凄い「映画小説」を読んだ。
『フリッカー、あるいは映画の魔』(セオドア ローザック 文春文庫)
上下巻あわせてちょうど1000頁。読み出したら止められず、仕事と睡眠はかくじつにおろそかになるからご注意。読み進むうちに、残高がどんどん減っていく通帳を見るような悲哀にとらわれます。ほら、傑作映画を観ているとき、乗り出すようにスクリーンにのめり込みながら、もう中盤だな、あと30分くらいか、頭の片隅で「THE END」を意識して焦り出す、あの寂しい感じです。
おおげさにいうと、それが1000頁続くのですから、数日で1000万円を費消した亡失と満足をあじわえるわけです(1000万円なんて見たこともないけど)。映画好きなら、よくぞ、映画の気恥ずかしさの向こうにかいま見える、不思議と怖ろしさについて書いてくれた。ただの娯楽とはとても思えない、あの魔的な一瞬によくぞ迫ってくれた。そう感涙にむせぶこと間違いない。
映画好きではなくても、映画の神経症的な怖ろしさを謎解く映画史の概略だけでなく、映画成立の背景となった中世の宗教弾圧などまで知ることができ、じつは映画について誰もほんとうにはわかっていなかったわけだと、溜飲をさげることができます。リュミエール、エジソンの近代以前、映画は未知の、魔術めいた、錬金術に似たもの、というゴシックロマンの魅力も、この小説には横溢しています。
しかし、この「映画小説」は、中世より遥か時空を超えて、「映画以前」と「映画以後」をも語ります。むしろ、そちらが本筋です。
映画のはじまりは、人間が火を手に入れたときから。原始、洞窟のなかで火を焚いた人々の眼前に、照らし出される岩壁の明と暗のひろがりこそ、「映画史」のはじまりではないか。その洞窟で、人は絵を描いた。牛や鳥や狩りをする人々を。それはもちろん、松明の火の光を頼りに描かれた、黒白の物語です。
暗い洞窟は映画館であり、松明の火が光源となり、岩壁がフィルムであり、スクリーンとして、「映画」は誕生しました。ならば、「映画以前」とは、そうした「映画」に至るまでのそれ以前、数万年数十万年の長い時間を指すはず。人々は揺らめく焚き火に映し出された、岩壁の光と影と闇が織りなす、一瞬も変容をやめないタペストリーを見つめてきました。
人類が受け継いできた「映画」のDNAの蠢動はそこからはじまるのかもしれません。だから、映画館など一度も在ったこともなく、映画を一度も観たことのない人も、すぐに映画に親しみ熱狂するのかもしれません。世界中の人々にとって映画が最大の娯楽になったのは、わずかこの一世紀のことに過ぎません。
では、「映画以後」とは何でしょうか?
「ダンクルは、テレビによってフリッカーの効果がさらに進化すると考えています。真のスクリーンは目の網膜であり・・・頭蓋のなかに達する。その頭蓋がいわば洞窟なんです。想像できますか、その薄暗い個人劇場の奥深くに精神(プシケ)というしろものが巣食っている光景が?」(下巻500頁)
誰しも知っているように、動画というものは存在しません。映画のフィルムは光の点滅であり、一コマごとに光と闇が交代しているだけ。静止画を動いているように見せるのは、実は私たちの脳内で起きたできごとに過ぎません。ノートの端に書き込んだパラパラアニメのように。しかし、残像効果だけでは、まだ映画ではありません。映画とは映像の効果によって生じる、私たちの内なる作用なのですから。
この「映画小説」では、映画の撮影や映写技術、編集についても、その概略を理解できるようになっていますが、いかに高度な技術を駆使しようとも、大昔に岩壁を削ったようにフィルムに固着された傷だけでは、けっして映画にはならないことを繰り返し示唆しています。映画とは、私たちが、私が観たときに、そこからはじまり、上映時間が過ぎても、じつは終わっていない。それが映画のほんとうの謎です。
私たちは、一本の映画を観たとき、一冊の小説を読んだとき、私たちのなかで、無意識のうちに、もう一本の映画をつくり、もう一本の小説を書いているのに気づくことがあります。映画ファンが熱烈に愛する映画を熱意を込めて語るとき、注目したシーンや感銘しきりのシーンが、実際にその映画を観てみると、どこにもなかった、存在しなかった、というのは、ままあることです。
詳細に解説したはずの彼に問い正しても、「そんなはずはない」と首をひねるばかり。あるいは、見逃したに違いないとばかりに、黙殺したりします。この小説にも、同様な場面が出てきて、存在しないシーンについて語る映画監督に、インタビュアーは問い正すことすらしない。それはあってもおかしくない、存在したら、たしかに名場面となるのではないかという説得力を持っていたからです。
というわけで、この破格の傑作小説をあなたが読んでみて、コタツのいうようなことは書いてなかった、そこまで著者はいっていなかった、ということがあるやもしれません。どうかそこは気にしないでください。たぶん、あなたとは別の小説を読んだのです私は、映画と同様に。すべては、ON SCREE, ON AIR にあるのに、屋上屋を重ねて、自分だけの映画をつくって、観てしまう。映画を観るときの気恥ずかしさや後ろめたさ、それがやって来る深遠な場所を、この小説によってあらためて知った気がします。
(敬称略)
『フリッカー、あるいは映画の魔』(セオドア ローザック 文春文庫)
