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マリス博士の奇想天外な人生(ノーベル化学賞受賞者キャリー・マリス(福岡伸一訳))

2010年05月07日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

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この本は1993年にノーベル化学賞を受賞したキャリー・マリス博士の自伝です。

PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)の発明でノーベル賞を受賞したのですが、彼女とのドライブでのデート中にPCRを思いついたことや、ノーベル賞受賞前後の経緯、無類の女好きでサーフィン狂ということ、子供の頃からの化学との関わり、危険な実験に明け暮れた学生時代の思い出、O・J・シンプソン裁判との関わり、テレパシー実験、死にそうになった体験、論文掲載について、恐怖の毒グモとの戦いなど、その型破りな人生をユーモアたっぷりに語った本でとてもオススメです!

この本は以前このブログで紹介した「大人げない大人になれ!(成毛 眞)」という本でオススメとして紹介された本で、確かに良かったです!

ただ、麻薬に関することは要注意かもしれません。

なお、2000年にこの本は発売されたのですが、訳者はあの福岡伸一さんなんですね。このブログでも福岡伸一さんの本は紹介しています。

できそこないの男たち(福岡伸一)
生物と無生物のあいだ(福岡伸一)


以下は、この本のポイント等です!オススメです!!

・家に帰りつくと一通の手紙が待ち受けていた。日本の国際科学技術財団からだった。日本国際賞に私が選ばれたとの知らせであった。朝になって、その賞金だけで当分の間、楽に暮らしていけることが判明した。日本国際賞の賞金は5000万円だった。私は日本に向けて出発した。授賞式では天皇と皇后に会うことができた。日本の皇后に向かって「スウィーティ(かわい子)ちゃん」と挨拶したのはたぶん後にも先にも私だけだろう。皇后は私の無礼に対してもまったく寛容な態度を示してくれた。私は皇后ととても楽しく会話した。他の国の皇后とはお知り合いですか?私はたずねてみた。世界に皇后の称号をもつ方は私を含めて3人しかおりません、と彼女は答えた。あとお二人はどなたかと私はきいた。その答を聞いて、私はその人たちがガールフレンド候補とは考えにくい方々だと言い、皇后もそれに同意してくれた。

・私は、1992年のノーベル賞受賞者になることに確信があった。それにはちゃんとわけがあった。ドイツのあるテレビ番組のホスト役が私に電話してきたのだ。そしてこう言った。彼は毎年、その年のノーベル化学賞受賞者に関するドキュメントを作っていて、現在、1992年分を準備している。そのところずっと、彼はつねにその年のノーベル化学賞受賞者を予測し、的中させてきた。それは自分が非常にすぐれた予想屋だからだ、と彼は自慢してみせた。しかし私はそうは思わなかった。こいつはきっと内部情報に通じているのだ、ノーベル賞委員会の誰かからこっそり情報を仕入れているにちがいない。ともあれ、その彼が連絡してきたからには、今年の受賞者はこの私だ、ということになる。彼はテレビ・クルーを引き連れてやって来て、ここラホイヤの自宅とメンドシノの別荘で一週間にわたって私を撮影して帰っていった。これはすごいことになったぞ!私はつとめて平静を装って待つことにした。しかしまったくのところ、つとめて平静を装って本当にほかったのだった。なぜなら、ふたが開いてみると、その年の受賞者は私ではなかったのだ。

・1992年にがっかりさせられたあと、私はもうノーベル賞のことを考えるのをやめることにした。私の電話が鳴ったのは1993年10月13日の朝6時15分だった。電話が鳴っても私はベッドに寝たままでいた。しばらくすると相手が留守番録音にメッセージを話している声が聞こえてきた。「ノーベル財団」とその声は言っていた。私はベッドから飛び起きた。受話器を取ったのと相手が電話を切ったのが同時だった。ああ、なんということだ。ノーベル賞の知らせを受け損なってしまった。彼らは電話をかけなおしてくれたりするだろうか?と、その時もう一度電話が鳴った。たぶん先方は電話を切る瞬間、私が叫ぶのを聞いたのかもしれない。「おめでとうございます、マリス博士。あなたがノーベル賞を受賞されたことをここにお知らせできることは大変喜ばしいことです」「もらうよ、もらう!」と私は言った。もちろん、くれと言ってノーベル賞がもらえるものでもないことは百も承知していたが、これが嘘ではないことを確認しておきたかったのだ。それからしばらく私たちは会話を交わした。マスコミが殺到するから準備しておいたほうがいいと彼は教えてくれた。ノーベル賞をもらうのはむろん初めてだったので、準備といっても、いったいこれから何が起こるのかまったく見当もつかなかった。

