)


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