上下巻あわせてちょうど1000頁。読み出したら止められず、仕事と睡眠はかくじつにおろそかになるからご注意。読み進むうちに、残高がどんどん減っていく通帳を見るような悲哀にとらわれます。ほら、傑作映画を観ているとき、乗り出すようにスクリーンにのめり込みながら、もう中盤だな、あと30分くらいか、頭の片隅で「THE END」を意識して焦り出す、あの寂しい感じです。
おおげさにいうと、それが1000頁続くのですから、数日で1000万円を費消した亡失と満足をあじわえるわけです(1000万円なんて見たこともないけど)。映画好きなら、よくぞ、映画の気恥ずかしさの向こうにかいま見える、不思議と怖ろしさについて書いてくれた。ただの娯楽とはとても思えない、あの魔的な一瞬によくぞ迫ってくれた。そう感涙にむせぶこと間違いない。
映画好きではなくても、映画の神経症的な怖ろしさを謎解く映画史の概略だけでなく、映画成立の背景となった中世の宗教弾圧などまで知ることができ、じつは映画について誰もほんとうにはわかっていなかったわけだと、溜飲をさげることができます。リュミエール、エジソンの近代以前、映画は未知の、魔術めいた、錬金術に似たもの、というゴシックロマンの魅力も、この小説には横溢しています。
しかし、この「映画小説」は、中世より遥か時空を超えて、「映画以前」と「映画以後」をも語ります。むしろ、そちらが本筋です。
映画のはじまりは、人間が火を手に入れたときから。原始、洞窟のなかで火を焚いた人々の眼前に、照らし出される岩壁の明と暗のひろがりこそ、「映画史」のはじまりではないか。その洞窟で、人は絵を描いた。牛や鳥や狩りをする人々を。それはもちろん、松明の火の光を頼りに描かれた、黒白の物語です。
暗い洞窟は映画館であり、松明の火が光源となり、岩壁がフィルムであり、スクリーンとして、「映画」は誕生しました。ならば、「映画以前」とは、そうした「映画」に至るまでのそれ以前、数万年数十万年の長い時間を指すはず。人々は揺らめく焚き火に映し出された、岩壁の光と影と闇が織りなす、一瞬も変容をやめないタペストリーを見つめてきました。
人類が受け継いできた「映画」のDNAの蠢動はそこからはじまるのかもしれません。だから、映画館など一度も在ったこともなく、映画を一度も観たことのない人も、すぐに映画に親しみ熱狂するのかもしれません。世界中の人々にとって映画が最大の娯楽になったのは、わずかこの一世紀のことに過ぎません。
では、「映画以後」とは何でしょうか?
「ダンクルは、テレビによってフリッカーの効果がさらに進化すると考えています。真のスクリーンは目の網膜であり・・・頭蓋のなかに達する。その頭蓋がいわば洞窟なんです。想像できますか、その薄暗い個人劇場の奥深くに精神(プシケ)というしろものが巣食っている光景が?」(下巻500頁)
誰しも知っているように、動画というものは存在しません。映画のフィルムは光の点滅であり、一コマごとに光と闇が交代しているだけ。静止画を動いているように見せるのは、実は私たちの脳内で起きたできごとに過ぎません。ノートの端に書き込んだパラパラアニメのように。しかし、残像効果だけでは、まだ映画ではありません。映画とは映像の効果によって生じる、私たちの内なる作用なのですから。
この「映画小説」では、映画の撮影や映写技術、編集についても、その概略を理解できるようになっていますが、いかに高度な技術を駆使しようとも、大昔に岩壁を削ったようにフィルムに固着された傷だけでは、けっして映画にはならないことを繰り返し示唆しています。映画とは、私たちが、私が観たときに、そこからはじまり、上映時間が過ぎても、じつは終わっていない。それが映画のほんとうの謎です。
私たちは、一本の映画を観たとき、一冊の小説を読んだとき、私たちのなかで、無意識のうちに、もう一本の映画をつくり、もう一本の小説を書いているのに気づくことがあります。映画ファンが熱烈に愛する映画を熱意を込めて語るとき、注目したシーンや感銘しきりのシーンが、実際にその映画を観てみると、どこにもなかった、存在しなかった、というのは、ままあることです。
詳細に解説したはずの彼に問い正しても、「そんなはずはない」と首をひねるばかり。あるいは、見逃したに違いないとばかりに、黙殺したりします。この小説にも、同様な場面が出てきて、存在しないシーンについて語る映画監督に、インタビュアーは問い正すことすらしない。それはあってもおかしくない、存在したら、たしかに名場面となるのではないかという説得力を持っていたからです。
というわけで、この破格の傑作小説をあなたが読んでみて、コタツのいうようなことは書いてなかった、そこまで著者はいっていなかった、ということがあるやもしれません。どうかそこは気にしないでください。たぶん、あなたとは別の小説を読んだのです私は、映画と同様に。すべては、ON SCREE, ON AIR にあるのに、屋上屋を重ねて、自分だけの映画をつくって、観てしまう。映画を観るときの気恥ずかしさや後ろめたさ、それがやって来る深遠な場所を、この小説によってあらためて知った気がします。
(敬称略)
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