<金曜は本の紹介>
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「継続する心」という本は、プロ野球の中日ドラゴンズで、現役選手最年長で、最年長先発勝利記録更新中の山本昌さんが書いたものです。
山本昌選手は、2012年時点で213勝を達成し、最多勝が3回、最優秀防御率が1回、最多奪三振が1回、ベストナインが2回、沢村賞が1回の成績を残す大投手です。
しかしながら、実は当時は将来を期待されたルーキーではなく、ドラフト5位で指名された無名の投手で、高校3年生の時には教師になるつもりで、日大への進学が内定していたようです。
プロ入り後も1年目にクビになりかけ、5年目には事実上の戦力外通告である米国メジャーリーグ1Aへの「島流し」を経験しながらも、努力だけは人一倍やって、目標を高く持ち、短所を長所に変える方法などを学んで成功することができたようです。
「継続する心」という本はその成功の秘訣についてビジネスマンにも通じる内容で分かりやすく書かれていて、とてもオススメです!
特に、以下については感銘を受けましたね。
・努力を信じる
・自分を見いだしてくれる人と出会う
・短所を活かす
・少しずつでも続ける
・どん底にこそチャンスがある
・遊びも真面目に取り組み、その経験を活かす
・博識となり「引き出し」を多く持つことが大切
・悩みや不安、心配事はプラスに作用する
・他人のせいにはしない
・ランニングすることで肩やひじを痛めない
・運は普段の行いにつきる
・信条は努力・恩義・夢・忍耐・感謝
・体重の変化は健康の根本
・何事もベストをつくす
・自己暗示は有効
・仕事の中で生き甲斐を見いだすことが重要
・オフの時間には仕事は持ち込まない
・不調の状態を普通と思うこと
以下はこの本のポイント等です。
・アスリートに限らず、それぞれの世界で一流のプロになるためにはどうすればいいか。努力するのは当たり前だが、その前提として自己分析力-すなわち、自分を客観的に見て評価するという視点が不可欠だと思っている。自分に足りないものは何か、どうすればそれば補えるのか。あるいは短所を克服するにはどういう方法が考えられるのか。長所をより伸ばしていくには何をなすべきか。今の自分に必要なもの、足りないものを的確に分析することによって、練習の目的が明確になってくるのだ。
・プロ入りを決心させてくえた日大藤沢高校の香椎監督の言葉にすがり、僕は目前のハードルに向かって猛然と走り出したのである。キャンプインに際して、僕は開幕の2ヶ月間、一日も休まず投球練習を行った。才能に劣るなら、死ぬほど努力するしかない。休日も投げた。おそらく、休日までも投げ込み練習をした投手は、日本のプロ野球界ではいないのではないだろうか。それくらい自分を追いつめた。僕は、自分に何かを課し、それを実行することで野球は上達すると信じている。それが物事を俯瞰して見る習慣を身につける結果につながった。これによって自分に何が足りないのか、また何を伸ばせばもっと上へ行けるのか、などの「啓発する心」の礎を作ったような気がする。だからキャンプで1日も休まず投球練習を続ければ開幕一軍につながると信じ、自分にもそう言い聞かせてがんばったのである。入団して4年目、僕は開幕一群に選ばれた。球威やピッチング技術はともかく、野球の神様が「マサが頑張っているから一軍に入れてやれ」と言ってくれたか、あるいはひたむきな練習態度が監督やコーチに認められたか。いずれにせよ、「一念じ、岩をも通す」という言葉があるが、これは本当だと、当時を振り返って思うのである。
・僕が引いた野球選手というあみだくじは、1988年のマイナーリーグへの「島流し」と、小山先生との出会いという2本の横線によって、当たりくじになったのだと思っている。小山先生と出会うことがなかったら、そして「フォームが美しい」という一言がなかったなら、僕の野球人生は確実に終わっていたことは確かである。いま不遇であろうとも、決してくさったり、あきらめたりしてはならない。才能を見いだしてくれる-いや、石ころと思っていた自分の才能が、実は宝石であったことを見抜いてくれる「目利き」が現れることもあるのだ。1995年、左ひざを手術して二軍でリハビリ生活を送っていた僕が、ヒマつぶしにラジコンレースを始めた。そして、ラジコンの性能追求に没頭する若者たちのように、野球のことをもっと追求していけば、自分はもっともっとよくなるのではないか-そう閃いた。同時に、僕は小山先生と出会うのである。ちょうどこの頃、ドラゴンズのトレーニングコーチが、ワールドウィングで使用しているトレーニングマシーンを3、4台購入して、それを名古屋球場に備え付けた。リハビリ中だった僕は、何気なくそのマシンを使ってみたところ、「めちゃくちゃいいじゃん、これ!」と、気に入ったのである。それでマシンについて調べ、鳥取のワールドウィングを知った僕はこの年のオフ、アポを取り小山先生を鳥取に訪ねた。ワールドウィングには投球練習場があり、僕が投げる姿を小山先生はそばでじっと見ていて、「マサくん、君のフォームは美しいね」とおっしゃった。「本当ですか?」「うん。でも、ここをこういうふうにしたら、もっとよくなるんじゃないかな」「先生、僕のフォーム、もう好きに直してください。先生の好きなようにつくってください」僕は、思わずそう告げていた。それから毎晩、二人で話し合った。力が生まれるメカニズムから筋肉の動き、関節の役割、そして、どこをどう動かせば瞬発力を引き出せるのか-。小山先生は「初動負荷理論」について、僕が納得するまで説明してくださり、フォームの改造に着手したのである。それから17年、それまでの81勝にさらに132勝を積み上げ、47歳で通算213勝をあげることになる。小山先生と出会うまで、僕は身体の状態や調子を感覚でとらえていた。「今日は身体がちょっと重いな」「調子が出ないな」-そんな具合だ。しかし小山先生の指導で、筋肉や身体の動きやパワー、瞬発力といったものをメカニズムとしてとらえるようになった。だからこそ、この年まで現役で投げることができ、しかるべき成績と記録を残せたのである。
・ドラフト5位で入った無名選手でクビにされかけた身としては、出来すぎた”大成”と言っていいだろう。では、なぜ大成できたのかといえば、ガニ股という「短所」のおかげである。ガニ股であったから、僕の決め球になるスクリューボールがマスターできたのだ。少し専門的な解説をすれば、力を逃がす球はよく曲がる。力を逃がすには、ヒザを外に開けばいい。ヒザを開いたほうがいいなんて言う野球人はたぶんいないと思うが、球をリリースする位置と、反対側の腰の位置が遠ければ遠いほど変化球は曲がる。ガニ股の僕は自然にヒザが外に開くので、スクリューボールに合っていた。ヒザが開くという致命的な欠陥が、スクリューボールには「長所」となったのである。ただ、スクリューボールをアメリカで覚えたということが僕には幸運だった。アメリカのマウンドは日本のそれより高いので、変化球の曲がり具合など投手に有利になっている。しかも、打者はブンブン振り回してくるから、ストンと球が落ちたらもう当たらない。これがもし日本でスクリューボールを覚えていたなら、コツンと当てられて、「やっぱ駄目だな」とスクリューボールに見切りをつけていたかもしれない。初めて投げた打者が4番で、ブンブン振り回してくれたので自信をつけたのだった。ガニ股という短所がなければ、僕はこれだけの勝ち星をあげることはできなかった。こおことから「短所」とは何かということを考えてしまうのである。結論から言えば、「短所」は活かすことで「長所」に転じるということなのだ。
