コタツ評論

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ゴッドファーザー 

2009-02-19 17:57:00 | レンタルDVD映画
The Godfather – Orchestral Suite. - The Danish National Symphony Orchestra (Live)


NHKのBSで放映していた。Ⅰは見逃して、Ⅱは全編、Ⅲは後半のみ。あらためて、Ⅰ>Ⅱ>Ⅲ だと思った。あるいは、Ⅰ>Ⅱ≠Ⅲ ではないかとも。

しかし、絵はどの作品とも凄いと感心した。何回も観ているのと、こちらが30年以上年齢を重ねたせいか、主筋や主役より、脇の物語や脇役に注意がいってしまう。たぶん、「ゴッドファーザーおたく」のような人が日本にもたくさんいて、なかにはびっくりするほど詳しい人がいるだろうと思う。そんな人の話が聞けるときっと楽しいでしょう。

ここでマイフェバリットな役や俳優を思い出してみると、PERTⅠでは、悪徳警官マクラウスキー警部(スターリング・ヘイドン)、麻薬ビジネスをコルレオーネファミリーに持ちかけるソロッツォ(アル・レッティエリ)が印象深かったですね。PERTⅡでは、ファミリーを裏切ってFBI側の証人になる「天使のフランキー」(マイケル・ガッツォ)が厚ぼったい口髭としゃがれ声と太い腹の男っぽさで、子分のチッチ(ジョー・スピネル)と共に味わい深い。シリーズを通してなら、やはり、トム・へイゲン(ロバート・デュヴァル)の静謐な佇まいとフレド・コルレオーネ(ジョン・カザール)の哀切が心に残ります。

しかし、ゴッドファーザーシリーズの数多(あまた)ある役と俳優の中で、いちばん好きを上げよといわれれば、この人のこの役と迷いません。マイケルに影のように寄り添う殺し屋アル・ネリ(リチャード・ブライト)です。


この人は、S・マックイーンとアリ・マッグロウが共演して後に結婚するきっかけになった、「ゲッタウエイ」(1973)が初見でした。ほとんど、一目惚れのように気に入りました。「ゲッタウエイ」は、マックイーン扮する銀行強盗が奪った金を持ってアリ・マッグロウの妻と逃避行をするロードムービーでした。追いかけるのは、警察ではなく犯罪ボスが送った殺し屋。「ゴッドファーザーPERTⅠ」でソロッツオを演じたアル・レッティエリ。この人もむせかえるような男臭さで圧倒的でした。

さて、アリ・マッグロウが駅のコインロッカーにカバンを預けようとすると、カウボーイハットにこざっぱりとした旅行姿のリチャード・ブライトが声をかけて手伝います。金の詰まったズッシリ重いカバンをロッカーに入れ、鍵をアリ・マッグロウに渡しました。「ご親切にありがとう」と感謝する女。「どういたしまして」と西部の男らしく帽子のひさしに指を添えて返礼します。

マックイーンと落ち合って、ロッカーに戻ります。どうしてか鍵が開かない。係員を呼んで開けさせると、中は空っぽ。「そんなはずはないわ! 親切な男の人が手伝ってくれて・・・アッ」と手で口を覆う女。カウボーイハットはあらかじめ持っていた別の鍵とすり替えたんですね。マックイーンはカゴ抜け詐欺に引っかかったとすぐに気づき、「駅で待っていろ!」と女に言い残し探し歩く。

やがて、運よく見覚えのあるカバンを提げたカウボーイハットの男を見つけ、懸命に追いかけるが、やがて見失ってしまう。出発していく列車を見送りながら立ち尽くすマックイーン。汗が吹いています。一方、逃げた男は走り出した列車に飛び乗り、車中の人となる。後ろを気にしながら、少しでも先に逃げようとするかのように、前の車両へ車両へと足早に歩いていく。頃合いと席についてほっとする。

ほかの乗客はほとんどいない。汗だくでまだ眼が落ち着かない。ようやく息を整え、近くに人がいないか振り返ってから、膝上に置いたカバンを開けてみる。唸る札束。びっくりして目を丸くするケチな詐欺師。カバンを閉じて、興奮を抑え込もうと努める。沸き上がる嬉しさに笑顔が広がる。愛しそうにカバンを撫で回す。と、隣の席に誰か座った。(アッ、追いかけてきた男だ)と思うまもなく、パンチが喰らわされ・・・。

