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「経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書(山田真哉)」という本はオススメ!

2012年04月06日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

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 「経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書」という本は、会計士という立場から平清盛がいた1100年代の歴史を、経済という観点で紐解いたものです。

 当時の日宋貿易、宋銭の普及の理由・仏教との関わり、宋銭の普及によるデフレ及び平氏の繁栄、寒冷化がまねいた飢饉等によるスーパーインフレ及び平氏の没落等について、とても分かりやすく説明があります。

 また平氏と関わりのある伊勢、博多、薩摩、神戸についても解説があり、博多が平氏と関わりがあるとはビックリしましたね。

 この本は、平氏や平清盛の真実に迫り、また今後の日本を占う上でもとても参考になると思います。とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・平清盛は他の歴史上の人物の誰に最も近いのか-?
それは坂本竜馬において、他にはございません。旧弊に囚われない合理性、いち早く海外に眼を向ける先進性、抜群の行動力、そしてなにより海と船が大好き。龍馬は「海援隊」をつくったことからもわかるように海で大活躍しますが、清盛も出家したあとは自らを「静海」と名乗り、その後半生の大部分を海が見える神戸で過ごしています。また龍馬と同じように清盛もかなりの船好きで、厳島神社参拝などの際には、当時日本にはなかった宋船で瀬戸内海を何度も移動しています。もちろん、共通点は海好きということだけではありません。二人とも、経済にかなり強い。経済を支配するカギが「通貨発行権」だと見切った清盛は、積極的に宋銭を輸入することで通貨を日本に導入し、この権力を手に入れようとします。一方龍馬は、暗殺される直前、経済政策に明るい三岡八郎に会うためにわざわざ福井まで行き、新政府による通貨発行を計画しています。なお、この三岡八郎ことのちの由利公正は、新政府では会計事務掛(財務大臣)になり「太政官札」を発行することになります。日本史上において、本当に経済に強い武士は平清盛と坂本龍馬の二人だけだ・・・・と私は思っています。そして、武士の時代の最初と最後にこの二人が現れたことは、日本にとってまさに奇跡だったと思えるのです。

・849年の菅原道真による遣唐使の廃止以降、朝廷が内向きな政治に終始した結果、大きな船を造造船術や、安全に外洋を渡る航海術が発達しなかったためです。黒船を見て驚いた江戸の人たちと同じように、海に関して海外に後れをとってしまったのです。そう、この時代、海外政策という点では江戸時代と非常によく似ていました。平安中期以降、宋などからくる海外商人に対し回数を限定して受け入れる制限貿易を行っていましたし(年紀制)、日本人が海外に出ることを厳しく禁じる「渡海の禁」などもありました。

・当時の朝鮮半島の王朝は高麗でした。首都開京の国際貿易港だったピョンナンドにはアラビア商人が多数訪れており、イスラム帝国アッバース朝の商人らが産物を献上した記録も残っています。高麗の名前がヨーロッパに伝わり、高麗(コリョ)を「コリア」と呼んだことから、今の朝鮮を指す英語表記(Korea)がこの時代に生まれました。つまり、高麗は貿易に非常に積極的だったのです。

・当時の日宋貿易は、輸出も輸入もすべて博多にいる宋商人(博多綱首)が仕切っていました。博多綱首がその立場を独占できた理由のひとつは、日本で宋船を受け入れられる港が実質的には博多港しかなかったからです。「日宋貿易」の経済的実態は、大国・宋と商売上手な宋商人の手による「宋宋貿易」であったのです。儲けはほとんど宋側のものでした。

・清盛式・貿易革命の道筋
 (1)瀬戸内海の航路を整備する
 (2)最大消費地である畿内に、宋船を泊めることができる港・神戸港をつくる
 (3)博多港をスルーして、神戸港に直接宋船を呼び込めるようにする
 (4)新しい港・神戸港では、その貿易実務を新しい勢力が仕切ることになる
 つまり清盛は、貿易の中心地を博多から神戸に移すことで、貿易実務を宋から日本に移す一大革命を起こそうとしていたのです。

・「宋銭」とはその名の通り、中国・宋でつくれた銅製の貨幣のことです。平清盛が日宋貿易に精を出していた1170年代頃、最大の輸入品はこの宋銭でした。貨幣そのものを買い付けていたのです。ただし日本の朝廷がこれを通貨として公認したわけではありません。それでおころか、たびたび使用禁止令を出しています(1187年・1189年・1192年・1193年)。しかしその効果はほとんどなく、宋銭は急速に普及。日本を貨幣経済へと変えてしまいました。以後、実に戦国時代までの400年間、この宋銭が通貨として使用されることになったのです。