・「継続は力なり」という。そのとおりだ。歴史書が大好きでよく読むが、仏教の歴史本に「最下鈍の者も12を経れば必ず一験を得ん」という言葉を見つけて、思わずヒザを打った。日本天台宗開祖・最澄の言葉で、最下鈍ーすなわち「どんなに愚かで才能のない人間であっても、一つのことを12年続けていれば、必ず一つは秀でるものをつかむことができる」という意味だ。「最下鈍の者」とは最澄自身を指していて、比叡山にこもって修行したのが19歳から31歳まで。この修行年数が12年というわけである。最澄に自分をなぞらえるのはおこがましいが、さしたる才能もない僕がなぜ213勝をあげることができたのかといえば、その最大の要因は「継続力」にあると思っている。
・僕は逆発想する。”目標値”を成果から逆算するのではなく、継続できるかどうか、から考えて決めるのだ。たとえば毎朝走るなら、「何キロだったら毎日続けられるか」を考える。だから思い切って距離を短くする。5キロを目標にしたいと思ったら、1キロにする。これだったら、雨が降ろうがヤリが降ろうが継続できるからだ。これは僕の考え方だが、「継続は力なり」の「力」とは精神力を養うことを意味すると思っている。たった1キロでも、1か月、2か月、半年、1年と続けていくうちに「俺はやりとげている」という自信が腹の底から沸き上がってくるものだ。5キロの距離をノルマにして挫折すれば「自己嫌悪」、わずか1キロでも継続すれば「自信」。どっちがいいか、言うまでもないだろう。
・いつものように、寝る前に中国古典関係の本を読んでいたら、「礼記」の次の一節に目を引かれた。「射は君子に似たるに有り。諸を正鵠に失いて、諸を其の身に反求す」正鵠とは「弓の的」のことで、「弓を射て的を外した際には、その原因を我が身に求めようとする。君子の態度も同様で、君子は失敗の原因を他に求めるのではなく、常に我が身を振り返って反省するものだ」という意味になる。他人のせいにするな-ということで、「まさにそうだ」と膝を打つ思いだった。
・プロ入りして29年間を振り返れば、「他人のせい」にしたくなることは山ほどあるが、僕はいつも「自分のせい」にし、それを励みにしてきた。「野球の神様が見ている」という思いは、いまこうして振り返ると、責任はすべて自分自身にあるという思いに通じているのだろう。だから野球人生に全力投球してきたし、いまもしている。「他人のせい」にできない以上、すべては「自己責任」であり、自分が踏ん張るしかないからである。幸いにも運に恵まれ、周囲の人たちにも恵まれて、努力は実ってくれたと思う。無名選手だった僕にしては出来すぎだろう。そんな半生をいま振り返ってみて、もう1回やれと言われても、とてもできないと思う。人生は1回きりで本当によかったと、これは本心から言える。努力もしたが、それは僕が勤勉だからじゃない。「他人のせいにしない」という生き方が、そうさせたのだと、いまは思っている。逃げている暇はない。自分から変わっていく努力をしなければならないのだ。そういう意味で、僕は幸せだ。野球選手として頑張れたからではない。記録を残せたからでもない。「人生は一度で十分だ」「人生は1回でいい」と思えるような生き方をしてこれたことが、幸せだと思うのである。
・不遇の時代に、どういう心構えで過ごすか。ここが人生勝負だと思う。くさるか、境遇を呪うか、発奮するか、それともギブアップするか。だが「不遇」というやつは、心構え一つで飛びあがるためのジャンピングボードにもなる。ルーキーの頃、戦力外通告におびえ続けてきた僕は、「5年が勝負」と自分に言い聞かせていた。プロの世界は厳しい。「5年やって芽が出なかったら確実にクビになる」-そう思っていた。そして、迎えた5年目。今季が最後のチャンスだと腹をくくって春期の沖縄キャンプに臨んだ。そのころ僕の年俸は400万円。それに対して、ドラフト1位で入団してきた高校生の立浪和義は倍近くの700万円を超えていてた。僕はそんな程度の選手で、いつクビになってもおかしくなかった。だから5年目のキャンプは必死で練習した。それが星野監督に認められてか、オープン戦の開幕投手に指名されたのである。オープン戦とはいえ、開幕投手なのだ。好投すれば一軍へのキップを手に入れることができるかもしれない。5年目にしてめぐってきた絶好のチャンスに、僕は奮い立った。野球人生をかける覚悟でマウンドにあがった。初回に5点取られて、あっさりKO。
・口答えできる相手じゃないので、僕は絶句するしかなかった。アメリカリーグとは言っても、マイナーリーグのほうだ。しかも、1A。メジャーリーグはメジャーを頂点に上から3A、2A、1Aとなっているが、その1Aにいろというのだ。ドジャースと中日ドラゴンズは友好関係にあることから、前年から、若手の選手を何人か留学させていた。要するに戦力外選手の「島流し」「であった。
・「敗戦処理」からスタートだ。アメリカの先発ローテーションは、5,6回連続で失敗しないと変えないシステムになっている。「こいつを使う」と決めたら徹底的に使う。そのやり方がいいのか悪いのかはともかく、なかなかローテが回ってこないことになる。それでも僕は、もうくさることはなかった。辛抱して頑張っていれば必ずチャンスが来ると自分に言い聞かせ、黙々と敗戦処理を続けているうちに、チームのエースがケガで故障。僕は先発ローテーション入りするのである。それからは面白いように勝ち始めた。7月のオールスターまでに8勝4敗という快進撃が認められ、8月下旬、半年ぶりに急遽、星野監督に呼びもどされる。中日は巨人と優勝争いを演じており、「島流し」の僕が一軍のマウンドにあがったのである。8月30日の広島戦に登板し、プロ入り初勝利。以後、5連勝。ちなみに9月16日にはヤクルト戦で初完投、初完封をやってのけた。ドラゴンズは6年ぶりに優勝し、地元名古屋の熱狂的な中日ファンから、僕はまるで「救世主」のように賞賛されたのである。いま、そんな25年前を振り返ると、あの留学が僕の大きな転機だったことがわかる。もしファン主催のパーティがなかったら、ふてくされたままでいたら、僕の野球人生は若くして終わっていただろう。このときの経験から、不遇であろうとも辛抱し続け、チャンスが来るときに備えて、コツコツと準備をすることの大切さを学んだ。中日ドラゴンズから正式にクビを言い渡されるまで、僕は1Aで頑張り抜く覚悟でいた。出口が見えないトンネルであろうとも、果敢に一歩を踏み出し、ひたすら歩いて行った結果が、最年長現役投手という栄誉につながったものと思っている。風がなくても、いざ吹き始めたときのために帆は高く掲げておくべきだ。そして、その帆は自分自身で掲げるしかない。風というチャンスは必ず吹く。一瞬の”つむじ風”を逃すか、つかまえるか。ここで人生は180度変わってくるのだ。
・恩人に感謝し、恩に応えようとして頑張った結果が、いつのまにか現役選手生活30年になっていた。こうした恩人たちとの出会いや人脈は、自分で創りだそうと思ってもなかなかできることではない。そこには、運が必ずある。運はどこからやってくるのかといえば、それは「普段の行い」につきる。それだけのことだ。僕は、子どもの頃からやってきた。ありふれたことのように思われるかもしれないが、運とは自分でたぐり寄せるものではなく、普段から正しいと思うことをやり続けることによって向こうkらやってくるものなのである。自分には才能がない、ごく普通の人間だと思っている。世の中の大多数がそうだと思う。そんな普通の人間でも、普段の行いをちゃんとしていれば、運は必ずやってくる。僕には野球の神様、ビジネスマンのみなさんには仕事の神様がやってくるはずだ。