安っぽい格好をした、貧弱な体格で卑小な顔つきの、めまぐるしく青い眼が動く小心な男。リチャード・ブライトはそんな小悪党を演じて、とてもカッコウがよかった。最低の男が最高の幸運を引き当て、すぐにまた最低の男に戻る、ケガ付きで。しかし、観客は途中からこのケチな詐欺師に同情してしまうのを止められない。俺たち自身だからだ。

命金を追うマックイーンに感情移入しなければならないのに、逃げるネズミの詐欺男に猫から逃げ切ってくれと思ってしまうのだ。リチャード・ブライトが徹底した卑小を造型したおかげで、観客の我が事になった。見事に負け切ってみせて、大スターを食い、脇役・ちょい役にも、それぞれ生き延びようとする人生があることを観客に思い出させた。それは胸が空くカッコウのよさだった。

そのリチャード・ブライトが、「ゴッドファーザー」に寡黙で凄腕の殺し屋アル・ネリで登場したときは、バンザイしたくなりました。ケチな詐欺師と同様、冷徹な殺し屋になりきりました。PERTⅡでは、終盤、大司教を殺すためにバチカンへ旅立つ列車のコンパートメントに座っています。膝上にはチョコレートの小箱。これはもう、「ゲッタウエイ」の列車シーンのパロディではないかと。引用されるほど、秀逸なシーンとして語り継がれているのだと思えてしまいます。

コンパートメントを買い切ったとは、出世したな、リチャード・ブライト、よかったよかった、と肩を叩きたくなりました。高価そうなチョコレートの詰め合わせ箱を開いて、そのひとつを小さめの口に頬張る。その手つきは慎重です。箱の底に隠された拳銃を確かめ、車窓の夜を見遣る。チョコレートを咀嚼する少し野卑な口許。殺し屋とチョコレートの意外な組み合わせが、リチャード・ブライトを得て効いていました。今回、PERT.Ⅱ 観ていて、このアル・ネリはかなり重要な役だと確認しました。

こんな場面があります。ドン・マイケルの執務室。マイケルの他に幾人かの幹部がいて話し合っています。アル・ネリはいつものように後ろに立ち控えています。セーター姿です。いつのまにか、室内に設けられたミニバーのカウンター前にいます。アル・ネリは、(退屈だなあ)とばかり、授業中に中学生が居眠りをするような格好で、バーカウンターに俯せ手の甲に頬を乗せます。くつろいだグレートデンのようです。考えてみれば、ドンの前で不作法な振る舞いです。しかし、誰も気にしません。

ボデイガード兼殺し屋のアル・ネリは、ドンであるマイケル・コルレオーネの忠実な犬なのですが、グレートデンのようにどこか主人の力量を推し量っているようなところがあります。この主人は、本当に自分の飼い主たる資格を持つ、強く賢い男なのかと。マイケルもコーヒーを持ってこさせ、車や部屋のドアを開けさせるアル・ネリの視線を、ときに気にしたりします。その無表情な瞳に自分がどう映っているかを。ただの主人と犬、親分と子分の関係ではないようです。

なぜ、マイケルは、「ママが死ぬまでは、フレドの身は安全だ」と聞こえよがしにいわなければならなかったのか。自分に言い聞かせ、アル・ネリに聞かせるためでした。裏切り者には死を、というファミリーの掟を兄だからと、すぐには実行せず延期することへの後ろめたさ。あるいは、言い換えれば、「ママが死ぬまでの命だ」とアル・ネリらファミリーのメンバーに宣言したという意味でしょうか。ドンとしての義務と兄弟としての情愛に、身を引き裂かれるマイケルという場面なのでしょうか。

マイケルとアル・ネリの視線の交差を俺はそうは見ませんでした(ねえ、こういうときに目線という言葉はないでしょう?)。互いに冷たい視線です。

アル・ネリはPERT.Ⅰでは、交通警官に偽装して、コルレオーネ・ファミリー潰しの黒幕であるドン・バルジーニ(リチャード・コンテ)を仕止めます。PERT.Ⅲでは大司教を葬ります。いわば、コルレオーネ・ファミリーの最終兵器です。アル・ネリは命令に従うだけで、殺す人間に好悪や愛憎などの感情はもちろん、組織の中での功名心すらなさそうです。アル・ネリは出世しない。あいかわらず、ドンの傍らに控え、自分の組や縄張りを持っているようには描かれていません。

