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「映画はやくざなり(笠原和夫)」という本はとてもオススメ!

2015年09月11日 01時00分00秒 | 
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「映画はやくざなり」という本は、平成14年に亡くなった脚本家の笠原和夫さんの映画人生の自伝とシナリオ骨法十箇条などをまとめたものです。

初版が2003年6月と少し古い本ではあります。

最近読んだ「おそめ」の実質的な夫の映画プロデューサー俊藤浩滋さんやその娘の藤純子の話もあり、興味深く当時の映画制作の状況が分かり、面白かったですね。

 特に自分が脚本した映画を試写室で観たときは怒り狂うほど激怒したけど、実際に映画館という一種の熱狂の場で、他の観客と一緒に首を動かしたり斜めにしたりして動き回る画面を追っていると何とも興奮させられ、滅法よく観れたこともあるとは面白いと思いましたね。

それから、映画の脚本に取り掛かる順の説明や、シナリオ骨法十箇条もとても参考になりますし、面白いと思いましたね。

以下に紹介したいと思います。

<脚本の行程>
(1)コンセプトの検討
(2)テーマの設定
(3)ハンティング(取材と資料収集)
(4)キャラクターの創造
(5)ストラクチャー(人物関係表)
(6)コンストラクション(事件の配列)
(7)プロット作り

・以上、7項目をクリアしていって、脚本家は初めて原稿用紙に向かって書き出せるのである。もっとも、頭の中では始終、あっちを計算したり、こっちをひねったりしているから、必ずしも毎回この順番通りに成立するわけではない。くれぐれも、いきなりプロット作り(ストーリー)に入らないことだ。私の商売往来から言って、わざわざ回り道をしてみようという気を起こした方が、結果はいいようである。急いで片づけて金を稼ごうって気になったら、その瞬間から迷路にはまってしまう。回り道というのは、コンセプトやテーマを仲間と何度も話し合って確認し、モチーフに関する資料をよく読み、背景に使う土地に出かけたり、ひとに会ったりするという、地味でオーソドックスな道である。だいたい失敗した映画というのは、プロデューサーも脚本家もそえぞれが考えていることがマチマチで、すれ違っている場合が多い。すると、まとまりの悪い、狙いのぼやけた映画が出来上がってしまう。映画の発想というのはイメージ勝負だが、イメージというのはプロ同士が一緒に仕事していても、なかなか相手に伝わりにくいものなのだ。細かいところまで、八方手を尽くして、互いの意図するところを呑み込んで置かなくてはならない。コンセプトを固め、テーマを押さえ、資料をあたる。すなわち番号で言えば(1)(2)(3)がとりわけ重要になってくる。

・(1)コンセプトの検討
コンセプト=戦略と呼んでもいい。戦略というのは、一言で言えば映画の有りようを考えることである。映画をとりまく様々な状況、時世時節の流れを踏まえ、その中で、どのように映画を成功に導くのか-このグランド・プランを設定するのが、脚本の最初の作業である。

・自分自身のテーマのほかに、監督の個性との調和、主演助演の各俳優の見せ方、製作母体のカラー、時流のテンポ、そして興行価値の見通し等々、ストーリーを作る以前の難問は山ほどある。簡単な例を挙げれば、大作の構えで大ヒット大入満員を狙うのか、興行はそこそこの当たりで俳優の売り出しを狙うのか、興行はトントンでも批評家受けしてベストテン入りを狙うのか、はたまた新しい観客層の発掘を狙うか、従来の観客層に訴えるか、といったことだ。そうしてヒットする映画とは、このコンセプトが効果を発揮した場合であって、決して目新しいストーリーのせいではない。ストーリーなどというものは、もう何十年も前に、考えられ得るものはすべて出尽くしたと、ハリウッドの誰かが言っている。コンセプトこそが映画のキモであり、それを考案する脚本家はいわば戦争における「作戦参謀」である。脚本家は自らの芸術を追究するのが仕事ではなく、自らも参加した作品の「芸術度」と「商品度」を冷静に算定するのが最大の任務である。

