表紙カバーに笑ったのは、はじめてのことだ。
『思想なんかいらない生活』(勢古 浩爾 ちくま新書)
愉快な絵や写真、可笑しな文章があったからではない。あとがきまで読み終わり頁をめくると、表紙カバーの折り返しがある。そこに印刷された「好評既刊」に笑ってしまったのだ。次の本が並んでいたからだ。
ニーチェ入門 竹田 青嗣
現象学は(思考の原理)である シリーズ人間学③ 竹田 青嗣
「心」はあるのか シリーズ人間学① 橋爪 大三郎
「恋する身体」の人間学シリーズ 人間学② 小浜 逸郎
「ウィトゲンシュタイン入門 永井 均
哲学の道場 中島 義道
戦後の思想空間 大澤 真幸
英文法の謎を解く 副島 隆彦
『思想なんかいらない生活』は、この著者たちを洩れなく、こっぴどく批判しているのだ。次は目次である。
第4章 インテリさんがゆく
「わかる」がわからん哲学者 竹田 青嗣
ねばつく納豆文芸評論家 加藤 典洋
能面文体の社会学者 橋爪 大三郎
まだ理論の道を上昇する批評家 小浜 逸郎
世界的な思想家になれない悔しさ 柄谷 行人
説話論的な俗物あるいは知の室田日出男 蓮實 重彦
そのご自慢の概念が学問なのか 大澤 真幸
ただの知的なディレッタント 福田 和也
この男の「絶世の美女」はへンだ 中島 義道
なぜ僕は僕なのって知らんがな 永井 均
数千年後の読者のために書く妄想 池田 晶子
クールでソフトな食わせ者 妾 尚中
一人盛り上がりの似非インテリ 副島 隆彦
目次もかなりのものだが、本文はもっとひどい。彼らだけではない。名の知れた知識人は総なめしている。ノーベル文学賞候補作家の村上春樹も、近作のなかで「思想」という言葉を使っているために、やっつけられている。
「まるでなにかをたしかめるみたいに。まるで医者が脈を取るときのように。僕は彼女の柔らかい手のひらの感触を、なにかの思想みたいにペニスのまわりに感じる」(『海辺のカフカ』)
なんだこれ? ペニスを包みこむ思想みたいな感触? まさか、これが文学だというのではあるまいな。それがどんな「感じ」なのか、頼むから一丁説明してみてくれ。
現代の丸山真男と評判の小熊英二にも噛みついている。「新しい歴史教科書をつくる会」を支える草の根市民団体へ、小熊の批判が「笑わせてくれる」そうだ。
そうした「普通の市民」たちが、石原慎太郎などの右派ポピュリストを当選させる基盤となり、結果としてマイノリティへの抑圧や国際関係の悪化を招いていること(『<癒し>のナショナリズム-草の根保守運動の実証研究』上野陽子・小熊英二)。
小熊はいったいなにを「普通」の人間に要求しているのか。「普通の市民」たちが「結果としてマイノリティへの抑圧」を招いていることは当然ありうることだ。差別をし暴言を吐きいやがらせをし暴力行為もする。「国際関係の悪化を招」くことだって、たかがしれてはいるだろうがもちろんないとはいえない。
だが「石原慎太郎などの右派ポピュリストを当選させる基盤」になってなぜいけない? もし「普通の市民」たちが原因で、将来ファシズムが到来することになっても、それが民主的手続きを経た上でのことなら、それは民主主義の自由というものである。そして、それだけの民主主義でしかない、ということだ。
こんな調子で紹介してしまうと、自らのインテリコンプレックスに開き直った、有名知識人への悪口雑言集の類い、彼らに便乗したすき間商売と早合点されそうだ。著者もそれは百も承知。しかし、意外に、かなり腰がすわった、現代思想分野の文章読本なのである。
まず、著者の勢古浩爾は、「インテリさん」たちそれぞれの、難解で読みにくい思想・哲学書を悪戦苦闘しながら読み通している。つまり、ちゃんと取材している。また、若き日から、「インテリさん」たちのタネ本となった、欧米の古典的な思想・哲学書も、それなりに読み込んできている。
それなら、勢古浩爾とは、「インテリさん」になりそこねた大衆の一人なのか。いや、「インテリさん」こそ、俗臭ただよう大衆にすぎない。そう批判する勢古は、自らの思想・哲学かぶれ遍歴を率直に告白しながら、その役立たずな空理・空論に憤慨している。いわば、「インテリさん」にたぶらかされた、市井の教養人・読書人の一人という立場だろう。表紙カバーには、著者・勢古浩爾の近影と略歴も印刷されている。
1947年大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒業。現在、洋書輸入会社に勤務。市井の一般人が生きてゆくなかで、運命に翻弄されながらも自身の意志を垂直に立て、何度でも人生は立てなおすことができると思考し、静かに表現し続けている。(以下、著作や受賞歴は略)
なるほど、普通の大学を出て、普通のサラリーマンとなり、「部下の査定」という「嫌な雑事」もこなさなくてはならない、とぼやいているから年齢相応に管理職をしているらしい。著者自身が書いたか、編集者の手によるものかは不明だが、「市井の一般人・・・」以下は、何冊も著作があるとは思えないほど、初々しい文章だ。表紙カバーには、こんな抜粋も引かれている。
……本書はその「思想」批判である。思想はあなたの人生を豊かにする、思想なくして現代は生きられない、とたぶらかす「思想」(哲学、批評)批判である。さらに、それと対になったインテリ批判、ひとりよがりの「思想者」批判である。なんのために? ふつうの人間の生き方を擁護するためにである。……
「インテリさん」のひとりよがり、たぶらかしの見本として、こんな文例を上げている。本書の特色のひとつは、興味本位にゴシップをからめて俗物ぶりを示す、人物批判や印象批評はごく少なく、たいていその文例を上げて批判しているところだろう。
