必達目標というのは、以前はね、努力すれば、できない目標じゃなかったんだがね。前年同期比12%増ではねえ。僕が課として出した数字は7%だったんだが、それだって、君らはブーブーいってたよな。どこから出てきたんだろうねえ、12%。
ところで、企画開発部の森沢さんとは、どうなの? 結婚するんだろ? ビール、それとも、焼酎にするかい? うんうん、おいおい聞こうかね。あずさ、焼酎もね。
あ、そう、今夜は、あずサバ、か。いやね、ウチのカミさん、なんでも自分流に料理して、名前付けるのよ。あずさオリジナルのサバ料理だから、あずサバ、ははは。そうか、あずサバか、うーん。君、サバは好きかい? そうか好きか、そりゃ、残念だったね。
そう、森沢さん、料理好きなの。そりゃよかった。男にとって、結婚とは、まず、食い物だからね。そう、ちょっと意外だな、森沢さん、料理作るんだ。もう、作ってもらった? 肉ジャガとか?
ウチのに? それはどうかなあ。料理学校に通っているんだろ? それでいいじゃない、わざわざ、君のところは板橋だろ。所沢まで来るこたない。いや、遠いしさ。まあ、食べてみてからさ、そういうことはいったほうがいいんじゃないかな、あずサバ。
おっ、焼酎きたね。ロックにする? いいから、いいから、つくるのは最初だけ。あとはめいめいでね。ほら、来た、あずサバ。早かったね。ありがとう。うん、豆板醤ソースだろ、わかってる。僕が教えるから。いいよ、ここは。
はい、これがあずサバ。びっくりした? えーとね、蒸してるのね。さばを蒸すと、こんなヌメーッとした青色になるのね。で、この皮をこうめくるとね、茶色いブヨブヨした身が出てくると、もうね、とてもサバとは思えないだろ。でさ、こう身をほぐしてね、豆板醤ソースにつけて食べるの。
あ、辛くはないよ。豆板醤と醤油に胡麻油に山葵が混ぜてある。どう? よく食べたねえ、無理しなくていいよ。僕もね、あずサバじゃなければいいがなあと思ってたんだが、ははは。悪かったね。サバを蒸して、油脂を抜くと、こんな味になるんだねえ。なんか、箸で押すと、ジュクジュクしているところが、ちょっとね、ねえ。
えっ、微妙な味? わはは、それをいうなら、奇妙な味だろ、わはは。でさ、このソースが、豆板醤ソースがまた、どうして山葵を入れるんだろ? もう、わけわかんないよね。ただ、焼いてね、黒く焦げた皮へ醤油をじゅっとかけてさ、食ったらね、もうどれだけ美味いかってね。
やっぱり、ビールがいいんじゃない? 口の中洗いたいだろ。そのコップでいいだろ。いいって、君しか口付けてないんだから。でさ、結婚するっていうのはだね、こういうことなんだよ。味覚の違いってのはあるからさ。俺もね、新婚のとき、ちょっとゾッとした覚えがあってね。
あっ、ミーちゃん、ミーちゃん、よしなさい、毛が付くからね。こっちおいで、ミーちゃんも、あずサバ食べるかい? ほらね、ウンチした後始末みたいに、砂かける真似するだろ、ははは。青魚は食べないからね。サンマくわえて逃げるってマンガがあるけど、ありゃ、嘘だね。
森沢さんは、どうなの。へえ、パスタが得意なの。カルボナーラ? ふーん。でさ、やっぱり、森沢さん、うちのに料理習わせに来させる? わはは、僕はいいよ、あずさも喜ぶしさ、ははは。
いや、あずサバはほんの一部さ。あずさしというのもある。刺身だがね、ただの刺身じゃない。おいおい、そう目を丸くするなよ、ただのカルパッチョだよ、オリーブ油に漬かってるの、レモンかけてね、パセリの刻んだのを乗せて、召し上がれってね。うん、悪くないよ、ただね。刺身がマグロなんだ、ふつう、白身だよね。醤油かけようとすると、怒られる、味が台無しになるって、ははは、味が台無しだって、わはは。