・経筒と呼ばれる、お経を書いた巻物を入れる銅製の筒があります。この経筒に関し、最近の研究で面白いことが判明しました。経筒の成分を分析したところ、「1150年頃を境に、素材が国産から中国華南産に切り替わっていた」ということがわかったのです。そう、経筒や仏具をつくるためにどうしても銅が欲しかった寺社勢力は、宋銭を銅の原材料として輸入したのではないか、と考えられるのです。

・なぜ当時の人々は銅製にこだわったのでしょうか。それは、当時の人々の価値観を支配していた末法思想の影響です。末法思想とは、お釈迦さまが亡くなったのち、正しい教えが行われる「正法」の時代、教えが形式化されう「像法」の時代が続くが、それが終わったあとは、教えが正しく行われない「末法」の時代が1万年も続く・・・という仏教の世界観です。この「像法」の時代が1051年に終了、1052年は「末法」元年とされたので、人々は大いに恐れました。またこの頃は武士が台頭し、治安も乱れ、寺社の腐敗もひどくなっていった時期でした。不安が一層高まった人々は、盛んに経塚をつくってお経を埋めるようになりました。埋めなければならなかった理由。それは、不安に駆られた人々の間で流行した、ある信仰に原因がありました。「末法の時代において自分を救ってくれるのは、弥勒菩薩や阿弥陀如来、観音菩薩しかいない」「しかし、弥勒菩薩が現れるのは、釈迦が亡くなってから56億7千万年後とされている」「そんな途方もない先まで「自分が敬虔な仏教徒だった」という証拠を残すには、写経をして土に埋めておくしかない」当時の人々は、こう考えて経塚をつくり、経を埋めたのです。そして、自分のお経だけはなんとしても、56億7千万年後まで良好な保存状態を保たなければ・・・ということで、腐食しにくくて硬い銅製の経筒が求められたのでした。

・経筒に使われる銅材が国産から中国産に切り替わった・・・つまり人々が宋銭を仏具の材料として使い始めたのが1150年頃。その約100年後、1252年に鋳造が始められた銅像の鎌倉大仏も、材料は宋銭だと言われています。奈良の大仏が鉛を1%程度しか含んでいないのに対し、鎌倉大仏は10%以上含んでおり、宋銭に近い値だ・・・というのがその理由です。

・「平安末期、なぜわずか10年で物々交換経済が貨幣経済へと変わったのか」という問いに対する答えは、「宋銭が仏具をつくるための銅材として既に国内に広まっており、銅自体の価値が当時高かったことから、宋銭がスムーズに貨幣として信認された」ということになる。

・宋銭の「仏具の材料」としての価値に加えて、この「納税手段としての保証」があったことが、人々の宋銭に対する信認を高める追加的な理由になった、と考えられます。

・デフレ状況下で苦境に陥った貴族たちの中から、「物価安」に反対し、絹・米を中心とした経済社会を守ろうとする「重農主義」の一派が現れました。すると、これとは逆に「通貨高」を肯定し、銭を中心とした経済社会の確立を目指す「重商主義」の一派も現れ、対立が起きたものと思われます。重農主義のメンバーは、貴族や寺社、各地の在地領主たちです。一方、重商主義のほうは貿易を推進する平家や各地の水軍、商人たちです。

・100%という高利息のせいで、銭貨出挙の経済規模はあっと言う間に倍になるのです。大勢の債務者が返済のために銭を得ようとして、恒常的に銭不足の状態となります。そして銭の奪い合いが続けば、銭の価値はますます高騰します(=デフレ)。こうして、銭を持っている平家や、平家に近い人だけがますます富み、銭を持たない人々はますます貧しくなり、貧富の差が拡大するという悪循環に陥ってしまった-と推察されるのです。

・飢饉が起きると、わずかばかりに穫れた米が貴重になるので、米の価値が急上昇します。一方で、銭の価値は相対的に下がります。その頃の状況が、「方丈記」では次のように記されています。「さまざまの財物を食糧と交換しようとするが、誰も目にとめようとしない。たまたま交換する者がいても、金銭の価値を軽くみて、穀物の価値を重んじる」金銭の価値が極端に低くなり、穀物の価値が限りなく高くなる状態-つまり、ハイパーインフレが発生したのです。宋銭普及によってデフレ化していた経済は、飢饉がきっかけで一気にハイパーインフレに切り替わったのです。