・サーフィンから家に帰り着いてみると、我が家は完全に包囲されていた。新聞記者、テレビのレポーター、カメラ・クルー・・・・・。この年のほかのノーベル賞受賞者のうち、誰がサーフィンに夢中になっているというのだ。私は恰好の見出しにされた。「サーファーがノーベル賞獲得!」友人たちがシャンパンを手に集まってきてくれた。パーティの始まりだ。パーティはその後2日間続いた。それからパーティはメンドシノにある私の別荘に場所を移してなおも続いた。浴びるほどワインを飲み、翌日の午後遅くになってやっとのことで起きることができた。ずっと棺おけのなかに横たわっている夢をみていた。健康のためにはノーベル賞受賞はまったくよくない。皆さんも注意した方がいい。

・ストックホルムで開かれたノーベル賞授賞式には、私の母、二人の息子、そして当時つきあいはじめたばかりの素敵なガールフレンド、アインホッフを同伴した。二人の息子の母であるシンシアも、もちろん連れていった。その年のノーベル化学賞受賞者は、私の他にもう一人、マイケル・スミス博士だった。スミス博士もまた、彼の先妻、先妻との間にできた子供たち、そして当時のガールフレンドを授賞式に連れてきていた。こういう偶然の一致は確立の問題じゃない。二度と起こらないことだ。

・ノーベル賞メダルの授賞式のあと、グスタフ国王夫妻が主催する晩餐会が催され、1300人あまりの賓客が招待された。そこで私はこの機会を利用して別の重要案件についてお話することとした。グスタフ国王と王妃は、スウェーデン国民にたいへん人気がある。ところがちょうどその頃、16歳になる彼らの娘、すなわち王女にトラブルがもちあがっているのを私は知っていた。タブロイド紙がスキャンダルを書きたてていた。「私ならそんなこと、全然心配しませんよ」私は言った。「なんと言っても16歳の女の子です。ちょっと我慢することさえできれば、すぐに忘れてしまえます。むしろこれを教訓にして、いいオトナになれますよ」私は続けた。「私の言葉に嘘がない証拠をお見せしましょうか。私には息子がおります。王女にちょうどいい年頃です。これを王女の婿としてさしあげましょう。むろん交換条件があります。あなたの領土の3分の1をいただきましょう」

・子供の頃、私の母は毎年11月になると通販のカタログ一式を私たち兄弟に見せて、その中からクリスマスのプレゼントを選びなさいと言った。ある年、私はその中から、ギルバート化学実験セットを選んだ。なにやら不思議な名前の薬品が入ったチューブが並んでいるのに魅了されたのだった。セットが到着すると、さっそく実験を開始した。私の目的は、どれとどれを混ぜ合わせると爆発するか知ることであった。まもなく、セットの中に入っていない薬品でも、必要なものは地元の薬局で容易に入手できることを知った。1950年代のサウスカロライナ州コロンビアは、子供のすることにとても寛容だった。金物屋に買いものに行くとする。そして導火線30メートルを買う。店長は笑いながらこう言うのだ。「ぼうず、何するつもりだい。銀行でも爆破しようってのかい」化学実験セットを使ってなんとか最初に作り出したものは、火薬だった。アルミ粉、硝酸アンモニウムなどを混ぜ合わせ、アルコールランプの上で温めた。ぐつぐつ沸騰してきたところで火から下ろした。しかし反応は止まらない。液は真っ赤になって、それを入れていた試験管が割れ、突然、大音響とともに炸裂した。こいつはすごいや。私は、7歳だった。実際、そのとき何が起こったのかは分からなかった。でも、サイエンスとはおもしろくなきゃいけない、ということが分かった。