・努力、恩義、夢、忍耐、感謝ー。信条は何かと聞かれたら、僕はこの5つをあげる。もちろん手を抜くこともあれば、そうと自分で気がつかないまま、人さまに迷惑をかけていることもあるだろう。感謝しているつもりでいても、そう思ってくれない人もいると思う。未熟な僕が信条を口にするなどおこがましい限りだが、「そうありたい」という気持ちで野球人生を送ってきたことに偽りはない。この信条のなかで「努力」「夢」「忍耐」の3つは自分を奮い立たせるものだが、「恩義」と「感謝」の二つはお世話になった方々に対する僕の一方的な思いだ。
・ピッチャーの転換期は、だいたい32、3歳だ。加齢と酷使とで肩が衰えてくるからだ。そこで、速球派でやってきた投手が軟投派に方向転換し、楽に投げようとすると失敗する。変えては駄目なのだ。速球派は、速球派のなかえ自分を追求していかなえればならない。球のスピードが、たとえ10キロ遅くなったとしても、やはりキレで勝負するくらいの気迫がないと落後していくのだ。
・自分で言うのは気が引けるが、僕はノーツーでも選択肢が多い。ルクリューボールという決め球も持っている。スローカーブも自信の一球だ。こうした投球術を駆使したことによって213勝をあげられたのだと確信を持って言える。サラリーマンだって「引き出し」が勝負ではないだろうか。僕もいろんな方々とおつきあいがあるが、たとえば信頼のおけるクルマ屋の社長は、クルマに関してエキスパートであるのはもちろんだが、クルマ以外のことにも博識で、人間的魅力にあふれている。だから全幅の信頼を置いている。人格もまた重要なスキルということなのである。
・もうちょっとやってみようと思うことが重要である。少しの努力でも毎日やり続けることだ。僕はそれをやり続けているから成果を残せているのだと思う。僕は歴史が大好きだ。とりわけ中国史に引かれる。だから、よく読む。寝る前に本を読むのが習慣になっていて、何かしら読まなければ眠れない。これは飲んで帰っても同じで、夜中の3時頃まで本を開いている。「人間としての幅を広げるため」などと言えばカッコづけになるが、要するに中国史のスケール観が好きなのだ。
・体重チェックは欠かさないようにしている。寿司も焼肉も大好きでよく食べに行くが、健康のバロメーターとして体重には気を配っている。常に体重計に乗って、500g太ったとわかれば、「今日は米を食べるのをやめよう」と決める。体重の変化というのは、健康の根本だ。それだけをしっかり管理しておけば、何を食べてもいいと思っている。「この食品は栄養がいっぱいだから身体にいい」とか、「これは身体に悪いから絶対に食べてはいけない」という決まりはつくらないようにしている。ちなみに、健康サプリメントは一度も用いたことがない。
・たまたま僕が趣味にしていたクワガタは一例だが、ここまで手がかかるからこそ、仕事のことを忘れて没頭する。飲酒や中途半端な趣味だと、仕事のことが頭の片隅にこびりついたままでいる。したがって、頭のフレッシュは中途半端なものになってしまうと、僕は経験から思うのだ。そのクワガタも、いまは飼っていない。そこまで没頭させられる趣味だけに、若いころと違って、自分の身体のケアと、クワガタのケアの両立が次第に難しくなっていったからである。現役を引退するまで”お預け”にした。目的や夢を実現するためには、時に趣味を封じる勇気も必要なのだ。
・人間の身体だって、足の裏は大事にされないが、足の裏があるからこそ、歩いたり走ったりできる。敗戦処理も、足の裏も、必要とされるものには立派な存在価値があるのだ。そういう気持ちでマウンドにあがれば、敗戦処理であってもベストを尽くすようになる。投げることに幸せを感じる。こうした努力で、僕の投球技術は次第に磨かれていき、エースの故障というチャンスに先発入りするのである。努力が必ず成果につながるとは限らない。だが、この努力なくして成果は絶対にないことだけは確かなのだ。
・このことはぜひ言っておきたいのだが、高いレベルの集団に入ったら、そのレベルまで伸びてくる選手がいる。ダルビッシュ有なんか、その典型だ。日本ハム時代、ファームにいたときはイマイチだったが、一軍に引きあがられるや、たちまちエースに登りつめた。上のレベルへ入ってみて、自分がどうすればいいかを的確に見抜く才能を持っていたということだ。だから、ドラフト指名の上位下位は関係ない。下位で入ってきた無名のルーキーが、何かの弾みで高いレベルの集団に入れられるや、たちまちそのレベルまで上達してしまうこともあれば、1位で入ってきても、鳴かず飛ばずで終わる選手もいる。二軍の群れに入ってしまうと、一軍の群れに戻っていくことはかなり困難なことだ。
・ビジネスマンと恋愛小説の関係について僕はわからないが、野球選手とランニングについてなら「必要だ」と断言できる。走れなくなった選手は、肩やヒジが壊れるkらだ。なぜかというと、ランニングは両腕を振ることで足を前に運んでいく。練習で常に走っているということは、常に肩やヒジを動かし続けているということでもある。つまり肩とヒジの準備運動を継続的に、しかも十分にやっているというわけだ。ところが、ケガや年齢から走れなくなった-あるいは、きちんと走らなくなった選手は継続的な準備運動が足りないため、投球練習を始めると肩とヒジを傷める。これが僕の分析であり、一見、意味がなさそうなランニングが、実はピッチャーには欠かせないということになる。
・プロゴルファーの青木功さんと鳥取のトレーニングジムで一緒になることがあるが、ゲンかつぎについて、こんなエピソードがあるそうだ。翌日の朝飯にと、寿司屋でお稲荷さんを頼んだときのこと。「明日はエイトバーディーを取りたいから8つつくって」と冗談で言ったつもりが、なんと翌日はエイトバーディーを取ったそうだ。あるいは、以前、乗ってらしたクルマのナンバーが「816」だったので、「今日はパターがハ・イ・ルかもしれないな」と思っていたら、実際によく入ったという。こうした経験から、「ちょっとした自己暗示というか、言葉に表して自分自身にほのめかすと意外と効果があるものだ」ということだった。
・そんな僕だから、試合前は食事がノドを通らない。試合前練習は、ナイターのホームゲームであれば午後2時半ごろから、ビジターならそのあと4時頃から始める。ゲーム終了が9時をすぎるので選手は軽食をとるが、僕は無理。練習時間から先は緊張から胃袋が食事を受け付けない。バナナ1本がせいぜいだろう。だから昼食にしっかり食べる。胃袋はすでに緊張しているので、登板日の昼食はいつもカレーライス。カレーライスならスプーンでかっこむことができるからである。こうして僕はずっと、マウンドにあがってきたのだ。こんな話を書いたのはほかでもない。誰だって重要な使命を担うときは緊張するということを言いたいからだ。スピーチだってそうだろうし、試験や面接だってそうだろう。大きな商談もそうなら、クレーム処理の矢面に立たされるのも大変な緊張とプレッシャーがかかる。だが、人生という試合に登板している以上、緊張とプレッシャーは毎試合、ついて回るものだ。そして、この緊張とプレッシャーからは決して逃げることはできないということをわかっていただければ幸いである。緊張とプレッシャーは、逃げることもできないし、ねじ伏せることもできないが、「友だち」になることはできる。敵対するのではんく、仲良くすることで、励みに転じるのだ。このことを参考までに付け加えておきたい。ドラゴンズのOBと雑談していたときのことだ。OBは僕にこんなことを言った。「俺たちみたに現役を退いたら、2度とあの緊張感のなかではプレーできないんだぞ。あの緊張感があるから、野球をやれるんだ」この言葉を聞いたとき、僕は緊張とプレッシャーと「友だち」になろうと考えたのだった。開放はされなくとも、仲良くできるようになったことは確かである。