・(2)テーマの設定
コンセプトが確定したら、それに沿って、どういうメッセージを観客に伝えたいのか、自分の「観念」を固める。言うまでもないが、この「観念」=テーマを直接、人物のセリフやモノローグ、ナレーションで表出するのは邪道で、脚本としては下の下である。テーマは、きちんと構成が組み立てられたドラマの中で、観客に以心伝心されてゆくべきものだ。そして、なるべく単純明快に観客に伝わるように、「観念」を整理し強靱なものにする必要がある。最も深遠な内容を、最も簡単な形で受け手(観客)に伝達するのが、あらゆる芸術の基本命題である。テーマを観客に伝えるためには、多彩な大なり小なりの<事件>やエピソードを考案して、各人物がそれにどう照応するのか、を克明に描き分ける必要がある。

・(3)ハンティング(取材と資料収集)
コンセプトが固まり、テーマの方向も見えたら、次は脚本の具体化に向けて、可能な限りのデータを揃える。モデルとする土地や人物の調査に旅をすることをシナリオ・ハンティングと呼ぶが、その他、入手あるいは閲覧可能な文献も集めて、裏付けの資料を獲得しなければならない。このあたり、料理人がネタを仕込みに市場を駆け回って探す努力と何ら変わりがない。仕込みのネタが悪かったり、新鮮なものでなければ、良い料理が出せず、店の評判が落ちるだけだ。取材・資料収集が成功するかどうかで、作品の運命は決せられるのである。その土地の空気を吸うだけで書くものが違ってくるのだから仕方ない。古い神社に寄って、石垣の裏に彫られた寄進者の名前を見るだけで、その土地の特徴ある名前がわかる。そんな細部を知ることで、ふと何かが見えてくることもあるのだから。また、方言でセリフを書く必要がある時は、その土地の古本屋で、代表的な方言を抜き出すのに使いやすい地方出版物を入手しておくのも後で大いに役立つだろう。

・この手の面接取材の場合、テープやメモを使うのを許されたとしても、「必要な時に再生すれば(見れば)いいや」とそのまま放ったらかしにしておくのは、致命的な怠慢である。取材した事柄は記録するためのものではなく、創作に向けて、おのれの頭脳を耕すのに必要な肥料である。だから、テープに頼るにせよ、メモを取るにせよ、必ず自室に戻ったらノートに整理し直さねばならん。そうすることで、取材の際には聞き流していた意外に重要なポイントが見つかったり、また、取材相手の発言が前後で食い違っていることがわかったりして、そこから<行間を埋める創造>の端緒がつかめるのだ。実際に自分の手で書き直した記録は頭の中にしっかりと組み込まれて、いつでも発想の素として活用できるようになる。また資料を表にまとめておくと、書いてる時に疑問が出てきたり、行き詰まった時にそれを見ると、新たな発想が出てきたり、転換ができるものなのだ。歴史的な素材を扱う場合などは、当時あったことを同時並行で書くことが多く、その際、年譜があれば、この事項をはずして、別のものを使おうということも可能になる。創作というものは本来、そういうものであって、決して夢みたいな話を原稿に移すことではないのだ。データを頭にしっかりたたき込んでおいて、そのデータを駆使しながら話を積み上げていくのが本当の創作だと、わたしは思う。わたしは映画会社から「期限を守らない資料変執狂のライター」と目されてきたが、緻密かつ克明に、粘り強く収集され整理された資料は、作家の最大の財産なのだ。ただ、これは声を大にして忠告しておくが、取材・資料収集は大いにするべきだけれども、要諦はその集めた資料の取捨選択である。これには脚本を仕上げる全行程中、一番時間がかかる。資料を読み込んでいると、必ず資料のすき間が見えてくる。こう来た以上、あっちへ行くはずだったのに、なぜこっちへ転んだのかー資料には書かれていないすき間を埋めるのが、われわれ作家たる所以だ。資料のすき間をこちらの創造(想像)力で埋めていきつつ、捨てる材料は思い切りよく、捨てなければならない。資料と資料のすき間を煮詰めるうちに、材料のデフォルメの方向性も見えてくる。脚本執筆に向けて、だんだん頭も身体も熱くなってくる。