契約に基づく報酬や疑似家族共同体の絆といった生臭さとアル・ネリは結びつきません。ただ、無垢な暴力を行使する。アル・ネリのような男こそ、マフィアの伝統と組織が造り上げた人間なのです。マフィアというシステムがつくった生ける死に神なのです。「天使のフランキー」なら、ローマ帝国の闘士と褒めそやすかもしれないが、マイケルにとっては、変革しようとしたファミリーの象徴のような存在ではないでしょうか。マイケルはケイに、「ファミリーを合法化する」と幾度も約束します。そのとき、マイケルは本気でした。しかし、結局はできなかった。

マイケルは母の死後、フレド殺しをアル・ネリに命じます。別の見方をすれば、アル・ネリがマイケルに命じたのです。フレドを殺すように。それこそがファミリーの掟であり、掟こそがファミリーだからです。実際のイタリア系マフィアがどうであるかは関係ありません。この映画では、ファミリー(家族)を超えたファミリー(システム)の残酷を描いているからです。マイケルは、アル・ネリにフレド殺しを命ずることで、生涯を賭けて闘ったファミリー(システム)に膝を屈しました。

したがって、「ゴッドファーザー」は、アル・ネリがフレドを撃った湖水の場面で終わったと思えます。ボートハウスで銃声を聴くマイケルは、守るべき家族を殺したことで、あらためて家族を失い、もはや死んだも同然なのです。かつて、「ゲッタウエイ」で逃げるネズミだったリチャード・ブライトは、「ゴッドファーザー」では、ファミリー(システム)の死神として、ドン・マイケルを打ち負かします。マーロン・ブランドより、ロバート・デニーロより、アル・パチーノより、リチャード・ブライトとジョン・カザールをコッポラは描きたかった。どの場面より、このフレド殺しの場面こそ重要だと考えたのではなかったか。

寂しい湖水のボートにいるのは、フレドとアル・ネリだけでした。「ゴッドファーザー」は象徴的な場面の多い映画でしたが、ほとんど寓話的なほど象徴的な場面ではなかったかと思っています。つまり、アル・ネリ=リチャード・ブライトは、隠れた主役だったのです、といえば、そりゃ言い過ぎでしょう。最近見かけませんがリチャード・ブライト、元気でしょうか。

(敬称略)



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Sexy Beat

2009-02-19 15:48:41 | レンタルDVD映画
さて、「Sexy Beat」だが、なんとイギリス映画である。






おもな場面は日射しの強いスペインの海岸の別荘。主演がレイ・ウインストン、共演がベン・キングスレイ。レイはイギリス映画には欠かせない名脇役、ベンは国際的な名優といってよい位置だろう。この二人の映画が「セクシービート」。金髪ビキニ娘が意味もなくうろうろ、ドンチャカ音楽に尻振って踊る場面を予想したが、そんなSexyやBeatはどこにもなかった。どうしてこのタイトルなのか、いまだにわからない。

スペインで悠々自適の隠退生活を送るギャングに、ロンドンから悪事を持ちかけに旧知のギャングが訪ねてくる。嫌がる引退ギャングのガル(レイ・ウインストン)、強引な悪事持ちかけギャングがドン・ローガン(ベン・キングスレイ)。この二人の映画を観てきた人なら、配役が逆だろうと思うはずだ。粗暴で相手を震え上がらせる役柄ばかり演じてきた傲岸な面構えの大男のレイこそ恐喝男向きだし、由緒正しいイングリッシュを駆使するインテリ役が相場のベンなら怯える男がふさわしい。ところがこの映画のベン・キングスレイ、ちょっと見にはわからない。

ガンジーを演じたインド系の黒い髪と瞳を染め変えた扮装もさることながら、英語らしいとわかるくらいの不明瞭な発音で口汚く罵り怒鳴る口調が、まったく違うのだ。ロイヤル・シェークスピア・カンパニー出身のシェークスピア役者が、ロンドンの下町の下層の下品な英語をまくしたてる。適切な例が浮かばないが、強いていえば、日本ならやんごとなき皇族の口から、河内弁が飛び出すようなものか。怒鳴り声の迫力以上に、ちょっと日本語の語彙には見当たらないと思えるほど罵倒が辛辣をきわめる。気の弱い人なら、卒倒しそうなくらいに凄まじい。

一流の金庫破りとしてギャング仲間から一目置かれていたガルも、ドンの無理強いをはねのけるどころか、自分だけでなく傍らの愛妻や親友を侮辱され、いきなり殴られ蹴られても、機嫌を損ねまいとおどおどしている。しかし、この怖ろしいドン・ローガンさえ、さらに大物のテディ・ベス(イアン・マクシェーン)の使いにしか過ぎないのだ。眩く暑いスペインで天国を楽しんでいたのに、ドンの虚ろな眼光は冷たく暗いロンドンを覗かせる。追いつめられたガルは危機を脱せるのか?