・仕事は、人生の中で一番長い時間を費やす。その中で生き甲斐を見いだすことが重要だ。そして、オフの時間に仕事を持ち込まず、はっきりと区別することが必要だ。
・絶好調の登板は年間に1試合か2試合あるかどうか。3試合を超えることは、まずない。2年連続で最多勝をとった頃は、ブルペンで投げているときから「今日は絶対勝てる」と思ったこともあるが、そういうのは例外中の例外。むしろ不調の状態を「普通」と思い、それで勝ち星をあげるようでなければやっていけない。それがプロの世界だと思う。
・監督への抗議だから、緊迫した状況になっていた。星野監督が現れ、選手たちと対峙して座ると、ジロリと全員を見回し、「おまえら、罰金が多いとか文句言ってるらしいな。俺が来てから、給料下がったやつ手を上げろ」二軍の選手を含め、誰も手をあげていない。「そういうこっちゃ!」ピシャリと言って、星野監督は腰をあげた。誰も、何も言えない。星野監督の言うとおりだ。落合さんも、しょうがねぇな、という顔をしていた。あとで知ったことだが星野監督は、罰金をキャンプ地の施設のために使っていた。(監督、すげぇ!)これが貫禄の違いかと感激したものだ。それでいて細やかな気遣いもできる。選手の奥さんの誕生日には必ず、花を贈ってくれる。監督から女房に花を贈られて、喜ばない選手はいない。僕の宝物の一つに、星野監督から贈られたスイス製の高級腕時計がある。通算147勝で星野監督の現役時代の勝ち星を抜き、さらに150勝したときだ。阪神との対戦が始まる前のナゴヤドームで、阪神の関係者が「監督が呼んでいます」と告げに来た。そのとき星野監督は阪神の監督をしていたのだが、「監督が呼んでいる」の一言で僕はドキリとした。反射的に「怒られる!」と、すくみあがったのだ。おそるおそる三塁側監督室に入って直立不動すると、「マサ、おめでとう」と笑顔で渡されたのが、その腕時計だった。「星野仙一」と刻印され、150勝の祝福メッセージが添えてあった。フロリダのマイナーリーグへ「島流し」にした監督が、いまこうして祝福をしてくれている。星野監督との出会いがなければ、僕はいま頃何をしているだろうか。感謝してもしきれない。200勝をあげた夜、僕が真っ先に電話をかけ、報告したのは星野監督だった。
・落合さんが監督になられた2004年の前年、チームはやっとの思いでAクラスにとどまった。それくらいの力しかなかったのに、落合監督は「いまの選手の力を10%底上げすればトレードなど補強は必要ない。十分に優勝を狙える」という話をされた。いまの力がどれくらいかを知っている選手はみんな半信半疑だったが、落合さんは決して上から目線で物をいうことはなく、「見守る力」を持ってコーチを信じ、選手ひとりひとりに何をすべきか考えさせて育て、使いきり、見事優勝を果たした。監督が何を求めているかが理解できない選手は決して使わないし、過去の実績があってもレギュラーにはなれなかった。眼力、見る力にかけてはすごい人だ。本当にこれだけ野球の情勢を知る能力を持った指揮官はそうはいない。僕は星野監督に若い頃鍛えられて、ベテランになってからは落合監督の理論を学んだ。落合監督との8年間があったからこそ、僕は200勝できたと思っている。
・悩みや心配事が仕事の足を引っ張るというのは、大いなる誤解か、言い訳である。「一病息災」という言葉があるように、努力を怠らなければ、悩みや心配事は1つ2つあったほうが仕事はうまくいくのだ。僕の場合、故障をかかえ、「ヤバイかな」と心配しながら登板したときは、意外にいい結果が出ている。神経が「心配」のほうに集中しているため、緊張することを忘れてしまっているかだ。従ってリキむこともなければ、緊張に気持ちがうわずることもない。しかも不安を押して登板しているのだから、腹のくくりもある。好投する条件がそろうというわけである。
・こうして振り返ると、本当に素晴らしいキャッチャーに支えられてきた。そして、つくづく思うのは、パートナーというのは、「相手が、自分にとってよきパートナーであるかどうか」ということより、「自分が相手にとってよきパートナーであるかどうか」という視点が大切なのではないか。他人のせいにしてはいけない。
<目次>
まえがき
第1章 続ける
01 こだわる
02 ハードルは自分で設ける
03 置かれた環境で花を咲かす
04 自分に足りないものは何か
05 才能よりも努力を信じる
06 見いだしてくれる人と出会う
07 短所を活かせば長所に変わる
08 「少しずつでも続ける」を心がける
09 指揮官の「一言」は重い
第2章 めげない
10 往生際について
11 終わらない心を持つ
12 「自分のせい」にする勇気
13 人格を磨く
14 どん底にこそチャンスがある
15 遊びも真面目に取り組む
16 恩人が運をつくる
17 努力は裏切らない
第3章 変わる
18 恩義と感謝を忘れない
19 「引き出し」を持つ
20 イメージでメンタル習慣をつくる
21 変えていいもの、いけないもの
22 試す心
23 進化する心を持つ
24 趣味に学ぶ
25 「自分に何ができるか」を考える
第4章 受け入れる
26 自分も他人も責めない
27 黙々とこなす
28 ゲンをかつぐ
29 緊張を「友だち」にする
30 「もし」を封じる
31 好調と不調をコントロールする
32 上司を敬遠せずに、学ぶことを知る
第5章 腹をくくる
33 腹をくくる
34 開き直る心
35 若手を教育するには失敗談がいい
36 ダイヤではなく”いぶし銀”を目指す
37 他人のせいにしない
38 あきらめない
39 人生は、思った以上に短い
あとがき
面白かった本まとめ(2013年上半期)
<今日の独り言>
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「継続する心」という本は、プロ野球の中日ドラゴンズで、現役選手最年長で、最年長先発勝利記録更新中の山本昌さんが書いたものです。
山本昌選手は、2012年時点で213勝を達成し、最多勝が3回、最優秀防御率が1回、最多奪三振が1回、ベストナインが2回、沢村賞が1回の成績を残す大投手です。
しかしながら、実は当時は将来を期待されたルーキーではなく、ドラフト5位で指名された無名の投手で、高校3年生の時には教師になるつもりで、日大への進学が内定していたようです。
プロ入り後も1年目にクビになりかけ、5年目には事実上の戦力外通告である米国メジャーリーグ1Aへの「島流し」を経験しながらも、努力だけは人一倍やって、目標を高く持ち、短所を長所に変える方法などを学んで成功することができたようです。
「継続する心」という本はその成功の秘訣についてビジネスマンにも通じる内容で分かりやすく書かれていて、とてもオススメです!