あずサーモンというのもある。これはね、これはね、見かけはね、サーモンのクリームソースがけみたいなのね、やったと思った、嬉しかったね、ビール探したね、鼻歌が出たね。でもね、やっぱりホイルで蒸し焼きしてあって、ソースがね、これが酒粕ベースなの。そう三平汁だな。
いやいやいや、三平汁を煮詰めただけなら、いいんだがね、やっぱりクリームソースだから、ミルクやバターも入っているわけね。舌触りも滑らかなようで滑らかではないような、どんな味だか舌先で転がしても正体がわからないという。これにあずサワーっていうドクダミ茶をブレンドしたカクテルを飲んでると、しみじみ単身赴任したくなってね、わはは。
でもさ、課を放り出して、よそへ行くわけにもいかないだろ。うそうそ、冗談だよ。いまさらね、この年になって、単身赴任もないでしょ。だいいち、受け入れ先がないよ、わはは。ま、7%で睨まれてるからね、12%はともかく、7%を上回らなくちゃ、もしかすると、地方の子会社行きかもね、あずさ2号で、わはは。
でさ、森口さんと味覚の違いはない? 大丈夫? まだ、わからないか。そうなんだよ、彼、この秋に結婚するらしい。でね、相手は森口さんっていってね、企画開発部にいるんだが、いい娘でね、花嫁修行中でね。あずさ、お前にさ、料理習わしたいんだそうだ、どうかね、週に一度くらい。遠慮するな、君。あずサバにあずさし、あずサーモン、あずサワー、みんな教えてあげなさい。迷惑なんてあるもんか。仲人だって勘弁してもらったくらいだから、何かお役に立たなくちゃね。
えっ、あずさこ、つくってるの? ほお、そりゃ、ぜひ、食べてもらわなくちゃ、わははははは。あずさこってのはね、あずサバの10倍は美味い! ははは。うそうそ、冗談だよ。本気にしなさんなって。3倍くらいだよ、ははは。うん、あれは時間がかかる。やはり蒸すからね。ほら、あずサバ、片づけなくちゃ。もう少し食べてね。僕も食べるから。
新婚生活はいいよね、うん、もうすぐだね、君らも。冗談だっていったけどさ、一度くらい、森口さん、こさせなさいよ。さっき、いっちゃったし。なに、形だけでいいんだ。あずさしならいいんじゃないかな。もう、あずさし教えてくださいって、リクエストしてね。
ああ、新婚のときの話ね。うんうん、あれは驚いた。接待ゴルフでね、日曜の朝早く、飯能ゴルフクラブまで出かけてさ。ハーフ廻ったら腹が渋りだして、冷や汗が出るものだからさ、途中で失敬して、3時頃帰ったわけね。そしたら、見ちゃったわけね。
君さ、熱いごはんにバター溶かして食べる? 食べない。そうだよね、あれ、僕も苦手だなあ。どう考えてもミスマッチでしょ、熱々のごはんにバターは。でも、油ギトギトのチャーハンは旨いんだよね、フライドライスってくらいだから、カロリー気にして油を少なめにすると、旨くない。
うん、帰ってみるとね、ダイニングテーブルに顔を伏せていてね、あずさ。オイッて声をかけたら、顔を上げてね、こちらを見たのね。びっくりしたね、口の周りが茶色いの。僕ね、茶色い髭を生やした、別人かと思った。なんで、見知らぬ他人がいるのか、お客かと思ったりして、でもそんなわけはないし、あずさ?って聞いたら、笑ったのね、茶色い髭が。
それで、あなた、早かったのね、おまえ、何してるの、おやつ食べてるの、って嬉しそうでね。その口はっていうと、ああこれって笑ってね、これっていう。丼のそばに、森永ミルクココアの缶があった。熱々のごはんに、ココアの粉を山盛りかけて、スプーンで掻き込んでるの、それで口の周りが茶色かったわけだ。
