前回に引き続き、阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第4回目の神奈川宿~保土ヶ谷宿~東戸塚の(4)権太坂・境木等編について紹介したいと思います。
それから、いよいよ権太坂を登り始めます。
ガイドさんからは、断念するなら、帰りのバスがある今ですよと何度も言われます。
それほどきつい坂のようで、結局この日も二人ほど断念したようです^_^;)
その権太坂は、東海道を江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい登り坂だったようです。
この権太坂で行き倒れた人を投げ込む「投げ込み塚」があったほどです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/45/a61bca17dfe91dd0deb8f8298da1fa5d.jpg)
↑いよいよ権太坂を上る
横浜新道の上を渡るのには驚きました!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/00/e6d7ccc16744d92c702ee342165da3ac.jpg)
↑横浜新道の上を通る
この権太坂の名前の由来は2つあるようです。
一つは、ある旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名前を尋ねたところ、自分の名前と勘違いし、「権太」と答えたことから「権太」坂となったという説です。
もう一つは、「権左衛門」が代官の指図によって拓いた道を「権左(ごんざ)」坂と呼ばれ、それがなまって「権太(ごんた)」坂と呼ばれるようになったという説です。
いずれにしろ、人の名前が坂名になっているとは珍しいですよね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/b7/4a89552ed89e3d792d353c93fd03a788.jpg)
↑権太坂の説明
そして、権太坂を登り終えると、境木立場跡がありました!
権太坂は、ゆっくり歩いたということもありますが、普通にウォーキングできる方であればあまり心配する必要はない坂だとは思います。
自転車で箱根を越えた経験がある自分としては、自転車を降りて歩いて越えた箱根と比べれば権太坂は大したことはない坂だと思います^_^)
ただ、このツアーは高齢者が多いウォーキングなので、みなさんが箱根を越えることができるかかなり心配です^_^;)
それで、「立場」とは宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のために設けられた場所とのことです。
この境木立場は、西に富士山、東に江戸湾を望めて景観が素晴らしく、またここの茶屋で出す「牡丹餅(ぼたもち)」は名物として賑わったようです。
なお境木というのは、昔は木の杭が立てられていたので境木というようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/85/8b342c254f969b5d6776cff9fb38f958.jpg)
↑境木立場跡
それから武相国境モニュメントがありましたね!
武蔵国と相模国の境だったようです。
今の東京都と神奈川県の県境とはかなり違いますね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/e4/6f2f539b9b5938f2d71c2cb8d883c2ab.jpg)
↑武相国境モニュメント
それからそのすぐ近くに、境木地蔵尊がありました。
江戸からの講中や道中の安全を祈る旅人が多く参拝したようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/ba/204b65ff78f119b89d7db6959faa892c.jpg)
↑境木地蔵尊
この地蔵には面白い言い伝えがあるようです。
この地蔵は元々は荒れた鎌倉の海を流れ着いてきたもので、鎌倉の漁師の夢枕にこの地蔵が立ち、「江戸へ連れて行ったら鎌倉の海を守ろう」と告げたので、鎌倉の漁師たちが地蔵を江戸に向けて運んだのですが、この境木でどうしても動かなくなったようです。
地蔵は「動かなくなったらその場においても良い」と告げていたので、漁師たちはそのまま境木に地蔵を置いていったようです。
ちなみに、それから鎌倉の海は、地蔵のおかげで静かになったようです。
そして今度は境木の人たちの枕元に地蔵が立ち、「雨避けにお堂を立ててほしい」と告げたようです。
それに困ったのは境木の人たちで、お堂を立てようと坊主が江戸に行ってお金を集めると、すぐにお金が集まったようです。
しかし、坊主はすぐにそのお金を使い込んでしまったようです。
(当時は吉原で使い込んでしまったのでしょうか・・・^_^;))
仕方がないので、坊主はもう一度江戸でお金集めをしますが、これもまたすぐにお金が集まり、今度は立派なお堂を立てたようです。
そのおかげか、その後は境木はかなり栄えたようです。
それで、この地蔵尊は「お金がすぐ集まる地蔵」として、お金持ちになりたい人が大勢参拝のために集まり、大人気となったようです。
