うだつを見学した徳島県美馬市脇町でういろうを買いました。
老舗「川田光栄堂」は、脇町に昔から伝わる郷土菓子「麦だんご」が有名らしい。
790円はちょっと高いような気もしたけれど、昔ながらの製法で作られたというのに心惹かれました。
徳島県に古くから伝わる「ういろ」は、小豆・餅粉・米粉・砂糖等で作られていて独特のもっちりとした食感と小豆の深い味が特徴だそうです。
名古屋名物のういろうに比べて、確かにもっちりで、ちょっと喉を詰めそうになった。
なぜ名古屋名物のういろうが徳島にもあるのはなぜかなと思ってたら、
繋がるキーワード見つけました。
それは
蜂須賀です。
「墨俣の一夜城」
美濃の斎藤側の攻撃を防がせながら工事を進め、わずかの日月で完成させたことで有名です。
低湿地帯に敵を眼前にしての築城は難工事でした。
秀吉は美濃と尾張の緩衝地帯にあって、斎藤氏にも織田氏にも服属していないような土豪、あるいは土豪くずれの野武士たちを寄せ集めました。
そのときの野武士の頭領が蜂須賀小六正勝。
以来、正勝は信長に属することに。
秀吉麾下になったのは、元亀元年(1570)信長が朝倉攻めで退路を絶たれ秀吉が殿軍をした時だそうだ。
以後、秀吉に従って軍功を挙げ、四国征伐ののち、子家政が阿波一国を与えられました。
蜂須賀の阿波入国以後、藍を奨励し阿波の特産として国益の第1位に挙げられ、吉野川沿岸の農地は過半藍畑で占められた。
これで尾張と阿波が蜂須賀家によって繋がりました。
きっと「ういろう」も同時にもたらされたかもしれません。
その後の蜂須賀家の歴史、興味深いです。
蜂須賀家は、関ヶ原の合戦では、はじめ石田三成の挙兵に応じた。
しかし、家政の子至鎮は小笠原秀政の娘を家康の養女という名目で妻に迎えていた関係から東軍に属し、野上に陣して南宮山に備えていた。
結果、蜂須賀氏は徳川大名として生き残ることができた。
大阪の陣でも戦功を挙げ、淡路をも領し本国阿波と併せて二十五万石の大名に飛躍した。
江戸時代、徳島藩藩主の蜂須賀氏は阿波の産業として藍の生産を奨励した。
代々封を次ぎ、明治維新を迎えることになる。
阿波国徳島藩の第13代藩主 蜂須賀 斉裕(はちすか なりひろ)1821-1868
斉裕は江戸時代末期、幕末に幕府最初の防衛大臣となった経緯は以下のとおり。
斉裕の父・家斉は『オットセイ将軍』と称されるほどの子沢山であり、兄で嫡男の家慶を除く多くの男児は、他藩の養子として出されることが多かった。
しかし将軍の子であるから、その多くは親藩であり、なおかつ大領を領しているのが条件となっていた。
このような中で、斉裕は外様大名である蜂須賀氏の養子となって家督を継ぐこととなった。
蜂須賀氏は阿波・淡路両国を領する国主であり、禄高では申し分ないが、外様であることに変わりはない。
つまりこれは、徳川氏の歴代将軍の子の中でも異例の出来事であった。
天保14年(1843年)家督を継いで藩主となった。
この頃、徳島藩では財政が悪化し、窮した前藩主・斉昌は百姓に重税を強いることで解決しようとしたが、これに百姓が猛反発して一揆を起こした。
しかもこのとき、斉昌は一揆の首謀者の一人を処罰できずに許すという無様さを示している。
藩主にはもはや百姓を抑える力さえも欠如しかけていた。
そのような中で藩主となった斉裕は、藩政改革に取り組むことにした。
まず、藩士の知行を3割削減し、領内の特産品である染料と藍を扱う大商人に献金を求めた。
さらに藩の軍制をイギリス式に改め、海防に力を注いだ。
岩屋や由良(洲本)に砲台を建築するなど、海防においては多くの功績を挙げている。
このため、幕末の動乱期に、斉裕は幕府が新たに設置した役職である陸軍総裁に任命されている。
しかしこのための出費が凄まじく、短期間で陸軍総裁は廃止され、徳島藩の財政は破綻寸前になった。