<金曜は本の紹介>
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「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」という本は、「イスラムと日本が共通するメンタリティ」や「イスラム各国が親日感情を抱く理由」、「イスラム教・イスラム国家の歴史」、「イスラムの文化」などについて、分かりやすく説明したものです。
特にイスラムの人々が日本人と同じように「任侠無頼」の考え方を持っていること、その中でもイラン人は特に気質が日本人と似ているというのは面白いと思いましたね。
イラン人は日本人と同じように家でお茶を飲んでいかないかと誘ったり、歌も哀調を帯びた演歌調のものが多く、またイスラム世界の中でも食文化は豊かで主食はお米とのことです。
それからイスラム各国は、日本が日露戦争でロシアに勝利したこと、第二次世界大戦及び戦後にインドネシア独立のきっかけになったこと、そして第二次世界大戦で日本が壊滅状態になりながらも経済発展を遂げたこと等に尊敬や驚嘆の念を持つようです。
特に第二次世界大戦での日本への原爆投下がイスラムの人にとって多くの同情を持つということには驚きましたね。
イスラムではコーランで婦女子を殺害することを禁じているので、非戦闘員への無差別殺戮を意味する広島と長崎への原爆投下は、まったく受け入れがたい罪であると認識されているようです。
それから、本書ではイスラム国家や十字軍等の歴史についても説明があり、改めて歴史の勉強にもなり良かったですね。
今後の日本の発展のためには、イスラム各国は親日なのだから日本への観光客を増やし、そのためにはイスラム教で禁じられている豚肉などを取り除いたハラール料理の充実が必要かと思いました。
「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」という本は、イスラムのことがよく分かり、また今後の提言についても記述があり、とてもオススメです!
以下はこの本のポイント等です。
・イスラムの人々が日本人を評価するのは、彼らが理想とするような心意気や感情を日本人が備えていると見ているからである。ムスリムと日本人の人間関係で相通ずる考え方に、「任侠無頼」がある。「広辞苑」によると、「任侠」とは、「強きをくじく気性に富むこと。また、その人。おとこだて」また、「侠客」とは「強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする人。任侠の徒。江戸の町奴に起源。多くは賭博・喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。おとこだて」とある。中世のイスラム世界で活動した若者集団「アイヤール」(侠客)は、主にイラン・イラク地方で、富裕者から富を略奪する一方、外部の敵から年を守る役割を担った。また、イスラムの教義には、若者らしさを意味する「フトゥーワ」という倫理的概念があり、正義の遂行、言行一致、勇敢さ、忍耐、誠実などを徳目としている。人情、ウェットな人間関係、面倒見の良さ、集団主義は、欧米の個人主義にはない日本ならではの特徴である。日本で広く人気のある映画「男はつらいよ」シリーズも、まさにそのような日本人の心情を表しており、イスラム世界でも高く評価された。
・こちらの「キャプテン翼」は、「キャプテン・マジド」というアラビア人少年の名前がつけられている。中東では「アンパンマン」も人気があるが、これにも「ピタパンマン」というアラビア語のタイトルがついている。「ピタパン」は中東で最も一般的なパンで、羊肉の焼肉や野菜を入れて食べる。中東にはアンパンがないから、「ピタパンマン」にしたほうがはるかに身近である。また、「ドラえもん」も「アブクール」という名前となって人気である。ちなみに「のび太」には「アーミル」という優しい響きの名前が付けられ、ジャイアンは「ドゥアブール」という強そうな名前になっている。2012年2月、外務省・ヨルダン大学主催の国際シンポジウムでヨルダンを訪れたコンテンツメディア・プロデューサーの櫻井孝昌氏は、「ヨルダンの若者たちは日本のドラマにはまっています。モーニング娘。やジャニーズを話題にしたり、「ナルト」や「ワンピース」、「BLEACH」や「銀魂」といったマンガ、アニメに夢中になったりしています。ものによっては、ヨルダンの学生のほうが日本人の学生より知っていることも多いくらいです」という感想を述べている。
