<金曜は本の紹介>
「かもめが翔んだ日(江副浩正)」の購入はコチラ
この本は(株)リクルートを創業した江副浩正さんの自伝です。
本書は東大での学生生活までの「生い立ち」とリクルートの歩みをまとめた「リクルートと私」とリクルート株をダイエーに譲渡した経緯をまとめた「ダイエーへの株譲渡」の3つで構成されています。
なお、リクルート事件については本書ではふれていません。
いまやリクルートは1兆2千億円世の不良債権を毎年1000億円の利益を出すことで返済し、今年にはほぼ返済が終わった売上利益率が30%台で安定している優良企業であります。
この本はその創業当時の息吹を感じることができるよい本だと思います。お勧めな本です!
以下は本書で面白かった点です。
・江副浩正は、昭和11年6月12日に大阪市に江副良之、マス子の長男として生まれる。母マス子は浩正が1歳の頃に長女を亡くした悲しみ等で病に臥し、愛媛県の生家に帰り、浩正に母の記憶はない。
・昭和35年3月の東大卒業時、東大新聞の広告セールスのコミッションで年に60万円ほどの収入があった。サラリーマンになれば収入が3分の1以上に減るため、フリーランスの大学新聞広告代理業でスタートする。早稲田、慶應、一橋、京大などの大学新聞も扱うことにした。事務所は、西新橋の2年先輩の森稔さんが学生時代につくった森ビルの屋上にある物置小屋を借りる。森ビル発祥の地が、リクルート発祥の地となる。
・昭和36年にアメリカにいる先輩から就職情報ガイドブック「キャリア」が送られてきて、これを参考に就職情報誌を作ることを決意する。新しく作る雑誌は表紙も大切だが、外国の雑誌のように質感がよく、視覚的に訴求力の強い物にしようと、紙は上質コート紙、文字は写植を使うことに決める。表紙は日本を代表するグラフィックデザイナーの亀倉雄策先生にお願いする。
・最初の求人広告の本の名称は「企業への招待」(のちに「リクルートブック」と改題)とするが、資金繰りに苦しみ、森ビルへの保証金を担保に芝信用金庫から融資を受け、出版することができる。2年目で掲載社数は倍増し、売上高は4倍増となり、計画を上回る利益を上げることができた。
・昭和38年に8月に「日本リクルートメントセンター」と社名を新しくし、その後「日本リクルートセンター」と変更し、昭和59年に「リクルート」に変えた。
・創業4年目に自社の新卒採用を始めるが、小さな会社だから他社と違うところに人を求めようと「学歴・男女・国籍・差別なし」の求人募集を大学と高校に出し、初任給を大企業より30%ほど高くする。その結果、4人の採用予定数に対して2000人の応募があり、結局、高卒4人、大卒4人の社員を採用する。大卒は全員女性、高卒は男女各々2人だった。
・P・F・ドラッガーの本を参考に、PC(プロフィットセンター)制と称するマネジメントシステムを導入し、上から命令なく社員一人ひとりが自発的に仕事をする風土が育ち、リクルートは高収益企業となった。会社の中に小さな会社(PC)をつくり、そこに大幅な権限を委譲し成果を求め、赤字PCはリストラしていった。PC長は自分の裁量でPCを運営し、PC長は平均して10人の社員を率いた。高い業績を上げれば若くても大きなPCのPC長に昇進でき、そこで高い成績を上げれば事業部門の長となり、さらに高い業績をあげれば役員となり、このことがリクルートで経営者を育てる仕組みになった。
・「外飯・外酒を」と言って、お得意様や社外の人との会食を勧め、社外の勉強会や研究会への参加を奨励した。
・創業から10年ぐらいの間に時間を割いたのが、辞表を提出した人との面談で、理由を聞いた。本音を言ってくれるのでとても参考になった。理由の多くは、上司や先輩との人間関係の悩み、自分の能力が低く評価されていることへの不満で、この面談によって人事異動の自己申告制を導入したほか評価のフィードバックに多くの時間を割くなど人事のマネジメントを改めていった。結婚退職の人からは「辛いときも多かったが、自分に自身がもてるようになった」と言われることが多かった。
・以下の経営の3原則を決めた。
(1)社会への貢献
(2)個人の尊重
(3)商業的合理性の追求
また、社訓は「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」とする。
・新卒募集情報誌「リクルートブック」の売上は、景気が悪くなると鈍化するので、不況でも成長するにはどうしたらよいかを考え、中途採用の情報誌「就職情報」、続いて「住宅情報」「エイビーロード」「カーセンサー」などさまざまな情報誌を創刊していった。
・起業はボトムアップ、撤退はトップダウンを身にしみて知る。フォートラン教材や単行本、通信事業、大型コンピュータのタイムシェアリング(時間貸し)などで失敗する。
<目次>
はじめに
第1章 生い立ち
飢餓体験とコンプレックス
甲南から東大へ
第2章 リクルートと私
創業期の求人広告事業
生き生きと働く風土
情報誌事業の展開
多くの経営者に学ぶ
新規事業の早すぎた立ち上げ
第3章 ダイエーへの株譲渡
不動産急落・コスモスに暗雲
ファーストファイナンスの撤退
迷走したコスモス再建案
中内さんと交渉開始
取締役会の反発
記者会見-かもめが翔んだ日
コスモスの再建とファーストファイナンスの清算
信義に篤い中内功さん
おわりに
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<今日の独り言>
とある紳士服屋でYシャツ3枚を買ったのですが、あぁぁぁ1枚サイズが違う・・・。また店舗に行って交換してもらわないといけません^_^;)
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この本は(株)リクルートを創業した江副浩正さんの自伝です。
本書は東大での学生生活までの「生い立ち」とリクルートの歩みをまとめた「リクルートと私」とリクルート株をダイエーに譲渡した経緯をまとめた「ダイエーへの株譲渡」の3つで構成されています。
なお、リクルート事件については本書ではふれていません。
いまやリクルートは1兆2千億円世の不良債権を毎年1000億円の利益を出すことで返済し、今年にはほぼ返済が終わった売上利益率が30%台で安定している優良企業であります。
この本はその創業当時の息吹を感じることができるよい本だと思います。お勧めな本です!