手水舎の石の右側には「江戸 新吉原 講中」奉納とあり、吉原の人たちが寄贈したようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/e9/aa16bf9364519375ca945c6be8c1e573.jpg)
↑手水舎の石
それほど江戸では、この境木地蔵尊が大人気だったということが窺えます。
また、やはり坊主が最初に使い込んだのは「吉原」だったのでしょうか^_^;)
それから焼いた餅が売られて有名だった焼餅坂を通り品濃一里塚に到着しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/03/b6921a999eea71cc5f09907cf6745916.jpg)
↑焼餅坂の案内
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/7b/2dba83dc2d4d5efd8336f2a31f98cccd.jpg)
↑品濃一里塚
品濃一里塚は、うっそうと繁る木々の中にありましたが、神奈川県内でほぼ完全な形で残っている唯一の一里塚とのことです。
なお、一里塚には、五間(約9m)四方の塚が造られ、塚の上には榎木や松の大木が植えられたようです。
夏には木陰を作り、冬には寒風を防いでくれるため、旅人にとっては格好の休憩場所だったようです。
この日も、猛暑にも関わらず、確かに涼しい風が流れていました^_^)
さすがです!!
そのうっそうとした木々を過ぎると、巨大なマンション群が見えてきて、東戸塚駅近くへ到着です!
この変わり様には驚きですね^_^;)
集合場所の公園に到着し、いつものようにハンコを押してもらいます!
今回も東海道五三次のウォーキングは楽しく、歴史などの勉強になりましたね!
また、この続きを紹介したいと思います!
次回は、東戸塚~藤沢宿 (1)品濃坂上~鎌倉ハムです。
お勧めなお話(2015年上半期)
自動車保険を安く!
<今日の独り言>
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それから、いよいよ権太坂を登り始めます。
ガイドさんからは、断念するなら、帰りのバスがある今ですよと何度も言われます。
それほどきつい坂のようで、結局この日も二人ほど断念したようです^_^;)
その権太坂は、東海道を江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい登り坂だったようです。
この権太坂で行き倒れた人を投げ込む「投げ込み塚」があったほどです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/45/a61bca17dfe91dd0deb8f8298da1fa5d.jpg)
↑いよいよ権太坂を上る
横浜新道の上を渡るのには驚きました!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/00/e6d7ccc16744d92c702ee342165da3ac.jpg)
↑横浜新道の上を通る
この権太坂の名前の由来は2つあるようです。
一つは、ある旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名前を尋ねたところ、自分の名前と勘違いし、「権太」と答えたことから「権太」坂となったという説です。
もう一つは、「権左衛門」が代官の指図によって拓いた道を「権左(ごんざ)」坂と呼ばれ、それがなまって「権太(ごんた)」坂と呼ばれるようになったという説です。
いずれにしろ、人の名前が坂名になっているとは珍しいですよね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/b7/4a89552ed89e3d792d353c93fd03a788.jpg)
↑権太坂の説明
そして、権太坂を登り終えると、境木立場跡がありました!
権太坂は、ゆっくり歩いたということもありますが、普通にウォーキングできる方であればあまり心配する必要はない坂だとは思います。
自転車で箱根を越えた経験がある自分としては、自転車を降りて歩いて越えた箱根と比べれば権太坂は大したことはない坂だと思います^_^)
ただ、このツアーは高齢者が多いウォーキングなので、みなさんが箱根を越えることができるかかなり心配です^_^;)
それで、「立場」とは宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のために設けられた場所とのことです。
この境木立場は、西に富士山、東に江戸湾を望めて景観が素晴らしく、またここの茶屋で出す「牡丹餅(ぼたもち)」は名物として賑わったようです。
なお境木というのは、昔は木の杭が立てられていたので境木というようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/85/8b342c254f969b5d6776cff9fb38f958.jpg)
↑境木立場跡
それから武相国境モニュメントがありましたね!
