秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

⑭1541年に発見されたNIPPON

2007-01-25 | 旅・スペイン&ポルトガル

1/17 旅の最終日
午前中はリスボン市内観光でした。
前夜連れから葛根湯をもらってのんで、ちょっとましな気分。
午後からの自由行動もあるし、張り切ってスタートしました。

発見のモニュメント

 
海に向かって左側    ↑右側の下から2番目に王妃

この発見のモニュメントはヨットハーバー横に堂々と海を向いて建てられています。
最前線にいるのがエンリケ航海王子です。
バスコダガマ、マゼラン、ザビエルなどが彫られています。

右側のほうに女性で唯一、エンリケ航海王子の母(ジョアン1世の后)。
イギリスから嫁いできて、イギリスと友好関係にあったことが大航海時代の立役者となったといわれています。

この広場には大理石で世界地図が表され、日本は1541年に発見(到達)されたことになっています。

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発見モニュメントと海岸沿いに並んでべレンの塔があります。
打ち寄せる波際に建つべレンの塔に囚人が閉じ込められたとか。


その前の飛行機、これはパリまで大陸間を飛んだリンドバーグよりも○年早く、大西洋を越えた記念モニュメントです。
南アメリカの○○まで誰が成し遂げたかを聞きましたが、メモを取らなかったので何一つ手がかりになるような記憶の断片も残ってなかった。

ポルトガル人は自慢しぃではないので、有名ではないだけだとガイドさんが言ってました。
名前も年号もわからず調べようがなかった。

やっぱり人の少ない南米よりは、「見よあれがパリの灯だ」とセンセーショナルでなくっちゃあ。
アメリカ人はイベント上手ですね。

線路をはさんで反対側に世界遺産「ジェロニモス修道院」


⑬ポルトガルからやってきたバテレン

2007-01-25 | 旅・スペイン&ポルトガル

ナザレの広場で干した果物やナッツ類を売るおばあさんです。
少し赤ら顔で体格は立派です。

日本に鉄砲が伝えられた種子島で、初めて南蛮人を目にしたときの印象を、「赤ら顔で大きな鬼のよう」と書かれているそうです。

このおばあさんを男にすればそんな感じがしないでもない。

 

バテレン(伴天連)とはキリスト教の神父のこと、 転じて、キリスト教の俗称。
ポルトガル語のpadreパードレー(神父)からきた言葉といわれていますが、
この記事を書いていて私が推測した由来は、「バターリャ」から来た者。

あんたどこから来なすった?
バターリャ
おぉ、バタレ、 No バターリャ、 バテレン?  Ohイエース!

1/16 旅の5日目
ポルトを出て186kmでバターリャに、その後ナザレ、オビドスをめぐり、リスボンへ。
体調悪いなんてへこんでられないほど、この日もたくさん見学しました。

日本の戦国時代同様イベリア半島でも、国家が固まるまでは、婚姻関係や養子縁組やらあらゆる方法をとって、地盤を固めていきます。
スペインやポルトガルも大航海時代を迎える16世紀までは様々な結びつきがあったようです。

バターリャの街には世界遺産の重厚なバロック様式の修道院があります。

1385年6000名を率いた隊長のジョアンⅠ世が3万人のスペイン軍と戦い勝利を収めました。
まるで桶狭間の織田信長のようですね。
その勝利の記念に建立したのがバターリャ修道院。

そしてアッバス王朝が始まり、5番目の息子がかの有名なエンリケ航海王子です。

1498年バスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわり、インドに達し胡椒を独占、原価のなんと360倍で流通し大儲け、やがて東方貿易など大航海時代をきりひらきました。

その500年を記念して、1998年のリスボン万博が開催されたように、いたるところで大航海時代の遺物や記念ものが世界遺産や観光地となっています。

修道院で暮らす人たちは外を出ることが禁じられています。
そのため横に回廊を儲け、中庭でくつろいだそうです。

 


無名戦士の墓を24時間守る衛兵たち、
たまたま毎日正午に行われる交代式を見ることができました。

どこの国でも自国のために命をささげた戦士を丁重に弔うのが常識ってもんでしょう。

バターリャでキャベツのスープのランチで一息ついて、次はナザレへ。
イエス・キリストが育った街ナザレはイスラエル北部にありますが、同名の町は世界各地であるらしい。


昔は漁村だったようですが、今はセレブなリゾート地としても有名らしい。

 
谷間の真珠と称されるオビドスは城壁に囲まれた山間の小さな町です。
13世紀から19世紀にかけ、代々王妃の直轄地として愛され、今もなお中世のままの姿をとどめています。