という暗黒街と犯罪計画、犯罪者をめぐる心理サスペンスなのですが、ひじょうにホモセクシャルな映画でもあります。ホモセクシャルといっても、「モーリス」のような上流階級の美少年や美声年が恋をするような耽美なゲイではありません。「カマ野郎!」という罵り言葉が日常であるような、血と汗と肉にまみれ、骨がきしむ暴力と残酷な死をやりとりする男たちの間の、ホモセクシャルとしか呼びようのない切迫した感情が、この映画の全編を流れています。そうしたホモセクシャルの典型が、ドン・ローガンに扮したベン・キングスレイなのです。

つまり、この映画は、足を洗った金庫破りが、犯罪組織によって犯罪に引き戻されようとするが抵抗するという映画ではない。少なくともガルが忌避したのは、犯罪組織という機能集団が結ぶホモセクシャルな共同体のメンバーに戻ることなのです。その男たちの世界では、sexyとは陰惨な振る舞いであり、不吉なbeatに煽られるものなのです(無理矢理かな)。CATVやスカパーを視聴しているなら、繰り返し放映されているはず。観て損はありません。

(敬称略)


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欲望という名の電車

2009-02-19 15:42:22 | レンタルDVD映画


年度末が迫って忙しいのに、CATVで「Sexy Beat」、BSで「ゴッドファーザーⅡ」と「Ⅲ」、同じく今夜のBSで、「欲望という名の電車」の後半30分を観てしまった。仕事をさぼって本を読んだり、じゅうぶんな睡眠をとるべきなのにTVの映画を観てしまう。たぶん、大人のすることではないが、子どもの楽しみでもない。この瘡蓋(かさぶた)を剥がすに似た痛みとスリルは。

まず、「Sexy Beat」。ひどいタイトル。安い予算。検索しても公式ホームページなどは出てこない。さすがに、IMDB(インターネットムービーデータベース)には紹介があった。2人がプロット(あらすじ)を書いていた。

映画紹介のブログなどであらすじを書いているのを見かけ、ときどき思うのだが、書く人はおもしろいのだろうか。まだ観てない人は読みたくないし、すでに観た人は読む気になれないはずだから、たぶん書いている人だけがおもしろいのだろう。他人の楽しみにケチをつけるつもりはない。ただ、同じ書くなら自分だけのあらすじを書いた方がずっとおもしろいのにと思う。雑誌や新聞の映画欄が載せるような最大公約数のあらすじではなく、自分にとってのあらすじが、映画を観たならきっとあるだろうと思う。

たとえば、「欲望という名の電車」は、俺にとってはブランチとスタンリーが惹かれ合う物語以上に、ステラの映画だ。ラストシーンのステラは夫スタンリーとの別れを決意して幼子を抱きしめる。その姿に重なるように、「ステラーッ」と叫び呼ぶスタンリーの声は物苦しい。ステラはなぜスタンリーと別れる決心をしたのか。姉を犯して狂わせたスタンリーに怒ったのではなく、姉とはいえ他の女に心を移したのが許せなかったのでもなく、ブランチの出現によってスタンリーが自らを失いあがくのを見せられ、妻である自分や子どもが眼中にないことを思い知らされたから、スタンリーを捨てるのだ。スタンリーが、家族や生活の内にではなく、その外に夢を見る姉と同じ退嬰的な人間と見破ったわけだ。

「ステラ、生き続けるのよ」とかけられた言葉は、もちろん、第一義的には、「スタンリーのような下劣な男でも、暮らしていくには必要よ。我慢しなさい」という意味だが、「ステラ、現実を生きるのよ」という、より高次な意味が重ねられている。それは同時に、「ブランチのように現実を避けてはいけない」という戒めであり、現実にどう対処するかという選択をうながしている。だから、ステラは、「2度と私に触れないで」とスタンリーを拒否し、「今度こそ別れる決心がついたわ」と貧しい家の前に立ち、周囲を見回すのだ。これが見納めのように。