武蔵国と相模国の境だったようです。
今の東京都と神奈川県の県境とはかなり違いますね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/e4/6f2f539b9b5938f2d71c2cb8d883c2ab.jpg)
↑武相国境モニュメント
それからそのすぐ近くに、境木地蔵尊がありました。
江戸からの講中や道中の安全を祈る旅人が多く参拝したようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/ba/204b65ff78f119b89d7db6959faa892c.jpg)
↑境木地蔵尊
この地蔵には面白い言い伝えがあるようです。
この地蔵は元々は荒れた鎌倉の海を流れ着いてきたもので、鎌倉の漁師の夢枕にこの地蔵が立ち、「江戸へ連れて行ったら鎌倉の海を守ろう」と告げたので、鎌倉の漁師たちが地蔵を江戸に向けて運んだのですが、この境木でどうしても動かなくなったようです。
地蔵は「動かなくなったらその場においても良い」と告げていたので、漁師たちはそのまま境木に地蔵を置いていったようです。
ちなみに、それから鎌倉の海は、地蔵のおかげで静かになったようです。
そして今度は境木の人たちの枕元に地蔵が立ち、「雨避けにお堂を立ててほしい」と告げたようです。
それに困ったのは境木の人たちで、お堂を立てようと坊主が江戸に行ってお金を集めると、すぐにお金が集まったようです。
しかし、坊主はすぐにそのお金を使い込んでしまったようです。
(当時は吉原で使い込んでしまったのでしょうか・・・^_^;))
仕方がないので、坊主はもう一度江戸でお金集めをしますが、これもまたすぐにお金が集まり、今度は立派なお堂を立てたようです。
そのおかげか、その後は境木はかなり栄えたようです。
それで、この地蔵尊は「お金がすぐ集まる地蔵」として、お金持ちになりたい人が大勢参拝のために集まり、大人気となったようです。
手水舎の石の右側には「江戸 新吉原 講中」奉納とあり、吉原の人たちが寄贈したようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/e9/aa16bf9364519375ca945c6be8c1e573.jpg)
↑手水舎の石
それほど江戸では、この境木地蔵尊が大人気だったということが窺えます。
また、やはり坊主が最初に使い込んだのは「吉原」だったのでしょうか^_^;)
それから焼いた餅が売られて有名だった焼餅坂を通り品濃一里塚に到着しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/03/b6921a999eea71cc5f09907cf6745916.jpg)
↑焼餅坂の案内
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/7b/2dba83dc2d4d5efd8336f2a31f98cccd.jpg)
↑品濃一里塚
品濃一里塚は、うっそうと繁る木々の中にありましたが、神奈川県内でほぼ完全な形で残っている唯一の一里塚とのことです。
なお、一里塚には、五間(約9m)四方の塚が造られ、塚の上には榎木や松の大木が植えられたようです。
夏には木陰を作り、冬には寒風を防いでくれるため、旅人にとっては格好の休憩場所だったようです。
この日も、猛暑にも関わらず、確かに涼しい風が流れていました^_^)
さすがです!!
そのうっそうとした木々を過ぎると、巨大なマンション群が見えてきて、東戸塚駅近くへ到着です!
この変わり様には驚きですね^_^;)
集合場所の公園に到着し、いつものようにハンコを押してもらいます!
今回も東海道五三次のウォーキングは楽しく、歴史などの勉強になりましたね!
また、この続きを紹介したいと思います!
次回は、東戸塚~藤沢宿 (1)品濃坂上~鎌倉ハムです。
お勧めなお話(2015年上半期)
自動車保険を安く!
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