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青が散る 1

2010-12-03 00:02:00 | ブックオフ本


言葉の綾掲示板で、M氏から「絶品である」と勧められた『青が散る』(宮本 輝 文春文庫)を読んだ。ほんとうに、「絶品」だった。以下は、そのM氏が若き日に地域コミュニティ誌に書いた紹介だが、前のめりにこの小説を読んでいることがよくわかる。『青が散る』には、たしかにそういう力がある。

「青が散る」

 宮本輝作の同小説に出会ったのは、20代前半の若き頃であった。自分自身の将来が見えず、やるせない寂寥感に苛まれ、自暴自棄に近い感情になっていた時期であり、そこに描かれた多くの若者すべてに共感し、涙したことを覚えている。
 主人公燎平は、佐野夏子に恋をした。入学手続きをしにいった雨の日であった。その日から卒業試験の日までの、彼らの4年間の青春がそこには描かれている。
 青春とは、決して美しいものではない。悲哀と羞恥の連続である。燎平の恋した夏子は、金持ちのぼんぼん息子である田岡の、きまぐれ遊びの相手とされる。燎平と田岡、この両者は比べようもなかった。燎平は、社会的地位で負け、財で遠く及ばず、テニスの腕前では格が違う相手であった。

 夏子の母親に頼まれ、彼女を説得しに2人の旅行先まで向かった燎平は、その帰り電車のトイレで一人泣く。
「俺はきっといつの日か、大きな、鋼鉄のような男になってみせるぞ」
汚れた壁に額を押し当てながら、彼の魂は叫んだ。何もないのに、若さというエネルギーと傷つきやすい心根だけが充満しているからこそ青春は美しいのだが、この時の彼にはそんな真理は耳に入るまい。
 恋とは、魂のどよめきである。虚構を纏った者にはそれは見えない。しかし、自分の魂を正面から見据えた者は、またそれが傷つき打ちのめされる姿も見せつけられるのである。
 彼は、大学の老教授と、ふとしたことから知り合いになる。そして、贈られた言葉が「自由と潔癖」である。
「若者は、自由でなくてはならないが、潔癖であるべきである」
燎平は自由であった。そして、自分自身に潔癖であった。

 青春とは悲哀と羞恥の連続、と書いた。そんな災難が立ち現れないよう、予防線を張ることができる者を「大人」と呼ぶ。燎平は「大人」ではなかった。まさに「青春の時」を生きた。そして、傷ついたのだ。
 しかし、必ずや燎平は立ち直るであろう。なぜなら、自分の魂を見据えているものは、それが癒され蘇る姿にも、己で気づいていくからである。

 今の私は、「自分の魂」どころか、それにまつわりつく「虚構」という垢しか見出すことはできない。しかし、そこで目を背けず、じっとその奥を凝視していると、その向こうに「内なる青」が、まだ散らずにぼんやりと光を放っているような気がするのである。

さて、宮本輝が、この『青が散る』の連載を開始したのは、33歳。それから4年をかけて完結させた力作である。ちなみに、先日、最終回を迎えたNHKの「龍馬伝」の坂本龍馬が暗殺されたのも、33歳。M氏がこの感想を書いたのは、30歳。宮本輝も坂本龍馬も、30代に大きな仕事を成し遂げたのにひきかえ、自分はいまだ足踏みしているのではないか、M氏のそんな燎平のような焦燥と懊悩の呻き声が聴こえるようだ。しかし、中高年になってからはじめて読んだ私には、残念ながら、そうした自分に引きつけた読み方はもうできない。また、M氏が燎平なら、私は、燎平からニヤニヤ笑いを「虫酸が走る」といわれ、キャプテンの金子から、「何をするにも遊び半分や」とテニス部入部を拒否される貝谷だろう。したがって、なるべく自分からは突き放し、M氏の感想が触れていないところを書いてみたい、と予告しておきます。

(敬称略)

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