・私と悪ガキ仲間は私の家の裏庭で、自作ロケットの発射に挑んだ。私たちの計画はカエルをできるだけ空高く打ち上げ、かつそれを生還させるというものだった。もちろん発射時には、ごうごうたる煙を巻き上げ、見事な色のついた軌跡を描かせなくてはならない。われわれにロケット燃料として、硝酸カリウムとショ糖の混合比が、種々検討された。私はそれをテニスボールを入れる缶に詰めて、バーベキューグリルの炭火で熱した。母はよく窓越しにそれを見つめていて、叫んだ。「キャリー、眼をふっ飛ばさないようにしなさいよ」私は笑いながら答えた。「もちろん注意しているよ、ママ」しかし、しょせん子供は子供でしかなく、爆発は爆発なのだった。私たちの燃料は、しばしば爆発した。ある時など、大きな木を丸ごと火事にしてしまったこともある。さすがの私も教訓を学んだ。「危険物を大木の下で混ぜてはならない」

・博士号取得のための研究をする場所としてカリフォルニア州立大学バークレー校を選んだ。そこでの最初の年に生化学研究部門がヴァリアンA60という最新の核磁気共鳴測定装置を購入した。それは本当に素敵な装置で、たちまち私は夢中になった。この装置を使うと分子の原子の状態が分かり、その結果、分子構造を知ることができるのだった。化学者はこの装置を使って、炭素、水素、窒素、酸素の様子を解析し、分子全体の様子を絵に描くことができる。

・シータス社は私をオリゴヌクレオチド合成の専門家として雇い入れた。シータス社はとても働きやすい職場だった。勤めだして2、3年は、私の人生で一番よく働いた時期だろう。というのも、ロン・ケイプやピート・ファーリーがとても愉快な人物だったからだ。DNA合成に取り組んでみると、それはたちまち私を魅了した。研究所のどこに行っても斬新で奇抜なアイデアがあふれていて、想像力の広がりを邪魔だてするものは何もなかった。

・あるとき安全管理者は自分の部下として、とてもかわいい若い女性を雇い入れた。彼はこの女の子に、私の研究室の立ち入り検査をさせた。私はこの女性を「安全の女神」と呼んで、大いに歓迎した。安全管理者も、この女性がなんとか私を手なずけるだろうと思ったようだった。ところが、逆に私が彼女を手なずけたのだった。彼女をディナーに招待し、そうこうするうち数ヵ月後には、同棲するようになった。研究室内でもっとも危険なことは、安全の女神とねんごろになることだと思い知る時が来た。ある日の午後、見知らぬ男がドアを蹴飛ばして怒鳴りこんできた。あの子はオレの女だ。このおとしまえはどうつけるつもりだ、と。研究室内での身の危険を感じたのは、私の人生の中で後にも先にもこの時だけだった。

・では、どうすれば皮膚の抵抗値を変化させることができるのか。さっそく調べてみることにした。あれこれやっているうちに、非常につまらないことを考えたり、瞑想状態になったりすると抵抗値が上がることが分かった。目を閉じてどこか名もなき暗い湖に浮かんでいる様子を思い浮かべると抵抗値は上昇し、モニターの針は18万オームに達することもあった。反対に、《プレイボーイ》誌のヌード写真をながめると、おどろくべきことに、抵抗は1万オーム以下に下がるのであった。それならこれを使ってもっと違うことをやってやろう。なんせおれは意志の力で電圧をコントロールできるのだ。そうだ。ここにいながら向かいの家の電灯を点けたり消したりする仕掛けを作ってやろう。科学手品だ。近所の人々が次々と私のテレパシー実験を見にやって来た。もちろん彼らは私がエスパーでないことを知っていたので、結局、私が電気技術の天才であると勝手に納得して帰っていった。私も特に逆らわなかった。看護学校の女の子たちもこれには驚いてくれた。