リシャール的なテマティスムというのは、仮に最終的に「倒錯」をプログラムとして含んでいるとしても、やはりびとつの遠近法を確保しょうとする態度だと理解してよろしいのでしょうか。つまり、リシヤール的テマティスムは、最終的にびとつの意味に送り返したり、あるいは隠されたびとつの本質へと人を送り届けることはないにしても、意味上の諸単位を、相互的転移を含みつつ、ひとつの遠近法のもとに描こうとする。(略)ところが、デリダが(略)批判しているのは、この遠近法の可能性そのもの、その形成可能性そのものです。デリダがやっていることは、多義性(ポリセミー)の運動を一旦は踏破し、比喩の様々な系列を辿りなおしつつも、しかし、その系列が常にその系列に対する余剰でもなく欠如でもない。ある「空白」の偏在によって可能になっているという事態を、再-刻印することなわけですね……(蓮實重彦の『「知」的放蕩論序説』中の守中高明の発言)
この守中高明の発言に蓮實重彦は、「見事に要約して下さって事態は明白なものになった」と褒めているそうだ。これで「見事な要約」で「明白」なら、原文はどれほど難解なのか。彼ら「インテリさん」のふつうでない言葉に対して、著者・勢古浩爾はふつうの人として、ふつうの言葉を綴ってみせる。ふつうについて。
わたしの「ふつう」とはなにか。ひとりの人間における、自由としての「ふつう」である。強要しないし、強要されない「ふつう」である。「ふつう」にしかなれなくて「ふつう」になったのだが、人生の途中で、その「ふつう」をみずからの存在のあり方として選び取った末の「ふつう」である。偉そうな野郎だ、と思わないでいただけたら幸いである。思ってもいいけど。
世間のふつうは、自分たちとおなじでない者を、自分たちのふつうにひきこもうとする。同調しない者は「ヘンなやつ」として排除する。わたしはそのふつうが反吐がでるほどいやなのである。そこで、自分だけの「ふつう」を作ったのである。どいつもこいつも「ふつう」をバカにしやがって、と。それなら、自分で「ひとりだけのふつう」を作っちゃうもんね、と。(中略)
「ひとりだけのふつう」なんかあるのか。「ひとりだけの大衆」というようなもので、語義矛盾ではないか。ただの「ひとりよがりのふつう」という妄言ではないか(最近、「個衆」という言葉があるのを知ったが)。あろうとなかろうと、そんなことはもう知ったことではないのである。
『こういう男になりたい』(ちくま新書)という本も、わたし「ひとりだけの男らしさ」の意味を書こうとしたものだ。矛盾することが恐くて生きていけるものか。この意識において、わたしがもっとも親近感を覚えたのは石原吉郎の次の言葉である。このような言葉だけが身にしみ入る。
どうだろうか。もちろん、ふつう、なんてものはない。したがって、ふつう論、というのも成り立たない。ただし、著者・勢古浩爾があっちこっちしているように、ふつうに語ろうとする姿勢や努力といえるものはある。それを、ふつう、とはいえないか。そんな自問自答が繰り返されているような本である。
だからといって、自分一人に、閉ざされているというわけではない。自分を手放さず、自分を開いていく「知」や「言葉」との出会い、それを求めていくしかない。そんな覚悟を語っているように思えた。著者が身に沁みたという詩人・石原吉郎の言葉とは、次のようなものだ。
一人の思想は、一人の幅で迎えられることを欲する。不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない。(『望郷と海』ちくま文庫)
ひとと共同でささえあう思想、ひとりの肩でついにささえ切れぬ思想、そして一人がついに脱落しても、なにごともなくささえつづけられて行く思想。おおよそそのような思想が私に、なんのかかわりがあるか。(同書)
自分一身の思想。これが、ひとりの思想であり、ひとりのふつうの思想である。そんなものは思想でもなんでもないといわれるかもしれない。むろん、それでかまわない。あえて思想と呼ぶには及ばない。それはただの個人的な「考え」にすぎない。そして現在のわたしには、いや後にも先にも、この「考え」だけで十分なのである。
「インテリさん」への批判に溜飲を下げたい向きには、物足りないかもしれない。しかし、ふつうの人がふつうに語る、書くということはどういうことなのか。そのことについて知り、考えたい人には、じゅうぶん有益な本だと思う(なんだか、普通に下手な文体が、伝染っている気がするが)。役立つとは著者にとって最高の褒め言葉としている。著者がその人生において、まれに役立ったとする、ふつうを支える知識人も挙げている。エリック・ホッファー、シモーヌ・ヴェイユ、吉本隆明である。
著者もあとがきで書いているように、筑摩書房の執筆者たちを実名を挙げて批判した本を、ちくま新書から出版できるのか、「大丈夫なのか」と心配したそうだ。そのうえ、表紙カバーの「好評既刊」が重なったわけだから、著者や担当編集者以外には、誰も気にしなかったのかもしれない。「インテリさん」たちのご機嫌を損じてはならないほど、「思想・哲学」はたいして商売になっていない。たぶん、そんなところだろう。
可笑しくてやがて哀しき表紙カバー。批判された「インテリさん」たちが読まれていなければ、彼らを批判した勢古浩爾も読まれるはずがない。「インテリさん」たちの言説に、ふつうを対置させようという試みそのものが、空しく思えてくる。鵜も鵜飼いも見物衆も、同じ長良川に川面に映る光影を見つめている。しんみりさせられるが、いかにもその場所は狭く小さい。結局、「インテリさん」への叱咤激励ではないか。そんな風にも思えた。
(敬称略)
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