特に、以下については感銘を受けましたね。
・努力を信じる
・自分を見いだしてくれる人と出会う
・短所を活かす
・少しずつでも続ける
・どん底にこそチャンスがある
・遊びも真面目に取り組み、その経験を活かす
・博識となり「引き出し」を多く持つことが大切
・悩みや不安、心配事はプラスに作用する
・他人のせいにはしない
・ランニングすることで肩やひじを痛めない
・運は普段の行いにつきる
・信条は努力・恩義・夢・忍耐・感謝
・体重の変化は健康の根本
・何事もベストをつくす
・自己暗示は有効
・仕事の中で生き甲斐を見いだすことが重要
・オフの時間には仕事は持ち込まない
・不調の状態を普通と思うこと
以下はこの本のポイント等です。
・アスリートに限らず、それぞれの世界で一流のプロになるためにはどうすればいいか。努力するのは当たり前だが、その前提として自己分析力-すなわち、自分を客観的に見て評価するという視点が不可欠だと思っている。自分に足りないものは何か、どうすればそれば補えるのか。あるいは短所を克服するにはどういう方法が考えられるのか。長所をより伸ばしていくには何をなすべきか。今の自分に必要なもの、足りないものを的確に分析することによって、練習の目的が明確になってくるのだ。
・プロ入りを決心させてくえた日大藤沢高校の香椎監督の言葉にすがり、僕は目前のハードルに向かって猛然と走り出したのである。キャンプインに際して、僕は開幕の2ヶ月間、一日も休まず投球練習を行った。才能に劣るなら、死ぬほど努力するしかない。休日も投げた。おそらく、休日までも投げ込み練習をした投手は、日本のプロ野球界ではいないのではないだろうか。それくらい自分を追いつめた。僕は、自分に何かを課し、それを実行することで野球は上達すると信じている。それが物事を俯瞰して見る習慣を身につける結果につながった。これによって自分に何が足りないのか、また何を伸ばせばもっと上へ行けるのか、などの「啓発する心」の礎を作ったような気がする。だからキャンプで1日も休まず投球練習を続ければ開幕一軍につながると信じ、自分にもそう言い聞かせてがんばったのである。入団して4年目、僕は開幕一群に選ばれた。球威やピッチング技術はともかく、野球の神様が「マサが頑張っているから一軍に入れてやれ」と言ってくれたか、あるいはひたむきな練習態度が監督やコーチに認められたか。いずれにせよ、「一念じ、岩をも通す」という言葉があるが、これは本当だと、当時を振り返って思うのである。
・僕が引いた野球選手というあみだくじは、1988年のマイナーリーグへの「島流し」と、小山先生との出会いという2本の横線によって、当たりくじになったのだと思っている。小山先生と出会うことがなかったら、そして「フォームが美しい」という一言がなかったなら、僕の野球人生は確実に終わっていたことは確かである。いま不遇であろうとも、決してくさったり、あきらめたりしてはならない。才能を見いだしてくれる-いや、石ころと思っていた自分の才能が、実は宝石であったことを見抜いてくれる「目利き」が現れることもあるのだ。1995年、左ひざを手術して二軍でリハビリ生活を送っていた僕が、ヒマつぶしにラジコンレースを始めた。そして、ラジコンの性能追求に没頭する若者たちのように、野球のことをもっと追求していけば、自分はもっともっとよくなるのではないか-そう閃いた。同時に、僕は小山先生と出会うのである。ちょうどこの頃、ドラゴンズのトレーニングコーチが、ワールドウィングで使用しているトレーニングマシーンを3、4台購入して、それを名古屋球場に備え付けた。リハビリ中だった僕は、何気なくそのマシンを使ってみたところ、「めちゃくちゃいいじゃん、これ!」と、気に入ったのである。それでマシンについて調べ、鳥取のワールドウィングを知った僕はこの年のオフ、アポを取り小山先生を鳥取に訪ねた。ワールドウィングには投球練習場があり、僕が投げる姿を小山先生はそばでじっと見ていて、「マサくん、君のフォームは美しいね」とおっしゃった。「本当ですか?」「うん。でも、ここをこういうふうにしたら、もっとよくなるんじゃないかな」「先生、僕のフォーム、もう好きに直してください。先生の好きなようにつくってください」僕は、思わずそう告げていた。それから毎晩、二人で話し合った。力が生まれるメカニズムから筋肉の動き、関節の役割、そして、どこをどう動かせば瞬発力を引き出せるのか-。小山先生は「初動負荷理論」について、僕が納得するまで説明してくださり、フォームの改造に着手したのである。それから17年、それまでの81勝にさらに132勝を積み上げ、47歳で通算213勝をあげることになる。小山先生と出会うまで、僕は身体の状態や調子を感覚でとらえていた。「今日は身体がちょっと重いな」「調子が出ないな」-そんな具合だ。しかし小山先生の指導で、筋肉や身体の動きやパワー、瞬発力といったものをメカニズムとしてとらえるようになった。だからこそ、この年まで現役で投げることができ、しかるべき成績と記録を残せたのである。
・ドラフト5位で入った無名選手でクビにされかけた身としては、出来すぎた”大成”と言っていいだろう。では、なぜ大成できたのかといえば、ガニ股という「短所」のおかげである。ガニ股であったから、僕の決め球になるスクリューボールがマスターできたのだ。少し専門的な解説をすれば、力を逃がす球はよく曲がる。力を逃がすには、ヒザを外に開けばいい。ヒザを開いたほうがいいなんて言う野球人はたぶんいないと思うが、球をリリースする位置と、反対側の腰の位置が遠ければ遠いほど変化球は曲がる。ガニ股の僕は自然にヒザが外に開くので、スクリューボールに合っていた。ヒザが開くという致命的な欠陥が、スクリューボールには「長所」となったのである。ただ、スクリューボールをアメリカで覚えたということが僕には幸運だった。アメリカのマウンドは日本のそれより高いので、変化球の曲がり具合など投手に有利になっている。しかも、打者はブンブン振り回してくるから、ストンと球が落ちたらもう当たらない。これがもし日本でスクリューボールを覚えていたなら、コツンと当てられて、「やっぱ駄目だな」とスクリューボールに見切りをつけていたかもしれない。初めて投げた打者が4番で、ブンブン振り回してくれたので自信をつけたのだった。ガニ股という短所がなければ、僕はこれだけの勝ち星をあげることはできなかった。こおことから「短所」とは何かということを考えてしまうのである。結論から言えば、「短所」は活かすことで「長所」に転じるということなのだ。
・「継続は力なり」という。そのとおりだ。歴史書が大好きでよく読むが、仏教の歴史本に「最下鈍の者も12を経れば必ず一験を得ん」という言葉を見つけて、思わずヒザを打った。日本天台宗開祖・最澄の言葉で、最下鈍ーすなわち「どんなに愚かで才能のない人間であっても、一つのことを12年続けていれば、必ず一つは秀でるものをつかむことができる」という意味だ。「最下鈍の者」とは最澄自身を指していて、比叡山にこもって修行したのが19歳から31歳まで。この修行年数が12年というわけである。最澄に自分をなぞらえるのはおこがましいが、さしたる才能もない僕がなぜ213勝をあげることができたのかといえば、その最大の要因は「継続力」にあると思っている。