「ステラーッ」と叫ぶスタンリーの声が重なる。ステラと観客はそこでもうひとつの現実をはっきりと知る。気の狂いかけた姉の世話をし、生活苦に苛立つ粗暴な夫をなだめすかして、すべてを与えて家庭を支えてきたのは誰かを。誰の力によるものかを知る。現実に打ちのめされながらも、現実を変える力を持つ者の名を胸に刻むのだ。ここで、「ブランチとスタンリー」という悲恋映画から、「ステラの選択」という自立の映画となる(後半30分だけ観たせいで、よけいにそう思えたかもしれないが)。エリア・カザンらしい教科書みたいに左翼的な映画だ。

(敬称略)


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オニババ化する女たち

2009-02-14 23:40:46 | ブックオフ本
タイトルがよくないと思いませんか?
『オニババ化する女たち-女性の身体性を取り戻す』(三砂 ちづる 光文社文庫)

「オニババ化」はまあいいのですが、「女たち」にうんざりしませんか。ちょっと検索しただけでも、女たちの戦争と平和人権基金・FGM廃絶を支援する女たちの会・戦争を許さない女たちのJR連絡会・女たちの21世紀・20世紀を彩った女たち・女たちの大和・徳川の女たち・出会い系の女たち・男に無理しない女たち・・・。

男社会にまつらわぬ「女たち」という、明らかにフェミニズム以降の言葉づかいです。それぞれの運動体や人物の内実はともかく、この言葉づかいは賞味期限が切れているでしょう。世界の半分を占める女性をマイノリティとしてとらえ、そのなかで特定少数を指し示すための「女たち」。古臭い「団結と統一」のスローガンと「前衛」の構図です。

本書は、月経や性、出産、授乳などの身体性から女性性を見直す目的で書かれているため、女を結婚や出産に縛りつける反動的な論考とフェミニストには不評らしい、たぶん。そこでフェミニストたちの好む「女たち」を皮肉として用いた。月経の時期を操作する薬を飲み、結婚や出産を忌避して、自己実現をめざす「女たち」は「オニババ化する」とあらかじめ挑発したタイトルかと思いました。あるいは、結婚や出産をする「女たち」が特定少数であるかのような逆転現象をアピールするのを意図したとか。

途中までしか読んでいませんが、以上のような読み方はやはりうがちすぎで、それほど意地の悪い本ではなさそうです。「女たち」と大上段に振りかぶったわけではなく、「あなたたち」くらいの少人数に語りかけるフレンドリーな言葉づかいのようです。本のタイトルは編集部が付ける場合が多いので、著者の意向ではなかったという可能性もあります。すくなくとも、これまで読む限りでは、アンチ・フェミニズムといった狭量な背景はなさそうです。

「男たち」にもこういう身体性を扱った本が欲しいものです。男の性と生殖を軸に、老眼やED、中折れ、性的なフェティシズム、セクシャルハラスメント、腰痛、前立腺肥大、加齢臭、アルコールやタバコ依存、などなどについて(なんだい、ぜんぶ俺のことではないか)、フロイトまがいの精神分析ではなく、身体性から解き明かしてもらいたいとは思いませんか? 思いません。それよりなにより金が足りない。

(敬称略)


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日本語 実用の面2

2009-02-14 01:36:00 | ブックオフ本
いや、まいったな、和田久太郎『獄窓から』の2を続けたいのに、本が見つからない。どうしてこの狭い家でしょっちゅう物が失くなるのか、超常現象としか思えない。中野重治が引いている福沢諭吉の『福翁自伝』ばりの闊達な名文として和田久の手紙文を紹介したかったのに。鈴木清順『物語村木源治郎』のどこが映画としかいえないのか。視点ではなく視線の仕掛けを確認したかったのだが。 

さて、今回は中野重治を批判しちゃう。もうね、ブログ名も「コタツ評論」と変えたわけだし、評論といえば批判するに決まってるからね。中野重治はとっくに亡くなっているし、文句を言ってくる心配もないしね。ま、ご存命でもその心配はないのだが。

で、中野重治とはどういう人か。まずね、文学全集に入っている小説家なのね。若い頃で詩作はやめてしまったけれど、詩人としても有名だし、俺も一冊詩集を持っている。文芸評論家としても何冊も評論を出しているね。小説家で詩人で評論家なのね。俺はポエマーでコタツ評論するから、これで小説書けばタメね。そのうち、やおい小説を書こうと思っているけど。