・(4)キャラクターの創造 (5)ストラクチャー(人物関係表)
この二つは幾分重なっている。おおざっぱに言えば、キャラクター間のアヤをつけるのがストラクチャーである。(1)から(3)までの段取りを着実に踏んでくれば、もう作者の頭の中では、おおよそのストーリーが見えているものだ。しかし、ここですぐストーリーの曲折に腐心すると、人物がストーリーの都合のいいように作られてしまい、引っかかりのないノッペラボーなドラマに堕してしまう。これを避けるためにキャラクターをしっかり立てなければならない。そこでまず、主人公や2、3のメインの人物の履歴書を作る。出身地や家柄、生家の家族事情、学歴、職歴、性格、趣味、特技・・・。併せて、その人物が経てきた時代の事件、世相、流行、ついでに流行歌やヒット商品など、いかなる興信所も顔負けの、できるだけ細密かつ詳細な履歴書を作成する。この履歴書があれば、脚本執筆の途中で迷いや停滞が生じたとしても、人物の進むべき道はおのずから明らかになっていく。しかし、人間は多面体の存在であり、ガチガチに固めた履歴書にのみとらわれるのも考えものだ。人間は、ジキル博士とハイド氏のような全く違う顔を見せる場合もあるし、予想外の行動に走る時もある。こうしたことはドラマに新しい緊張を生んで、弾みがついてくるので、そうしたフレキシブルな把握の仕方が必要である。だが、幅のある人物の把握も、最初に履歴書がしっかり作られていてこそ可能になる。出来上がったキャラクター群を踏まえて、ストラクチャー作りに移っていく。ドラマは葛藤であり、葛藤とは、誰かと誰かの争いである。この争いがどこから始まり、どう変化し、どのような形で終わるのか、そしてこのメインの人物たちの争いに、脇の人物たちはどう関わり、どんな影響を与えたのか、またサブ・ストーリーはどう関連しながら進行するのか-こうしたことを配慮しつつ、各キャラクター間の関係を掌握していくのがストラクチャ作りである。ストラクチャー(構築、の意)が弱いと、ドラマを引っ張っていくべきサスペンス(吊り上げていく、の意)が効かず、ダラダラした印象になる。ストラクチャーはなるべく複雑で多彩に組まれた方がドラマを面白くするが、当然のことながら、構築された人物関係は終局においてメインの葛藤の結末にきちんと収斂されていかねばならない。「出しっ放し」ではいけない。麻雀で最初はチートイツを狙っていたのが、集まってきたパイによって手を替える-パイを集めるのがキャラクターを立てる作業、手を決めるのがストラクチャー作り、そんなふうに言えるだろうか。わたしは、ストラクチャーを考えている時が、苦痛の多い脚本を書く作業の中で、一番楽しかった。

・(6)コンストラクション(事件の配列)
ストラクチャーが横の人間関係とすれば、今度は縦の流れを組み立てていく。要するにコンストラクションは、思いついた大小の事件を、(1)から(5)までのデータを参考に、順を追って並べていく作業だ。この並べ方は、俗に言う「山あり、谷あり」のリズムを心がければいい。もう少し細かく言えば、ドラマ構成上、「起・承・転・結」の4区分に分けて組み、それぞれの区分の中でヤマ場やクライシス(危機)等のリズムを刻んでいく。このリズムは「序・破・急」になっていなくてはならず、絶えず変化と上昇に留意する。そして何より重要なのは、次第に「結」、つまりラストに向かってテンションが高揚するように運ぶことである。また、どういう芝居を見せるかを留意しなくてはならない。主役が歌を唱うでも、この役者に得意の啖呵をを切らせるでも、そこから逆算して話を膨らませるのがいい。一番悪い例が、勝新太郎氏の映画で、彼が考えている芝居はなるほど面白いのだが、全体の大きなテーマに結びついていかない。だから映画が小芝居の連続みたいになってしまう。コンストラクションでとくに気をつけなければならないのは、「画を抜く」部分を忘れないことだ。映画は「画」を観せるものなので、応接間や喫茶店でセリフをやり取りするシーンは、とかく詰まらなくなりがちである。やむを得ずそうしたシーンが重なった時は、パッと戸外の風景に転換して、飽きやすい観客の目を開かせることだ。これを「画を抜く」という。祭礼や集会、乱闘等のマス・シーンも映画の得意とする表現なので、そういったシーンもコンストラクションの中に用意されていて然るべきであろう。ただ、このコンストラクション通りにできあがった脚本は詰まらないものでしかないし、作品世界にノッて書いている時は、必ずコンストラクションとは違ったものができあがる。どこかで弾けないと、活きた映画にならないのだ。(4)(5)(6)の各項目、すなわちキャラクターを立て、ストラクチャーを作り、コンストラクションを組み立てる際しては、いろんな型や手筈を頭に入れておくのが最大の武器となる。東映の宣伝部員だったわたしが、「脚本を書いていきたいんです」と打ち明けた時、マキノ光雄専務が「なら、君、勉強しろよ。三遊亭円朝全集と「仮名手本忠臣蔵」と新喜劇(曾我酒家五郎劇集)を買って読め」と教えてくれたのは、このことを指す。後年、戦前の「キネマ旬報」を一揃い買い込んで、当時のギャング映画の粗筋を書き写し、分類・分析したこともある。