・僕は逆発想する。”目標値”を成果から逆算するのではなく、継続できるかどうか、から考えて決めるのだ。たとえば毎朝走るなら、「何キロだったら毎日続けられるか」を考える。だから思い切って距離を短くする。5キロを目標にしたいと思ったら、1キロにする。これだったら、雨が降ろうがヤリが降ろうが継続できるからだ。これは僕の考え方だが、「継続は力なり」の「力」とは精神力を養うことを意味すると思っている。たった1キロでも、1か月、2か月、半年、1年と続けていくうちに「俺はやりとげている」という自信が腹の底から沸き上がってくるものだ。5キロの距離をノルマにして挫折すれば「自己嫌悪」、わずか1キロでも継続すれば「自信」。どっちがいいか、言うまでもないだろう。
・いつものように、寝る前に中国古典関係の本を読んでいたら、「礼記」の次の一節に目を引かれた。「射は君子に似たるに有り。諸を正鵠に失いて、諸を其の身に反求す」正鵠とは「弓の的」のことで、「弓を射て的を外した際には、その原因を我が身に求めようとする。君子の態度も同様で、君子は失敗の原因を他に求めるのではなく、常に我が身を振り返って反省するものだ」という意味になる。他人のせいにするな-ということで、「まさにそうだ」と膝を打つ思いだった。
・プロ入りして29年間を振り返れば、「他人のせい」にしたくなることは山ほどあるが、僕はいつも「自分のせい」にし、それを励みにしてきた。「野球の神様が見ている」という思いは、いまこうして振り返ると、責任はすべて自分自身にあるという思いに通じているのだろう。だから野球人生に全力投球してきたし、いまもしている。「他人のせい」にできない以上、すべては「自己責任」であり、自分が踏ん張るしかないからである。幸いにも運に恵まれ、周囲の人たちにも恵まれて、努力は実ってくれたと思う。無名選手だった僕にしては出来すぎだろう。そんな半生をいま振り返ってみて、もう1回やれと言われても、とてもできないと思う。人生は1回きりで本当によかったと、これは本心から言える。努力もしたが、それは僕が勤勉だからじゃない。「他人のせいにしない」という生き方が、そうさせたのだと、いまは思っている。逃げている暇はない。自分から変わっていく努力をしなければならないのだ。そういう意味で、僕は幸せだ。野球選手として頑張れたからではない。記録を残せたからでもない。「人生は一度で十分だ」「人生は1回でいい」と思えるような生き方をしてこれたことが、幸せだと思うのである。
・不遇の時代に、どういう心構えで過ごすか。ここが人生勝負だと思う。くさるか、境遇を呪うか、発奮するか、それともギブアップするか。だが「不遇」というやつは、心構え一つで飛びあがるためのジャンピングボードにもなる。ルーキーの頃、戦力外通告におびえ続けてきた僕は、「5年が勝負」と自分に言い聞かせていた。プロの世界は厳しい。「5年やって芽が出なかったら確実にクビになる」-そう思っていた。そして、迎えた5年目。今季が最後のチャンスだと腹をくくって春期の沖縄キャンプに臨んだ。そのころ僕の年俸は400万円。それに対して、ドラフト1位で入団してきた高校生の立浪和義は倍近くの700万円を超えていてた。僕はそんな程度の選手で、いつクビになってもおかしくなかった。だから5年目のキャンプは必死で練習した。それが星野監督に認められてか、オープン戦の開幕投手に指名されたのである。オープン戦とはいえ、開幕投手なのだ。好投すれば一軍へのキップを手に入れることができるかもしれない。5年目にしてめぐってきた絶好のチャンスに、僕は奮い立った。野球人生をかける覚悟でマウンドにあがった。初回に5点取られて、あっさりKO。
・口答えできる相手じゃないので、僕は絶句するしかなかった。アメリカリーグとは言っても、マイナーリーグのほうだ。しかも、1A。メジャーリーグはメジャーを頂点に上から3A、2A、1Aとなっているが、その1Aにいろというのだ。ドジャースと中日ドラゴンズは友好関係にあることから、前年から、若手の選手を何人か留学させていた。要するに戦力外選手の「島流し」「であった。
・「敗戦処理」からスタートだ。アメリカの先発ローテーションは、5,6回連続で失敗しないと変えないシステムになっている。「こいつを使う」と決めたら徹底的に使う。そのやり方がいいのか悪いのかはともかく、なかなかローテが回ってこないことになる。それでも僕は、もうくさることはなかった。辛抱して頑張っていれば必ずチャンスが来ると自分に言い聞かせ、黙々と敗戦処理を続けているうちに、チームのエースがケガで故障。僕は先発ローテーション入りするのである。それからは面白いように勝ち始めた。7月のオールスターまでに8勝4敗という快進撃が認められ、8月下旬、半年ぶりに急遽、星野監督に呼びもどされる。中日は巨人と優勝争いを演じており、「島流し」の僕が一軍のマウンドにあがったのである。8月30日の広島戦に登板し、プロ入り初勝利。以後、5連勝。ちなみに9月16日にはヤクルト戦で初完投、初完封をやってのけた。ドラゴンズは6年ぶりに優勝し、地元名古屋の熱狂的な中日ファンから、僕はまるで「救世主」のように賞賛されたのである。いま、そんな25年前を振り返ると、あの留学が僕の大きな転機だったことがわかる。もしファン主催のパーティがなかったら、ふてくされたままでいたら、僕の野球人生は若くして終わっていただろう。このときの経験から、不遇であろうとも辛抱し続け、チャンスが来るときに備えて、コツコツと準備をすることの大切さを学んだ。中日ドラゴンズから正式にクビを言い渡されるまで、僕は1Aで頑張り抜く覚悟でいた。出口が見えないトンネルであろうとも、果敢に一歩を踏み出し、ひたすら歩いて行った結果が、最年長現役投手という栄誉につながったものと思っている。風がなくても、いざ吹き始めたときのために帆は高く掲げておくべきだ。そして、その帆は自分自身で掲げるしかない。風というチャンスは必ず吹く。一瞬の”つむじ風”を逃すか、つかまえるか。ここで人生は180度変わってくるのだ。
・恩人に感謝し、恩に応えようとして頑張った結果が、いつのまにか現役選手生活30年になっていた。こうした恩人たちとの出会いや人脈は、自分で創りだそうと思ってもなかなかできることではない。そこには、運が必ずある。運はどこからやってくるのかといえば、それは「普段の行い」につきる。それだけのことだ。僕は、子どもの頃からやってきた。ありふれたことのように思われるかもしれないが、運とは自分でたぐり寄せるものではなく、普段から正しいと思うことをやり続けることによって向こうkらやってくるものなのである。自分には才能がない、ごく普通の人間だと思っている。世の中の大多数がそうだと思う。そんな普通の人間でも、普段の行いをちゃんとしていれば、運は必ずやってくる。僕には野球の神様、ビジネスマンのみなさんには仕事の神様がやってくるはずだ。