・さて、このハイパーインフレによって、得をする人がいます。それは誰かというと、借金をしていた人々です。銭の価値が暴落するので、返済額の銭を集めることが容易になるのです。一方で、銭を大量に保有していた人々は、このハイパーインフレにより一気に資産を失うことになります。その代表が平家一門です。彼らが被った害は、銭という資産の価値下落だけではありません。労働者を雇って行っていた大規模事業も、報酬として払う銭の価値が下落すれば行えなくなります。それまで清盛が私財を投じてすすめてきた大輪田泊(神戸港)の修築についても、1180年には「国家事業として行ってほしい」と朝廷に要請を出しています。この背景には、銭の価値の暴落もあったのでおう。経済的な栄華の頂点から瞬く間に資金難地獄に転げ落ちた平家一門。

・これまで平家が得意としてきたのは銭を使って人を集めることでしたが、この時期には銭の価値は暴落していたため、その手段を使うことができなかったのです。常備兵がほぼ存在しないこの時代、銭の価値暴落は、軍事力の低下に直結したのです。

・平家にとどめを刺し、その地位に取って代わったのが源氏であったため、「平家を滅ぼしたのは源氏である」ととらえられがちですが、平家はある意味、自壊したも同然だったのです。いえ、デフレとハイパーインフレに倒された、と言ってもいいでしょう。

・平家は、宋銭普及によりそのメリットを大いに享受しました。しかし、宋銭普及は諸刃の剣でした。絹・米の価値下落による貴族らの困窮。「銭貨出挙」による多額債務者の発生と、銭需要の増大による「銭バブル」。そして、寒冷化がまねいた未曾有の飢饉による、デフレからハイパーインフレへの急激な転換・・・・・。平家に栄華をもたらした宋銭は価値を失い、かわりに平家に対する人々の強烈な不満だけを残していったのです。

・清盛は大宰大弐に就任すると、博多港の拡張に取りかかります。つまり彼の目的は所領を得ることよりも、外国との貿易をさらに発展っせることだったのです。清盛は港の整備に力を入れており、彼がつくった港は日本最初の人工港であったと言われています。また当時の博多港周辺では、貿易から生じる富を巡って、箱崎宮・宗像大社・安楽寺(現在の太宰府天満宮)といった寺社勢力と太宰府の役人がたびたび紛争を起こしていました。清盛はこの両者をともに平家の配下とすることで、紛争を収めることに成功します。そして、貿易の発展祈願と寺社勢力牽制のため、所領の神崎荘(佐賀県)から分霊して、博多に新しい神社をつくります。それが、7月の「博多祇園山笠」や10月の「博多おくんち」といった祭りの舞台となる櫛田神社です。もし清盛がいなければ、山笠や博多おくんちはなかったかもしれないのです。平家由来の祭りはこれだけではありません。当時の博多の人々は、町の発展に尽力した平家に恩義を感じ、清盛の嫡男・重盛が1179年に病死した際、その霊を慰めるための儀式を行ったといいます。実はそれが、現在の「博多どんたく」の始まりです。毎年ゴールデンウィークに行われる博多どんたくは、動員数200万人を超す国内最大級のお祭りになっています。

・私には、まず福原(神戸)という港湾都市の存在ありきで、計画的に遷都を実行したように思えるのです。遷都直前に清盛は、これまで平家の私財を投入して進めてきた大輪田泊の建設を、国の公共事業として行うよう朝廷に要請しています。つまり、この港湾建設と福原遷都はセットで考えるべきで、平家の資金難の中、港湾建設を続行するために遷都の名を借りて朝廷から資金を得ようとしたー。


<目次>
まえがき
第1章 教科書にない日宋貿易の真相
 第1節 「貿易で巨万の富を得た」を素直に信じるのは子供だけ
 第2節 平忠盛、巨万の富のカラクリ
 第3節 清盛の「貿易革命」
 補 論 貿易の成功者
第2章 日本経済史最大のミステリー、「宋銭」普及の謎
 第1節 「宋銭」普及の謎
 第2節 宋銭普及のよくある通説1・2・3
 補 論 宋銭普及はダラライゼーションにはならない?
 第3節 古代貨幣はなぜ廃れたか
 第4節 銭をつぶせば救われる!?「末法思想」がすべての始まり
 第5節 宋銭普及の謎-すべての真相解明へ
第3章 平家滅亡の真犯人、そして清盛の「失敗」
 第1節 平家を滅ぼしたのは源氏ではない・・・・・誰だ?
 第2節 謎の現象「銭の病」
 第3節 平家が見た地獄
第4章 経営者・平清盛
 第1節 伊勢 強みを伸ばして活かしきる経営
 第2節 博多 経営者のセンスが問われる地盤の決断
 第3節 薩摩 将来のリスクでライバルを峻別
 第4節 神戸 前例にとらわれない発想で危機に立ち向かう
終章
 あとがき
 年表
 平氏・源氏の略系図
 参考文献
 索引

面白かった本まとめ(2011年下半期)

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