・1968年の初め、自分の書いた論文をイギリスの科学専門誌《ネイチャー》に投稿した。《ネイチャー》は当時から一流中の一流誌だった。私の論文は「時間逆転の宇宙論的意味」というものだった。論文は私自身の経験と想像力をもとに、宇宙全体の創成と終末を論じたものだった。いわば直感による考察であり、あくまでも仮説の1つとして世に問われるべきものであった。なんといっても私は当時、まったくの駆け出しだったわけだし、天文学者としての経験などほとんどなかったのだから。私はカリフォルニア大学バークレー校の生化学専攻科の大学院2年生にすぎなかった。知識ある読者層をほこる《ネイチャー》編集部が私の私見などを掲載する必然性など何もあろうはずもなかった。だが《ネイチャー》は私の論文を採択した。年を経て私はPCRを発明した。私はプロの科学者になっていた。私にはその発見の意味がよく分かっていた。これは、宇宙と時間の逆転に関するガキの思いつきではない。これは人間の微細な遺伝子を、まるで道路沿いの荒地に立てられた巨大広告を見るくらいに拡大する技術なのであり、おもちゃのブロックをいじるくらい簡単に操作できるようにする技術なのだ。PCRに高額の装置は必要ない。PCRによって超微量のDNAを検出できる。そしてそれを何十億倍にも増幅できる。しかもごく短時間のうちに。この方法は遺伝子疾患の診断にも有用だ。これで個人の遺伝子の中の病気を見つけることができる。培養して調べることが難しい病原体の遺伝子を検出できるので、感染症の診断にも利用できる。PCRは犯罪捜査でも力を発揮する。微量の証拠品、たとえば精液、血痕、毛髪から犯人が誰かを言い当てることができる。PCRはまったく新しい分野をも開拓しうる。たとえば、分子考古学。古代遺跡から採取されたDNAを分析して進化を語ることができる。化石のDNAと現代人のDNAとを比較することで、人類がいつ分岐し、どのように移動したかを調べることも可能だ。PCRが野火のごとく世界中に広まっていくであろうと、私は確信していた。今回こそ私は自信満々だった。《ネイチャー》誌は一も二もなく掲載を決定するであろう、と。《ネイチャー》編集部の返事は「却下」だった。《ネイチャー》に次いで有名な科学雑誌《サイエンス》もこの発見を認めなかった。《サイエンス》はこう言ってきた。「貴殿の論文はわれわれの読者の要求水準に達しないので、別のもう少し審査基準の甘い雑誌に投稿されたし」と。この野郎、と私はうめいあ。この1件で私はまたもや教訓を学び、さらに大人になることになった。賢人が晩年の20年ほどの間、世界を高所からながめて、これまで彼が蓄積してきた知恵を用いながら、世の中を正しい方向に導いてくれている。これはまったくの幻想だった。


<目次>
 1 デートの途中でひらめいた!
 2 ノーベル賞をとる
 3 実験室は私の遊び場
 4 O・J・シンプソン裁判に巻き込まれる
 5 等身大の科学を
 6 テレパシーの使い方
 7 私のLSD体験
 8 私の超常体験
 9 アボガドロ数なんていらない
10 初の論文が《ネイチャー》に載る
11 科学をかたる人々
12 恐怖の毒グモとの戦い
13 未知との遭遇
14 1万日目の誕生日
15 私は山羊座
16 健康狂騒曲
17 クスリが開く明るい未来
18 エイズの真相
19 マリス博士の講演を阻止せよ
20 人間機械論
21 私はプロの科学者
22 不安症の時代に
謝辞
訳者による著者インタビュー
訳者あとがき

面白かった本まとめ(2009年下半期)


<今日の独り言>
エリッククラプトンのコンサートのDVDを初めて借りてみました。5.1chだとさすがに臨場感があって良いですね^_^) しかし、クラプトンは相変わらず、曲と曲の間は「サンキュー」しか言わないんだな・・・^_^;)

コメント
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