・努力、恩義、夢、忍耐、感謝ー。信条は何かと聞かれたら、僕はこの5つをあげる。もちろん手を抜くこともあれば、そうと自分で気がつかないまま、人さまに迷惑をかけていることもあるだろう。感謝しているつもりでいても、そう思ってくれない人もいると思う。未熟な僕が信条を口にするなどおこがましい限りだが、「そうありたい」という気持ちで野球人生を送ってきたことに偽りはない。この信条のなかで「努力」「夢」「忍耐」の3つは自分を奮い立たせるものだが、「恩義」と「感謝」の二つはお世話になった方々に対する僕の一方的な思いだ。
・ピッチャーの転換期は、だいたい32、3歳だ。加齢と酷使とで肩が衰えてくるからだ。そこで、速球派でやってきた投手が軟投派に方向転換し、楽に投げようとすると失敗する。変えては駄目なのだ。速球派は、速球派のなかえ自分を追求していかなえればならない。球のスピードが、たとえ10キロ遅くなったとしても、やはりキレで勝負するくらいの気迫がないと落後していくのだ。
・自分で言うのは気が引けるが、僕はノーツーでも選択肢が多い。ルクリューボールという決め球も持っている。スローカーブも自信の一球だ。こうした投球術を駆使したことによって213勝をあげられたのだと確信を持って言える。サラリーマンだって「引き出し」が勝負ではないだろうか。僕もいろんな方々とおつきあいがあるが、たとえば信頼のおけるクルマ屋の社長は、クルマに関してエキスパートであるのはもちろんだが、クルマ以外のことにも博識で、人間的魅力にあふれている。だから全幅の信頼を置いている。人格もまた重要なスキルということなのである。
・もうちょっとやってみようと思うことが重要である。少しの努力でも毎日やり続けることだ。僕はそれをやり続けているから成果を残せているのだと思う。僕は歴史が大好きだ。とりわけ中国史に引かれる。だから、よく読む。寝る前に本を読むのが習慣になっていて、何かしら読まなければ眠れない。これは飲んで帰っても同じで、夜中の3時頃まで本を開いている。「人間としての幅を広げるため」などと言えばカッコづけになるが、要するに中国史のスケール観が好きなのだ。
・体重チェックは欠かさないようにしている。寿司も焼肉も大好きでよく食べに行くが、健康のバロメーターとして体重には気を配っている。常に体重計に乗って、500g太ったとわかれば、「今日は米を食べるのをやめよう」と決める。体重の変化というのは、健康の根本だ。それだけをしっかり管理しておけば、何を食べてもいいと思っている。「この食品は栄養がいっぱいだから身体にいい」とか、「これは身体に悪いから絶対に食べてはいけない」という決まりはつくらないようにしている。ちなみに、健康サプリメントは一度も用いたことがない。
・たまたま僕が趣味にしていたクワガタは一例だが、ここまで手がかかるからこそ、仕事のことを忘れて没頭する。飲酒や中途半端な趣味だと、仕事のことが頭の片隅にこびりついたままでいる。したがって、頭のフレッシュは中途半端なものになってしまうと、僕は経験から思うのだ。そのクワガタも、いまは飼っていない。そこまで没頭させられる趣味だけに、若いころと違って、自分の身体のケアと、クワガタのケアの両立が次第に難しくなっていったからである。現役を引退するまで”お預け”にした。目的や夢を実現するためには、時に趣味を封じる勇気も必要なのだ。
・人間の身体だって、足の裏は大事にされないが、足の裏があるからこそ、歩いたり走ったりできる。敗戦処理も、足の裏も、必要とされるものには立派な存在価値があるのだ。そういう気持ちでマウンドにあがれば、敗戦処理であってもベストを尽くすようになる。投げることに幸せを感じる。こうした努力で、僕の投球技術は次第に磨かれていき、エースの故障というチャンスに先発入りするのである。努力が必ず成果につながるとは限らない。だが、この努力なくして成果は絶対にないことだけは確かなのだ。
・このことはぜひ言っておきたいのだが、高いレベルの集団に入ったら、そのレベルまで伸びてくる選手がいる。ダルビッシュ有なんか、その典型だ。日本ハム時代、ファームにいたときはイマイチだったが、一軍に引きあがられるや、たちまちエースに登りつめた。上のレベルへ入ってみて、自分がどうすればいいかを的確に見抜く才能を持っていたということだ。だから、ドラフト指名の上位下位は関係ない。下位で入ってきた無名のルーキーが、何かの弾みで高いレベルの集団に入れられるや、たちまちそのレベルまで上達してしまうこともあれば、1位で入ってきても、鳴かず飛ばずで終わる選手もいる。二軍の群れに入ってしまうと、一軍の群れに戻っていくことはかなり困難なことだ。
・ビジネスマンと恋愛小説の関係について僕はわからないが、野球選手とランニングについてなら「必要だ」と断言できる。走れなくなった選手は、肩やヒジが壊れるkらだ。なぜかというと、ランニングは両腕を振ることで足を前に運んでいく。練習で常に走っているということは、常に肩やヒジを動かし続けているということでもある。つまり肩とヒジの準備運動を継続的に、しかも十分にやっているというわけだ。ところが、ケガや年齢から走れなくなった-あるいは、きちんと走らなくなった選手は継続的な準備運動が足りないため、投球練習を始めると肩とヒジを傷める。これが僕の分析であり、一見、意味がなさそうなランニングが、実はピッチャーには欠かせないということになる。
・プロゴルファーの青木功さんと鳥取のトレーニングジムで一緒になることがあるが、ゲンかつぎについて、こんなエピソードがあるそうだ。翌日の朝飯にと、寿司屋でお稲荷さんを頼んだときのこと。「明日はエイトバーディーを取りたいから8つつくって」と冗談で言ったつもりが、なんと翌日はエイトバーディーを取ったそうだ。あるいは、以前、乗ってらしたクルマのナンバーが「816」だったので、「今日はパターがハ・イ・ルかもしれないな」と思っていたら、実際によく入ったという。こうした経験から、「ちょっとした自己暗示というか、言葉に表して自分自身にほのめかすと意外と効果があるものだ」ということだった。