・(7)プロット作り
コンストラクションを基に、ついにプロット作りに入る。プロットはストーリーのロジックを読み手に正確に伝えるためのもので、余計な情緒的修飾は不要で、何がどうして、何がこうなっただけを書けばいいのだか、通常、ペラ(200字詰め原稿用紙)10枚に収める。この枚数に収まらない場合は、作者がストーリーを把握していないか、あるいはストーリーに冗漫な部分があるということで、逆に10枚に達しない場合は、土間の組み方が浅い、話が足りないということがわかる。この作業は、ドラマ全体を把握するために不可欠なものだ。つい書き手が見失いそうになる、「コンセプトは何か?テーマは何だったか?ストーリーの種類は何か?ヤマ場の盛り上げの手順はどうか?」といったことを大掴みに再確認できる。馬に食わせるほど脚本を書いてきたベテランになると、⑥まで辿り着いたら、自然と頭の中にプロットが出来上がっているだろうが、新人は必ずプロットを書くべきだ。思わぬ落とし穴を見つけることもあるだろう。そして書き上げたプロットはなるべく多くの人に読んでもらおう。そして、彼らの意見を大事にすることだ。自分の書いたドラマに対して客観的な視点を持つことは、当の作品の手直しだけでなく、次回昨を書く際にも役立つ、明晰な判断力に繋がるのだから。

・そしていよいよ脚本に取りかかるわけだが、ここでも急いではいけない。プロットまでの行程は冷静な頭でいなければならないけれど、ここから先は、冷静なままでは一行も書けやしない。ドラマというのは正気の沙汰の人物の話ではない。こっちの頭も狂ってこなければ、セリフ一本、らしくは書けない。だからブラブラしはじめる。来る日も来る日も酒くらって寝ることを続けたりもする。プロデューサーやカミさんは「怠けてる!」と目尻を吊り上げて追ってくるけれど、こっちは頭が狂い始めているのだから馬耳東風、柳に風、ぬかに釘、蛙の面にナントカ、てんで相手にしないことだ。さあ、ほどよく狂ってきたと判断したら、書き始める。一気呵成い、筆の赴くまま、自分の好きなように、ペラ70枚(映画の脚本は大体230枚ほどが目安だ)まで書いてみる。書き出しというのはいつでも五里霧中なものだ。「こんなにゆったり書いていて、全体が230枚に収まるかな」とかペース配分の不安もあるし、一度に初めからエンド・マークまで書こうとすると肩がつってしまう。また、戦争と同じで、実際に戦地に出てみなkれば、こっちの弾がどこまで飛ぶか、敵はどこからぶっ放してくるか、わからないことも多いのだ。私は70枚まで書くと、頭で考えていたことのボロも見えてくるし、そこで一旦休む(似たことをする同業者は多いようである)。二日ほど休んでから机の前に戻ってくると、それまで書いた70枚を読み返して、おもむろにゴミ箱に捨てて、また冒頭か書き始める。人間の頭というのは不思議なもので、同じファースト・シーンから書き始めても、再び70枚目になる頃には相当変わってくる。頭が切り替わり、内容がよくなってくる。えいやっと、今度はラスト・シーンまで馬車道のように書く。事ここに至ってはもはや、「鬼」になるしかない。戦争が起ころうが、不景気で会社がいくつ倒産しようが、人種差別がいっかな止まなかろうが、この世のこと一切は徹底的にワレ関せずでいく。女房が出て行こうが、愛人が怒鳴り込もうが、子どもが泣き叫ぼうが、気にしちゃいけない。この一本書き終えたら「死んでもいい」と思って、夜に昼を継いで、時間はメチャクチャ、曜日も定かならず、酒はあおる、タバコはひっきりなしに吸う、マスはかく-当然、身体はボロボロ、と思いきや、不思議なことに、こんな生活でも身体は快調そのものになる。病気でもして〆切をを延ばしたいと願っても、風邪ひとつひかない。そんなもんだ。ただラスト近くに至って、高熱を発することがある。40度の高熱にうなされ、布団の中で震えながら書き上げたものだった。これは「ドラマ熱」の作用と思われる。自分が構想し構築したドラマの重さや激しさに、自身が耐えられなくなって、生理に変調を来たすのである。だが、ドラマのクライマックスというのは、作者自身が非日常の熱に浮かされるような状態にならないと、イメージがすべて嘘八百に見えてきて、一言半句も書けなくなってしまう。その<熱>が度を超すと、頭の中で内攻するだけでは止まらず、肉体にも取りつくのだ。<熱>が取りつくほどになれば、もうセリフもどんどん出てくる。この「ドラマ熱」を冷ますには、エンド・マークまで書き上げることしかない。試したことはないが、クライマックスでドラマを投げ出した場合、長期のスランプに陥るか、二度と書けなくなるのではないか。何もないところからドラマを出すというのは、それほど恐ろしい作業なのである。