こんな話、聞いたことない? ある男が美人で気だてがよくて働き者で、おまけに食が細い嫁をもらったと。ところが、米の減りが早過ぎる。ある夜、ふと目覚めた男が台所をのぞくと、嫁が、後頭部の髪をかき分けたもうひとつの口で、お櫃のご飯を貪り食っていた、という話。それを思い出して、ちょっとゾッとしたね、あれには。
後で聞いたら、子どもの頃から、おやつに食べていたんだって、ココアごはん。ま、ここだけの話、そんな風には見えないだろうけど、あずさの家はひどく貧乏でねえ。森口さんところは、あのへんの土地持ちだってね。あ、森沢さんか、失敬失敬。
でも、新婚時代はいいよねえ。二人で長野へ旅行したときも、ちょっと驚いたねえ。盆にね、一泊二日で温泉に行こうっていうんだ、知っている宿があるからって。で、駅からバスに乗って降りるだろ、目の前に旅館らしい建物があって、こう立派な冠木門っていうの? その奥に石灯籠が見えて、玄関まで飛び石が続いているみたいなの。
そっちへ行こうとすると、あずさが袖を引っ張って、こっちこっちってね、ほかに旅館らしき建物はないのにね。なんか潰れた古い雑貨屋みたいな、屋根が傾いたようなボロ家に連れてくの。中は暗いのに灯りも点いてない。廃屋にしか見えないのね、あずさ、そこに入っていくじゃない。
すると、汚い婆さんが出てきてね。前掛けなんか、汚れて黒ずんでるの。何か、モゴモゴいって、部屋に通されたわけ。ま、外見がね、まるで座頭市が泊まるような家だからね、部屋も推して知るべしだがね。簡単にいうと、衣紋かけってあるだろ、服かけるために、旅館には、浴衣に着替えるから。ハンガーか、そうだね。あれが、針金のだった、ほら、クリーニング屋のやつ。ここは飯場だといわれても僕は頷いたね、ココアごはん食べるやつだからね、ははは。
いや、それが飯はけっこういけたんだよ、意外なことに。山菜尽くしでね、見場はわるいが、珍しいものだった。こちらが知らないだけかもしれないがね。イナゴの佃煮も出たな。温泉はね、最初に見つけた旅館に貰い湯にいった。
あずさはね、お料理おいしかったね、温泉広かったね、穴場でしょって、ご機嫌でね。まあ、家庭サービスなんだから、カミさんが喜んでりゃ、僕はなんでもいいんだがね。宿の値段聞いて、ちょっと怒ったね。8千円だというんだからね、一人。二人でか? と思わず聞き返したね。
あれだけの山菜料理食べれて、8千円なら安いって、あずさはむくれてるのね。30種の山菜ったって、婆さんがそこらで摘んできた野草でしょ、ようするに。部屋は飯場、風呂は貰い湯、人件費は婆さん一人、原価1千円ってとこでしょ。
でも、すごいね、8千円ということは8倍だよ。うちなんて、12%売り上げ増しても、利益率は2.5%しか上がらないのにね。だからね、7%じゃ、話にならんわけね。君らは5%とか脳天気なことをいったけれど、僕はね、せめて9%は出したかったね、もういっても愚痴になるけどね。
ほいほい、やっときたね。あずさこのソースはね、ブルーベリーソースなのね、はい、わかってますよ、たんと召し上がれ、でしょ。ほら、君、これがあずさこだ、わははははははは。
ところで、企画開発部の森沢さんとは、どうなの? 結婚するんだろ? ビール、それとも、焼酎にするかい? うんうん、おいおい聞こうかね。あずさ、焼酎もね。
あ、そう、今夜は、あずサバ、か。いやね、ウチのカミさん、なんでも自分流に料理して、名前付けるのよ。あずさオリジナルのサバ料理だから、あずサバ、ははは。そうか、あずサバか、うーん。君、サバは好きかい? そうか好きか、そりゃ、残念だったね。
そう、森沢さん、料理好きなの。そりゃよかった。男にとって、結婚とは、まず、食い物だからね。そう、ちょっと意外だな、森沢さん、料理作るんだ。もう、作ってもらった? 肉ジャガとか?
