ダイヤモンドを最初に発見したのはインド人で、18世紀までインドの特産品でした。
イスラムを経てコンスタンチノープルやベネチアに伝えられました。
石目「カラット」という言葉はアラビア語のqiret(4粒の穀物の重さ)からだそうです。
最初の研磨技術はベネチアで生まれたと言われていますが、
ほんの数世紀前まで、ダイヤモンドは硬すぎて加工しにくく宝石としては「三流の石」扱いだったのです。
16世紀、いちばん高価だったルビーと比べたら1カラットあたりの価格は8分の1に過ぎなかったとか。
そんな日陰のダイヤが脚光を浴びるのは、17世紀になって「ブリリアント・カット」なる研磨技術が開発されるまで待たねばなりませんでした。
15世紀末インド航路が発見されると、リスボン経由でベルギーのアントワープに運ばれるようになりました。
アントワープには、ダイヤの原石をカットして多面体に整形する職人が集まっていたからです。
その多くはユダヤ人でした。
儲けがうすいダイヤは、必然扱う人が少ない。
当時ヨーロッパでは、ユダヤ人に対して職業規制が課せられていて、
ことダイヤに関しては就労の規制がなく、加工職人や仲買商にユダヤ人が多くなったようです。
16世紀末オランダ独立戦争が始まると、職人たちはアントワープからアムステルダムへ逃れてゆきました。
数世紀を経て第2次大戦前夜、激しいナチスの迫害を受けたユダヤ人職人の多くが今度は逆にオランダからベルギーへ。
戦後アントワープは再びダイヤ加工の中心地として復活しました。
今では世界中のダイヤの半分以上がアントワープを経由していると言われています。
「Cut in Antwerp 」というラベルは今も一流の証です。
19世紀後半、南アフリカで大鉱脈発見
「ダイヤモンドラッシュ」が始まると世界中から一攫千金を夢見る男たちが群がります。
1899年イギリスがオランダ系移民の末裔であるボーア人と戦争を始めたのは、彼らの居住地にダイヤと金が大量に埋蔵されていることがわかったからです。
深さ1200メートルのキンバリーのビッグホールは人間が掘ったもっとも深い穴だそうだ。
地中深く熱い中でダイヤ掘りの危険な作業を強いられた黒人たち、彼らから人間としての誇りを奪い反抗心を根こそぎにするための政策が「アパルトヘイト」でした。
「帝国主義者」として名高いセシル・ローズは、ロスチャイルド財閥の支援をバックにデビアス鉱山会社を設立。
デビアス社は鉱山買収を進めて南アフリカのダイヤを独占することに成功し、一躍ダイヤ争奪戦の覇者になりました。
しかし20世紀に入り第1次大戦後、世界各地でのダイヤ発見によりデビアス社の支配力は低下します。
そこで会長に就任したアメリカ系ユダヤ人のアーネスト・オッペンハイマー は、ダイヤモンドの値崩れを防ぐために、国際的なダイヤシンジケートをつくりました。
生産から加工・販売をほぼ一社のコントロール下に置くという、他産業ではみられない特殊な独占市場の誕生です。
「ダイヤモンド王」オッペンハイマーは、1880年ドイツのタバコ商人の子として生まれ、17歳でロンドンのダイヤモンド・ブローカーに入社、南アで原石の買い付け担当。
金の採掘で得た資産を元手に、1920年ダイヤモンド業界に舞い戻り原石販売のカルテルを構築。
過剰となりつつあったダイヤを「希少なもの」に見せかけ、高価格で安定させることに成功し、 その手腕は「限りなく詐欺師に近いビジネスマン」ともいわれたそうです。
完璧な価格統制と巧みなコマーシャルによって、
いつのまにかエンゲージリングはダイヤでなければと思いこまされてしまった日本人。
なんだか哀しいなぁ~