・この原稿用紙の桝目を埋める段階で、ようやく「骨法十箇条」の出番がやってくる。観客の関心を逸らさないために、撮影所の伝統が生み出した、娯楽映画のコツである。小説と違って、脚本は切れ味勝負で、言ってみればとっさの技の連続みたいなものだ。若ければ反射神経も発達しているし、馬力で何とかしのげる場合もあるだろうが、弱ったり疲れたりした時はつねに基本に戻ればよい。それがすなわち骨法である。われわれは、この十箇条を使って脚本を進めるわけだ。いや、「使う」なんてのは、まだ尻の青いシロートの範疇で、骨法十箇条くらいは無意識に繰り出せるくらいじゃないと、プロの脚本家でございと看板を上げられたものではない。さてその骨法というやつ-これはパターンではない。パターンは時勢に沿って止揚し、あるいは変革しなければならないものだが、「骨法」は千古不易である。天の岩戸の前で踊ったあまのうずめのみことの舞も「ターミネーター」のシュワルツェネッガーの迫力も、同じ骨法に沿っている。

・骨法その1。「コロガリ」
転がり、である。英語で言えばサスペンス。これからなにが始まるかと客の胸をワクワクさせ、引っ張り出された糸がもつれたりほぐれたり絡んだりして、最後は初めの糸にキチッと収斂されて大空高くたこが舞い上がる、という展開の妙をいう。「コロガリ」の一番大事な点はトッパナの糸の引き出し方にある。つまり、なんの話か、ということを端的に示唆しなければならない。不自然な展開や御都合主義による話の運び、あるいは脇の筋に深入りした場合は「コロガリが悪い」と評される。また、立て板に水のように本筋だけが先へ先へと進んでしまうのは「コロガリ過ぎる」とクサされることになる。「コロガリ」は、観客との間で適当に駆け引きをしながら、意表を突くカードを次々に見せていくのを最良とする。さらに大事なのは「出」のテンポである。すなわちドラマのファースト・シーンをどのように印象強く提示するかは、その後の「コロガリ」を観客に納得させるための重要なファクターとなる。イスに座ってまだ落ち着かない客の横ッ面をひっぱたいてでも、映画の空間に引きずりこむ腕力と速さがなければいけない。突然のアクション・シーンであっても、説明はあとでいくらでも容れるところがあるから、思い切った衝撃的シーンを真っ先に持って来るべきだろう。また、「役」の「出」ということも一考しなくてはいけない。そのドラマに初めて登場する主役、および何人かの主要人物は、それぞれの最初のシーンの芝居が引き立つように書かねばならないのである。高名な某俳優など、「出」が冴えないと、その時点で脚本を読むのをやめる、つまり出演を断るそうである。