ウチのに? それはどうかなあ。料理学校に通っているんだろ? それでいいじゃない、わざわざ、君のところは板橋だろ。所沢まで来るこたない。いや、遠いしさ。まあ、食べてみてからさ、そういうことはいったほうがいいんじゃないかな、あずサバ。
おっ、焼酎きたね。ロックにする? いいから、いいから、つくるのは最初だけ。あとはめいめいでね。ほら、来た、あずサバ。早かったね。ありがとう。うん、豆板醤ソースだろ、わかってる。僕が教えるから。いいよ、ここは。
はい、これがあずサバ。びっくりした? えーとね、蒸してるのね。さばを蒸すと、こんなヌメーッとした青色になるのね。で、この皮をこうめくるとね、茶色いブヨブヨした身が出てくると、もうね、とてもサバとは思えないだろ。でさ、こう身をほぐしてね、豆板醤ソースにつけて食べるの。
あ、辛くはないよ。豆板醤と醤油に胡麻油に山葵が混ぜてある。どう? よく食べたねえ、無理しなくていいよ。僕もね、あずサバじゃなければいいがなあと思ってたんだが、ははは。悪かったね。サバを蒸して、油脂を抜くと、こんな味になるんだねえ。なんか、箸で押すと、ジュクジュクしているところが、ちょっとね、ねえ。
えっ、微妙な味? わはは、それをいうなら、奇妙な味だろ、わはは。でさ、このソースが、豆板醤ソースがまた、どうして山葵を入れるんだろ? もう、わけわかんないよね。ただ、焼いてね、黒く焦げた皮へ醤油をじゅっとかけてさ、食ったらね、もうどれだけ美味いかってね。
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森沢さんは、どうなの。へえ、パスタが得意なの。カルボナーラ? ふーん。でさ、やっぱり、森沢さん、うちのに料理習わせに来させる? わはは、僕はいいよ、あずさも喜ぶしさ、ははは。
いや、あずサバはほんの一部さ。あずさしというのもある。刺身だがね、ただの刺身じゃない。おいおい、そう目を丸くするなよ、ただのカルパッチョだよ、オリーブ油に漬かってるの、レモンかけてね、パセリの刻んだのを乗せて、召し上がれってね。うん、悪くないよ、ただね。刺身がマグロなんだ、ふつう、白身だよね。醤油かけようとすると、怒られる、味が台無しになるって、ははは、味が台無しだって、わはは。
あずサーモンというのもある。これはね、これはね、見かけはね、サーモンのクリームソースがけみたいなのね、やったと思った、嬉しかったね、ビール探したね、鼻歌が出たね。でもね、やっぱりホイルで蒸し焼きしてあって、ソースがね、これが酒粕ベースなの。そう三平汁だな。
いやいやいや、三平汁を煮詰めただけなら、いいんだがね、やっぱりクリームソースだから、ミルクやバターも入っているわけね。舌触りも滑らかなようで滑らかではないような、どんな味だか舌先で転がしても正体がわからないという。これにあずサワーっていうドクダミ茶をブレンドしたカクテルを飲んでると、しみじみ単身赴任したくなってね、わはは。
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でさ、森口さんと味覚の違いはない? 大丈夫? まだ、わからないか。そうなんだよ、彼、この秋に結婚するらしい。でね、相手は森口さんっていってね、企画開発部にいるんだが、いい娘でね、花嫁修行中でね。あずさ、お前にさ、料理習わしたいんだそうだ、どうかね、週に一度くらい。遠慮するな、君。あずサバにあずさし、あずサーモン、あずサワー、みんな教えてあげなさい。迷惑なんてあるもんか。仲人だって勘弁してもらったくらいだから、何かお役に立たなくちゃね。
えっ、あずさこ、つくってるの? ほお、そりゃ、ぜひ、食べてもらわなくちゃ、わははははは。あずさこってのはね、あずサバの10倍は美味い! ははは。うそうそ、冗談だよ。本気にしなさんなって。3倍くらいだよ、ははは。うん、あれは時間がかかる。やはり蒸すからね。ほら、あずサバ、片づけなくちゃ。もう少し食べてね。僕も食べるから。