さらに中野重治は参議院議員でもあったのね、敗戦直後の日本共産党躍進した一時期。俺は所沢市議くらいかな、なれるとすると。その上、中野重治は有名女優を嫁さんにしていたのね。原泉という。俺は「はらいずみ」とずっと読んできたけれど、「はらせん」が正しいらしい。お婆さん役が印象に残っているな。お婆さん役といっても、北林谷栄や浦辺粂子みたいな呆けタイプじゃない。唇が薄くてね。かくしゃくとした役柄が多かった。若い頃は知的な美人だったろうなと思わせる。つまり、中野重治は女にモテた。危篤から臨終のときは小説家の佐多稲子がつきっきりだったそうだ。77歳でそれだからね。モテたといえば、そりゃ俺だって・・・、ま、いいや。

それから中野重治は監獄にも入ったことがあるの。戦前からの日本共産党員でね。俺は監獄に入ったことはないが、入りそうになったことはある、破廉恥罪だがね。で、ネットでは適当な写真が拾えないが、中野重治は男らしいよい顔をしているのね。ま、俺もブ男といわれたことはないな。そうそう、学歴は東大の独文科卒だな。俺は駿大の私大進学コースだけど。というわけで、中野重治と俺とは、よく似ているわけ。同時に、俺と中野重治は少し違うわけ。わかるよね、ここまでは。

整理してみると、中野重治は東大出で小説家で詩人で評論家で共産党員で政治家だったことがあり有名女優を嫁にして女にモテた。この人を悪くいう人はあまりいないのね。思想的には左翼なんだけど、保守派のうるさがたにもすこぶる評判がよかった。つまり、男にもモテた。小林秀雄に『作家の顔』という作家論があるんだが、そのなかに「中野重治君へ」という一文があり、これが終始中野からの批判に弁明しているの。君は僕の評論が論理的でなく曖昧だと批判するけれど、僕はそれでいいと思っているとか、開き直ったいいわけを並べたもので、あの辛辣な小林秀雄がとても弱気なの。江藤淳もね、「日本革命の後ろ盾」なんて言葉が出てくる革命詩なのに、「雨の降る品川駅」を読んで涙したと手放し。左では吉本隆明が一目置いていて、日本の作家の中では数少ない金の取れる文章を書ける人だと褒めているのね。

一般には、あまり知られていないだろうが、文学好きの間では有名で、馬鹿にしたりする人はあまりいないんじゃないかな。文豪とか大文学者とはいわれないけれど、優れた小説や詩や評論の書き手として、戦後文学史でもかなり重要な扱いになっていると思うな。あ、シゲハルだからね。シゲジじゃないよ。コタツは炬燵であり小龍だからね。小龍が炬燵に入っている。おたまじゃくしみたいな寸詰まりの小龍。画数が多すぎて右側の造りが煩いから、小辰でいいな。

それでね、俺は中野重治の本読んだことないの。詩集一冊と、この『日本語 実用の面』以外に。偉い人なんだろうな、と漠然とは思っていたけど、あまり興味がなかった。白洲次郎、ジョン・スタインベック、曾我廼家五郎八、辻政信、リンドバーグと同じ1902年生まれという昔の人だしね。とりわけ、日本共産党員ってのがね、どうも。反代々木の世代だから、俺には論外なのね。何かを見い出すという対象の外なんだな。中野重治が「ダーリン」という言葉づかいを「お話にならない」といったのと同様に、俺にとっては「お話にならない」わけ。

で、これから、いや、「ダーリン」は「お話になるよ」と展開して、中野重治における文章の詐術を明らかにしますね。どこがインチキかをやります。評論だからね。徹底的に批判しちゃうわけ。もし、中野重治が読んだら泣き出しちゃうくらいやっつける。情けないとね、俺の知り合いから読んで泣く人が出るかも知れないが、もうね、評論家を名乗ったからにはね、その前にコタツと付いていてもね、論陣をね、論陣を張って逃げません。コタツから出ない。もうね、おおげさのようですが、決死の覚悟です。でもね。皆さんに不評だったらね、その時はね、削除すればいいんだから。PCのデスクトップに置いて、ときどき開いては自分で読んで頷いてればいいんだから。負ける気になれば勝ったも同然、というのが俺の信念ですからね。お楽しみにね。

前口上が長過ぎる? 失礼な! これで終わるかもしれないのに。ま、お土産に、中野重治批判のキーワードをひとつ上げておきましょう。「パパはなんだかわからない」。覚えておいてね。

しかし、『獄窓から』どこへいったかな。あの本は2度と入手できないのにな。

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