・骨法その2。「カセ」
主人公に背負わされた運命、宿命、といったものである。「コロガリ」が主人公のアクティブな面を強調するものであるのに比べて、「カセ」はマイナスに作用するファクターとなる。分かりやすい例でいえbが、泉鏡花の「義血侠血」のヒロイン滝の白糸が苦学生村越欣弥に寄せる恋慕である。その恋慕ゆえに白糸は罪を犯し、それを裁くのは学業を終えて検事となった欣弥その人であった。この白糸の身分違いの恋(欣弥は当時の特権階級たる士族の出)が「カセ」であり、そこから生ずる波乱が「アヤ」である。適切な「カセ」が設定され、「アヤ」が効果的に効いたドラマは、文句なしに面白い。ドラマの楽しさは「アヤ」にあるのだが、「アヤ」を生むのは適切な「カセ」であることを忘れてはいけない。ただし、技術的に一番難しいのは、この「カセ」である。「カセ」が凡庸だと、「アヤ」もちゃちなパターン・ドラマに終わってしまう。

・骨法その3。「オタカラ」
往年の名活劇「丹下左膳」の中で、敵味方の間を往ったり来たりする「こけ猿の壷」を指す。歌舞伎においても、御家重代の宝剣の行方をめぐって劇が進行する、なんて例は多々ある。主人公にとって、なにものにも代え難く守るべき物(または、獲得すべき物)であり、主人公に対抗する側はそうさせじとする、葛藤の具体的な核のことである。サッカーのボールを思えばいい。これが絶えず取ったり奪われたりすることで、多彩に錯綜するドラマの核心が簡潔明快に観客に理解される。とりわけアクション・ドラマの場合には「オタカラ」は必須である。

・骨法その4。「カタキ」
敵役のことである。「オタカラ」を奪おうとする側の者である。メロドラマにおける「恋(色)敵」などもこれに当たる。ただし、一目見てすぐ<悪>だとわかるような「カタキ」は、時代劇ならともかく、現代劇では浮いてしまうだろう。内面的なこと、トラウマや劣等感、ファザー・コンプレックスなど、内部から主人公の心を侵害するものでも「カタキ」になりえる。

・骨法その5。「サンボウ」
主君織田信長からさんざん屈辱を受けた明智光秀が、主命によって高松城水攻めの羽柴秀吉の援軍として出陣する際、首途の杯を前にして、不意に三方(サンボウ)を逆さに打ち返し、「敵は本能寺(信長の宿舎)にあり!」と叫ぶ場面に由来する。「正念場」ともいう。ドラマを人体に見立てた場合、その目をまさに画きこむところである。進退ギリギリの瀬戸際に立った主人公がその性根をみせて、運命(宿命)に立ち向かう決意を示す地点であり、これがないと、そこから先のドラマは視界ゼロの飛行になって、どこに着くやら観客には見当がつかなくなってしまう。複雑多彩に膨れたドラマの中心部でこの「サンボウ」の芝居をつけることで、ドラマがどちらを目指しているのかを観客に気づかせることができる。客の心臓をモロ掴みにして、有無を言わさずドラマの道連れにしてしまうのが、「サンボウ」の重要な効用である。

・骨法その6。「ヤブレ」
破、乱調である。どんなスーパーマンでも、一度は失敗やら危機やら落ち目に出くわさないと、観客からみて存在感が希薄になるものだ。失意の主人公がボロボロになって酒に溺れたり暴れたりする芝居は、役者にとってもやり甲斐のある見せ場となる(主演スターの持ち味によっては、きれいごとで済ませる場合もあるが)。

・骨法その7。「オリン」
ヴァイオリンのことである。むかし「母もの映画」というヒット路線の映画が多産されていた頃、母と子の別れの場面にはヴァイオリンをかき鳴らして観客の涙を誘ったものだった。それで、感動的な場面のことを「オリンをコスる」と呼ぶようになった。「オリン」の設定は、「ヤブレ」のあと、次の「ヤマ」の一歩前あたりが適当であろうか。

・骨法その8。「ヤマ」
俗にヤマ場、見せ場という。クライマックスである。ここでは本筋、脇筋を含めたあらゆるドラマ要素が集結し、人物たちは最大限に感情を激発させ、衝突し、格闘し、一大修羅場を呈することになる。いわば「ヤマ」は観客が抑制してきた興奮の発酵を、ここぞとばかりに空に向けて一気に解き放つもので、何より作者自身がまず感動し、我を忘れるようなボルテージの高い場面にしなくてはならない。

