大分県の中津市にある中津城へ行って来ました♪
この中津城は、天正16年(1588年)に黒田如水によって中津川河口の周防灘に臨むこの地に築城されたのが始まりで、その後、細川家、小笠原家、そして奥平家が城主となったようです♪
ただ廃藩置県後は、城内のほとんとの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津支庁舎として存続していましたが、明治10年(1877年)の西南戦争時にその御殿も焼失してしまいました。
しかし昭和39年(1964年)に旧藩主奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も合わせて天守閣が再建され現在に至るようです♪
無料駐車場はかなり広く、その駐車場に車を停めて天守閣に向かいました♪
↑案内図
途中には中津城の歴史の説明もありました♪
↑中津城の歴史
そして三斎池があり、池と共に天守閣が美しく見えます♪
↑三斎池と天守閣
三斎とは、細川忠興の隠居後の名前ですが、城内の用水不足を補うため、大規模な水道工事を行ったようで、その水を称えたのがこの池で、鑑賞や防水用水として使用されていたようです。
↑三斎池の説明
そして天守閣に近づきます♪
城の隣は奥平神社となってしました。
↑天守閣に近づく
それから旧中津藩主の奥平家の説明があります。
奥平家が有名なのは、天正3年(1575年)に武田勝頼軍1.5万人によって長篠城が包囲されますが、わずか500人の籠城で落城寸前となりながらも耐え忍んだことで、その結果、織田信長・徳川家康連合軍の援軍を受け、その援軍によって武田軍を破り、それが長篠の戦いとなります。
この長篠城籠城の功で、奥平家は新たな領地を与えられたほか、織田信長からは「信」の一字をもらって奥平信昌と名前を改め、そして徳川家康の長女亀姫を正室として迎え、その信昌と亀姫との間には徳川家康の孫となる4男1女が産まれ、長男の家昌は親藩として奥平家を継ぎ、それだけでなく次男~四男は松平の姓を賜っていたとは凄いですね。
しかも四男の松平忠明は大阪城や姫路城の城主も務めています。
奥平家は長篠の戦い後は、新城城(愛知県)、加納城(岐阜県)、宇都宮城(栃木県)、宮津城(京都府)などを経て享保2年(1717年)の8代将軍徳川吉宗の時代に中津10万石の領主として中津城に入っています。
↑奥平家の説明
そして天守閣に近づきます♪
石垣の上に天守閣が建てられその姿は素晴らしいです♪
↑天守閣
↑更に天守閣に近づく
そして入口で大人一人400円を支払って入場します♪
そこには中津城歴代城主一覧があり興味深かったですね♪
居城年数が30年を超える城主もいました。
↑中津城歴代城主一覧
そして長篠の戦い時のフロアもあり、資料も充実していました♪
↑長篠の戦いのフロア
特に、長篠の戦いの際の長篠城籠城時の鳥居強右衛門勝商の必死の逸話は胸を打ちます。
↑鳥居強右衛門勝商の逸話
それから徳川家康の息子・娘の領国や嫁ぎ先はさすが素晴らしいところばかりで、これも興味深かったですね。
もちろん徳川家康の長女の嫁ぎ先はこの中津城の城主だった奥平家となります。
↑徳川家康の子ども
それから天守閣の最上階からの景色は、以前このブログでも紹介した小倉城とは違い高い建物がないことから、さすが素晴らしかったですね♪
中津川河口沿いに城があるため遠くには周防灘も見え、豊前を治めるのに素晴らしい場所だったのだと思います。
さすが三大水城の1つですね。
冬でしたので寒かったのですが、この景色はとても良かったです♪
↑最上階からの景色
↑最上階からの景色
↑最上階からの景色
↑最上階からの景色
そして、天守閣から見える山々の説明もありましたね♪
↑天守閣から見える山々の説明
そのほかここでは紹介しませんでしたが、以下の展示物があり充実していました♪
・藩祖を祀る奥平神社所蔵の歴代藩主着用鎧
・天下御免白鳥の槍
・陣営具
・衣装
・長篠合戦図
・鳥居強右衛門磔図
・徳川家康親筆軍法事
・吉宗花押料理目録等
・奥平家刀剣録
・藩臣録
・士族分限帳
・絵画
・古文書(家康親書)
・鷹狩り道具 など
中津城は、奥平家などの歴史も学べ、また最上階からの景色は素晴らしく、とてもオススメです!
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