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ああ、新婚のときの話ね。うんうん、あれは驚いた。接待ゴルフでね、日曜の朝早く、飯能ゴルフクラブまで出かけてさ。ハーフ廻ったら腹が渋りだして、冷や汗が出るものだからさ、途中で失敬して、3時頃帰ったわけね。そしたら、見ちゃったわけね。
君さ、熱いごはんにバター溶かして食べる? 食べない。そうだよね、あれ、僕も苦手だなあ。どう考えてもミスマッチでしょ、熱々のごはんにバターは。でも、油ギトギトのチャーハンは旨いんだよね、フライドライスってくらいだから、カロリー気にして油を少なめにすると、旨くない。
うん、帰ってみるとね、ダイニングテーブルに顔を伏せていてね、あずさ。オイッて声をかけたら、顔を上げてね、こちらを見たのね。びっくりしたね、口の周りが茶色いの。僕ね、茶色い髭を生やした、別人かと思った。なんで、見知らぬ他人がいるのか、お客かと思ったりして、でもそんなわけはないし、あずさ?って聞いたら、笑ったのね、茶色い髭が。
それで、あなた、早かったのね、おまえ、何してるの、おやつ食べてるの、って嬉しそうでね。その口はっていうと、ああこれって笑ってね、これっていう。丼のそばに、森永ミルクココアの缶があった。熱々のごはんに、ココアの粉を山盛りかけて、スプーンで掻き込んでるの、それで口の周りが茶色かったわけだ。
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後で聞いたら、子どもの頃から、おやつに食べていたんだって、ココアごはん。ま、ここだけの話、そんな風には見えないだろうけど、あずさの家はひどく貧乏でねえ。森口さんところは、あのへんの土地持ちだってね。あ、森沢さんか、失敬失敬。
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そっちへ行こうとすると、あずさが袖を引っ張って、こっちこっちってね、ほかに旅館らしき建物はないのにね。なんか潰れた古い雑貨屋みたいな、屋根が傾いたようなボロ家に連れてくの。中は暗いのに灯りも点いてない。廃屋にしか見えないのね、あずさ、そこに入っていくじゃない。
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いや、それが飯はけっこういけたんだよ、意外なことに。山菜尽くしでね、見場はわるいが、珍しいものだった。こちらが知らないだけかもしれないがね。イナゴの佃煮も出たな。温泉はね、最初に見つけた旅館に貰い湯にいった。
あずさはね、お料理おいしかったね、温泉広かったね、穴場でしょって、ご機嫌でね。まあ、家庭サービスなんだから、カミさんが喜んでりゃ、僕はなんでもいいんだがね。宿の値段聞いて、ちょっと怒ったね。8千円だというんだからね、一人。二人でか? と思わず聞き返したね。
あれだけの山菜料理食べれて、8千円なら安いって、あずさはむくれてるのね。30種の山菜ったって、婆さんがそこらで摘んできた野草でしょ、ようするに。部屋は飯場、風呂は貰い湯、人件費は婆さん一人、原価1千円ってとこでしょ。
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ほいほい、やっときたね。あずさこのソースはね、ブルーベリーソースなのね、はい、わかってますよ、たんと召し上がれ、でしょ。ほら、君、これがあずさこだ、わははははははは。
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