・骨法その9。「オチ」
締めくくり、ラスト・シーンである。オチには、観客の予測と期待通りに終わる場合と、観客の予測に反しながらも、期待は満たして終息する場面の二種類がある。ミステリーのラストはたいていが後者で、メロドラマは前者の場合が多いだろう。予測できて期待はずれ、予測できなくて期待も満たされない、そんなオチが厳禁であることは言うまでもない。ラスト・シーンは、そのドラマが装うさまざまな衣装の中で、もっとも華やかで美しく、高貴な香りを湛えた百万ドルの衣装でなくてはならない。作者は、ここでは思い切り楽しみつつ、細心で丁寧な気遣いを持って書き上げなくてはいけない。

・骨法その10。「オダイモク」
つまり、お題目。テーマである。書き始める前に定めたテーマ(前述の(2)にあたる)と、こうして実際にドラマを書き始めてきた処で湧き上がってくるテーマとの間に、差異が賞ずる場合がある。そんな時は、当初のテーマは観念的なものとして捨てた方が得策だろう。ドラマを書くことを通して掴んだテーマの方が血が通っているものだ。そして脚本を書き上げたところで、さて、自分が観客に伝えようとしたテーマは充分に示されただろうかと、もう一度「オダイモク」を唱え直して検証することが肝要である。お題目はハッキリ唱えなきゃ宗旨が分からない。宗旨が分からなければ説教したって無駄である。お題目をハッキリ唱えるにはご本尊様に正対しなければならない。つまり思想なり情念なり美意識なりが向かってゆくもの、ターゲットがキチンと捉えられていなければ、テーマはテーマとして成り立たない。一言で言えば、「志」がなければならない。映画は、どんな娯楽作品であろうとも、志をもって創るものだ。わたしはそういう世界で今日まで生きてきた志なんて言うとどうも人生訓話みたいでよろしくないが、「切実なもの」と呼び換えてももいい。

・アメリカ映画が日本はもちろん、ついに世界中を制覇したのは、彼らがつくる作品にはどれにも通俗的な骨法がキチンと仕込まれているからだ。だから大衆の支持を受けるのである。脚本のみならず、小説、絵画、音楽、すべて芸術と名のつくものは、丹念な調査と緻密な計算の末に、一見無造作にもみえる一行の文、一節の音、一筋の線を生み出すものである。作為がないのが今ふうだと称して、雑駁な人間が雑駁なまま放り出したものは、それこそ無造作どころか下劣な作為そのものである。運、とか、才能、といったものは自分自身ではどうにもならない。唯一、武器として持てるのは、「忍耐」のみだ。脚本家は「忍耐」を売り物とする職業である、というのが、わたしの40年近くの経験から得た結論である。脚本製作は、たった一人で造船所のドックに腰を据え、竜骨を敷き、肋骨を組み、鉄板を張り、機関を設置し、歳月を忘れて打ち込むうちにやがて精強な一隻の軍艦を建造していくようなものである。オリジナル・シナリオの執筆で、これまで述べてきたような段取りをきちんと守った場合、最速でも半年はかかるだろう。根気強く情熱を燃焼させ続けられる者のみが、われわれの仲間となる。

・脚本でメシを食えるか、食えないか。つまりプロとアマの差は直しの注文に応じられるか否かにある。かつて、わたしのところにも習作を持って弟子入り志願してくる若者がずいぶんいたが、一読して、直して来いと言うと、まず、直して来ることはなく、そこでもって、ご縁が切れてしまうこと、しばしばであった。しかし、直しができない人間は絶対にプロにはなれない。確かに監督なり、プロデューサーなりの意見を取り入れて直すということは、恐ろしく辛いことである。もちろん、直して脚本が悪くなってしまうこともあるが、概して、経験のあるプロデューサーや監督ならば、みんな、そこそこのことは分かってるわけだから、そう間違ったことは言わないものだ。おかしい、こんなことでいいのか、と思うことは、当然あるが、そう思いながらも直してみると、案外、映画ができてから初めて、その理由がわかるということがある。直しの注文に応じられず、短気を起こして、原稿を破いてしまったら、脚本家はそこでオシマイである。脚本家に一番必要なのは、そこを我慢して直す忍耐力なのであり、この忍耐力こそが、脚本のプロであることの絶対条件である。ヘタな文士気取りで自分の脚本は一字一句直しませんなどと構えるのは噴飯物であって、脚本家というものを、作戦参謀だと考えれば、直しの注文なんていくらでも受けられるはずである。現場の指揮官=監督から進言されれば、なるほどそうですか、じゃあ考えてみましょう、となるのだから。