以下は本書で面白かった点です。
・江副浩正は、昭和11年6月12日に大阪市に江副良之、マス子の長男として生まれる。母マス子は浩正が1歳の頃に長女を亡くした悲しみ等で病に臥し、愛媛県の生家に帰り、浩正に母の記憶はない。
・昭和35年3月の東大卒業時、東大新聞の広告セールスのコミッションで年に60万円ほどの収入があった。サラリーマンになれば収入が3分の1以上に減るため、フリーランスの大学新聞広告代理業でスタートする。早稲田、慶應、一橋、京大などの大学新聞も扱うことにした。事務所は、西新橋の2年先輩の森稔さんが学生時代につくった森ビルの屋上にある物置小屋を借りる。森ビル発祥の地が、リクルート発祥の地となる。
・昭和36年にアメリカにいる先輩から就職情報ガイドブック「キャリア」が送られてきて、これを参考に就職情報誌を作ることを決意する。新しく作る雑誌は表紙も大切だが、外国の雑誌のように質感がよく、視覚的に訴求力の強い物にしようと、紙は上質コート紙、文字は写植を使うことに決める。表紙は日本を代表するグラフィックデザイナーの亀倉雄策先生にお願いする。
・最初の求人広告の本の名称は「企業への招待」(のちに「リクルートブック」と改題)とするが、資金繰りに苦しみ、森ビルへの保証金を担保に芝信用金庫から融資を受け、出版することができる。2年目で掲載社数は倍増し、売上高は4倍増となり、計画を上回る利益を上げることができた。
・昭和38年に8月に「日本リクルートメントセンター」と社名を新しくし、その後「日本リクルートセンター」と変更し、昭和59年に「リクルート」に変えた。
・創業4年目に自社の新卒採用を始めるが、小さな会社だから他社と違うところに人を求めようと「学歴・男女・国籍・差別なし」の求人募集を大学と高校に出し、初任給を大企業より30%ほど高くする。その結果、4人の採用予定数に対して2000人の応募があり、結局、高卒4人、大卒4人の社員を採用する。大卒は全員女性、高卒は男女各々2人だった。
・P・F・ドラッガーの本を参考に、PC(プロフィットセンター)制と称するマネジメントシステムを導入し、上から命令なく社員一人ひとりが自発的に仕事をする風土が育ち、リクルートは高収益企業となった。会社の中に小さな会社(PC)をつくり、そこに大幅な権限を委譲し成果を求め、赤字PCはリストラしていった。PC長は自分の裁量でPCを運営し、PC長は平均して10人の社員を率いた。高い業績を上げれば若くても大きなPCのPC長に昇進でき、そこで高い成績を上げれば事業部門の長となり、さらに高い業績をあげれば役員となり、このことがリクルートで経営者を育てる仕組みになった。
・「外飯・外酒を」と言って、お得意様や社外の人との会食を勧め、社外の勉強会や研究会への参加を奨励した。
・創業から10年ぐらいの間に時間を割いたのが、辞表を提出した人との面談で、理由を聞いた。本音を言ってくれるのでとても参考になった。理由の多くは、上司や先輩との人間関係の悩み、自分の能力が低く評価されていることへの不満で、この面談によって人事異動の自己申告制を導入したほか評価のフィードバックに多くの時間を割くなど人事のマネジメントを改めていった。結婚退職の人からは「辛いときも多かったが、自分に自身がもてるようになった」と言われることが多かった。
・以下の経営の3原則を決めた。
(1)社会への貢献
(2)個人の尊重
(3)商業的合理性の追求
また、社訓は「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」とする。
・新卒募集情報誌「リクルートブック」の売上は、景気が悪くなると鈍化するので、不況でも成長するにはどうしたらよいかを考え、中途採用の情報誌「就職情報」、続いて「住宅情報」「エイビーロード」「カーセンサー」などさまざまな情報誌を創刊していった。
・起業はボトムアップ、撤退はトップダウンを身にしみて知る。フォートラン教材や単行本、通信事業、大型コンピュータのタイムシェアリング(時間貸し)などで失敗する。
<目次>
はじめに
第1章 生い立ち
飢餓体験とコンプレックス
甲南から東大へ
第2章 リクルートと私
創業期の求人広告事業
生き生きと働く風土
情報誌事業の展開
多くの経営者に学ぶ
新規事業の早すぎた立ち上げ
第3章 ダイエーへの株譲渡
不動産急落・コスモスに暗雲
ファーストファイナンスの撤退
迷走したコスモス再建案
中内さんと交渉開始
取締役会の反発
記者会見-かもめが翔んだ日
コスモスの再建とファーストファイナンスの清算
信義に篤い中内功さん
おわりに
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とある紳士服屋でYシャツ3枚を買ったのですが、あぁぁぁ1枚サイズが違う・・・。また店舗に行って交換してもらわないといけません^_^;)