・そんな僕だから、試合前は食事がノドを通らない。試合前練習は、ナイターのホームゲームであれば午後2時半ごろから、ビジターならそのあと4時頃から始める。ゲーム終了が9時をすぎるので選手は軽食をとるが、僕は無理。練習時間から先は緊張から胃袋が食事を受け付けない。バナナ1本がせいぜいだろう。だから昼食にしっかり食べる。胃袋はすでに緊張しているので、登板日の昼食はいつもカレーライス。カレーライスならスプーンでかっこむことができるからである。こうして僕はずっと、マウンドにあがってきたのだ。こんな話を書いたのはほかでもない。誰だって重要な使命を担うときは緊張するということを言いたいからだ。スピーチだってそうだろうし、試験や面接だってそうだろう。大きな商談もそうなら、クレーム処理の矢面に立たされるのも大変な緊張とプレッシャーがかかる。だが、人生という試合に登板している以上、緊張とプレッシャーは毎試合、ついて回るものだ。そして、この緊張とプレッシャーからは決して逃げることはできないということをわかっていただければ幸いである。緊張とプレッシャーは、逃げることもできないし、ねじ伏せることもできないが、「友だち」になることはできる。敵対するのではんく、仲良くすることで、励みに転じるのだ。このことを参考までに付け加えておきたい。ドラゴンズのOBと雑談していたときのことだ。OBは僕にこんなことを言った。「俺たちみたに現役を退いたら、2度とあの緊張感のなかではプレーできないんだぞ。あの緊張感があるから、野球をやれるんだ」この言葉を聞いたとき、僕は緊張とプレッシャーと「友だち」になろうと考えたのだった。開放はされなくとも、仲良くできるようになったことは確かである。
・仕事は、人生の中で一番長い時間を費やす。その中で生き甲斐を見いだすことが重要だ。そして、オフの時間に仕事を持ち込まず、はっきりと区別することが必要だ。
・絶好調の登板は年間に1試合か2試合あるかどうか。3試合を超えることは、まずない。2年連続で最多勝をとった頃は、ブルペンで投げているときから「今日は絶対勝てる」と思ったこともあるが、そういうのは例外中の例外。むしろ不調の状態を「普通」と思い、それで勝ち星をあげるようでなければやっていけない。それがプロの世界だと思う。
・監督への抗議だから、緊迫した状況になっていた。星野監督が現れ、選手たちと対峙して座ると、ジロリと全員を見回し、「おまえら、罰金が多いとか文句言ってるらしいな。俺が来てから、給料下がったやつ手を上げろ」二軍の選手を含め、誰も手をあげていない。「そういうこっちゃ!」ピシャリと言って、星野監督は腰をあげた。誰も、何も言えない。星野監督の言うとおりだ。落合さんも、しょうがねぇな、という顔をしていた。あとで知ったことだが星野監督は、罰金をキャンプ地の施設のために使っていた。(監督、すげぇ!)これが貫禄の違いかと感激したものだ。それでいて細やかな気遣いもできる。選手の奥さんの誕生日には必ず、花を贈ってくれる。監督から女房に花を贈られて、喜ばない選手はいない。僕の宝物の一つに、星野監督から贈られたスイス製の高級腕時計がある。通算147勝で星野監督の現役時代の勝ち星を抜き、さらに150勝したときだ。阪神との対戦が始まる前のナゴヤドームで、阪神の関係者が「監督が呼んでいます」と告げに来た。そのとき星野監督は阪神の監督をしていたのだが、「監督が呼んでいる」の一言で僕はドキリとした。反射的に「怒られる!」と、すくみあがったのだ。おそるおそる三塁側監督室に入って直立不動すると、「マサ、おめでとう」と笑顔で渡されたのが、その腕時計だった。「星野仙一」と刻印され、150勝の祝福メッセージが添えてあった。フロリダのマイナーリーグへ「島流し」にした監督が、いまこうして祝福をしてくれている。星野監督との出会いがなければ、僕はいま頃何をしているだろうか。感謝してもしきれない。200勝をあげた夜、僕が真っ先に電話をかけ、報告したのは星野監督だった。
・落合さんが監督になられた2004年の前年、チームはやっとの思いでAクラスにとどまった。それくらいの力しかなかったのに、落合監督は「いまの選手の力を10%底上げすればトレードなど補強は必要ない。十分に優勝を狙える」という話をされた。いまの力がどれくらいかを知っている選手はみんな半信半疑だったが、落合さんは決して上から目線で物をいうことはなく、「見守る力」を持ってコーチを信じ、選手ひとりひとりに何をすべきか考えさせて育て、使いきり、見事優勝を果たした。監督が何を求めているかが理解できない選手は決して使わないし、過去の実績があってもレギュラーにはなれなかった。眼力、見る力にかけてはすごい人だ。本当にこれだけ野球の情勢を知る能力を持った指揮官はそうはいない。僕は星野監督に若い頃鍛えられて、ベテランになってからは落合監督の理論を学んだ。落合監督との8年間があったからこそ、僕は200勝できたと思っている。
・悩みや心配事が仕事の足を引っ張るというのは、大いなる誤解か、言い訳である。「一病息災」という言葉があるように、努力を怠らなければ、悩みや心配事は1つ2つあったほうが仕事はうまくいくのだ。僕の場合、故障をかかえ、「ヤバイかな」と心配しながら登板したときは、意外にいい結果が出ている。神経が「心配」のほうに集中しているため、緊張することを忘れてしまっているかだ。従ってリキむこともなければ、緊張に気持ちがうわずることもない。しかも不安を押して登板しているのだから、腹のくくりもある。好投する条件がそろうというわけである。
・こうして振り返ると、本当に素晴らしいキャッチャーに支えられてきた。そして、つくづく思うのは、パートナーというのは、「相手が、自分にとってよきパートナーであるかどうか」ということより、「自分が相手にとってよきパートナーであるかどうか」という視点が大切なのではないか。他人のせいにしてはいけない。
<目次>
まえがき
第1章 続ける
01 こだわる
02 ハードルは自分で設ける
03 置かれた環境で花を咲かす
04 自分に足りないものは何か
05 才能よりも努力を信じる
06 見いだしてくれる人と出会う
07 短所を活かせば長所に変わる
08 「少しずつでも続ける」を心がける
09 指揮官の「一言」は重い
第2章 めげない
10 往生際について
11 終わらない心を持つ
12 「自分のせい」にする勇気
13 人格を磨く
14 どん底にこそチャンスがある
15 遊びも真面目に取り組む
16 恩人が運をつくる
17 努力は裏切らない
第3章 変わる
18 恩義と感謝を忘れない
19 「引き出し」を持つ
20 イメージでメンタル習慣をつくる
21 変えていいもの、いけないもの
22 試す心
23 進化する心を持つ
24 趣味に学ぶ
25 「自分に何ができるか」を考える
第4章 受け入れる
26 自分も他人も責めない
27 黙々とこなす
28 ゲンをかつぐ
29 緊張を「友だち」にする
30 「もし」を封じる
31 好調と不調をコントロールする
32 上司を敬遠せずに、学ぶことを知る
第5章 腹をくくる
33 腹をくくる
34 開き直る心
35 若手を教育するには失敗談がいい
36 ダイヤではなく”いぶし銀”を目指す
37 他人のせいにしない
38 あきらめない
39 人生は、思った以上に短い
あとがき
面白かった本まとめ(2013年上半期)
<今日の独り言>
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