・脚本は生業である。自分と家族が食べていくための商売である。そのためには、それ相応のギャランティを得なければならないが、ギャランティを決めるのはプロデューサーである。従って、脚本家は、そのギャラで何日、何ヶ月先まで食べていけるのか、常に計算しながら執筆期間を決め、それをオーバーしないようにする。ところが、それを少しでも引き伸ばそう、引き伸ばそうとする人種がいる。監督である。監督といいうものは、己の作品のためなら、他人のことなどお構いなく、粘ろうとするものである。そのような事態になってしまった時はどうすればいいのか?撤退する作戦を考えることである。いかにして、企画をぶち壊すかと、あらゆる知恵を振り絞って考えるのだ。監督とまともにつきあっていては、メシは食えない。

・脚本を書くうえで、自分のカラーを出すことは、その時の運と腕次第であるが、カラーを出すにも、それなりの知恵が必要だ。概して、今の若い人は、最初から自分のカラーをプロデューサーや監督に押し出して真正面から衝突してしまい、潰されてしまうことが多い。しかし、正面からぶつかる前に、裏側から情報を探るなり、相手の性格を読み取るぐらいのことは、やって欲しい。そして、まず、最初は自分がやりたいことを言ってみる。向こうが渋い顔をしたならば、その時には相手の言うことを全面的に聞く。要するに二枚腰、三枚腰で交渉するのだ。そういう、押し引きの挙げ句、土俵際で勝負をかける。そして、それが土俵際であることは相手に見せない。隠し玉を持ち、土壇場でもって相手を裏切るわけだ。脚本家たるもの、この裏切りの腕前も磨かなければならない。

・シナリオライターというのは、いうなれば航空機のパイロットみたいなものである。航空機の世界の技術は日進月歩で、毎日毎日飛んでいないと操縦の方法が分からなくなる。変化に対応していくためには、毎日、操縦かんを握っていなければならない。シナリオもそれと同じで、このシーンの次はこうすればいいといった技術的なことは分かっても、感性的にこれではダメということがある。常に現実社会と接触して、現場で切磋琢磨していないと、そういう感性は劣化してしまう。だからシナリオというのは、一遍離れたら、もう書けないものだと思う。一旦、飛ぶことを止めた脚本家は、酒とバクチに走るしかなくなってくるのである。

・書き終わったホンのことはさっさと忘れた方がいい。成功も失敗も関係ない。元気だった頃のわたしは、一本書き終わったら、千駄ヶ谷の宿に寿司の出前を5人前くらい取って、女を呼んで、食って、イタシテ、寝て、起きて、また食って、イタシテ、酒を浴びるほお呑んだ。ふらふらと宿から出て黄色い太陽を見上げて、それで全てを忘れるようにした。結果については、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、と思っているのが一番無難だ。この世界、60%も成果があれば上出来としなくてはならない。

・骨法などにとらわれて、自分の「切実なもの」を衰弱させてはならない。わたしも駆け出し時代は、2、3日徹夜して一気に一本仕上げたものである。骨法なんて、まだ考えもしなかった、知りもしなかった。それでちゃんと映画になったし、商売にもなった。その中で腕も磨かれたし、感性も鋭くなったと思う。若い人はガムシャラにどんどん書くことである。これだけ映画もテレビもその他もあって、映像の氾濫している時代なのだから、誰だって映像のおおまかな流れ具合は頭に入っているだろう。書くための予備知識はそれで充分。あとはただ書くことだ。大事にしなくてはいけないのは骨法などではない、体の内側から盛り上がってくる熱気と、そして心の奥底に沈んでいる黒い錘りである。

良かった本まとめ(2015年上半期)

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