・アフガニスタンでは、「世界で一番頭がいいのは日本人とドイツ人」という声にも接する。アフガニスタン人の多くが日本製の家電やカメラを利用できるわけではないが、優秀な消費財は日本やドイツが作っているという印象があるらしい。日本とドイツは、タリバン政権崩壊後のアフガニスタン復興でも現地の人々の評価が高かった。ともにアフガニスタン復興に尽力してきた国だということを、少なからぬアフガニスタン人が意識している。ドイツはアフガニスタンに軍隊を派遣した国の一つだが、戦闘地域で活動することを望まず、主に復興活動に専念した。ドイツ人の勤勉で真摯な取り組みはアフガニスタンで好評価を得た。同様に日本の支援もアフガニスタン人たちから好感をもたれた。
・カンダハルをはじめアフガニスタンでよく聞いたのは、ペシャワール会の中村哲医師への高い評価だった。中村医師は医療活動だけでなく、2001年から灌漑事業を始め、アフガニスタンの農地開拓を目指す活動を行ってきた。中村医師の名前はアフガニスタン人に広く知れ渡っている様子で、特にカンダハルで会った人々は中村医師の名を口にしていた。アフガニスタンでは、内戦によって灌漑施設が荒廃し、十分な灌漑ができないために、農地が不足している。いきおい多くの農民たちが、少ない水の供給でも育てられ、高利益を得られる麻薬の原料となるケシの栽培に従事せざるをえず、そのことがアフガニスタンを世界最大のケシの生産地にしてきた。また、清潔な飲料水の不足は肝炎の原因となるなどアフガニスタン人の健康を損ねている。
・中村医師は1980年代からアフガニスタンで医療活動を続けてきた。中村医師によると、89年2月にアフガニスタンからソ連軍が全面撤退した後、世界各国から支援団体がやってきたが、90年代にムジャヒディン同士の内戦が続き、治安が悪化すると、各国のNGOはあっという間に撤退してしまったという。NGOの活動は話題性があるところに集中する傾向がある。国際社会の関心がアフガニスタンから薄れ、アフガニスタンが「忘れられた国」になったことも、NGOがアフガニスタンから撤収した背景だという。治安が著しく悪化し、国際社会の関心が薄れる中で、支援を継続した日本人の姿にアフガニスタン人の共感が集まったことは確かだろう。中村医師は、欧米の援助団体は、アフガニスタンを支援するとはいいながらも、彼らの視線は上から目線で、アフガニスタン人を見下したところがあると語っていた。対等にアフガニスタン人を接しながら地道な努力を続ける日本人の姿勢は現地の人々から共感や信頼を得られている。また、カブール空港の国際ターミナルを建設したのは、日本のODAだった。カブール空港で国際便の飛行機に搭乗する際、必ず「From the People of Japan(日本国民から)」というメッセージが書き込まれた日の丸の表示を目にすることになる。
・イランでも対日感情は概して良好だ。1980年代にイランに行くと、私たち日本人を見て、「おしん!」と声をかける人が結構いた。日本のテレビドラマ「おしん」はイランで視聴率80%も超える人気番組だった。タクシーに乗ると、運転手から「おしんの最後はどうなる?」などと聞かれた。テレビ番組が国のイメージをつくることは、韓国の「冬のソナタ」を見て、日本人が韓国に対するイメージを一変させたことからも想像がつく。90年代中期にオマーンの地方のレストランに入ると、日本のアニメ「キャプテン翼」が放映されていて、大勢の少年たち食い入るように視ていた。イラン人たちは、日本人の私を見ると、「ジャポン、ヘイリー・ホベ(日本はとてもよい)」などと言ってくる。イランの旧アメリカ大使館ではアメリカの「犯罪」を暴く展示が行われるが、その展示も広島、長崎への原爆投下から始まっている。また強大なアメリカに立ち向かった日本の特攻隊に対する共感もあるようだ。「カミカゼは好きだ」というイラン人にも会ったことがある。また、アルカーイダは彼らの過激な行為がイスラムの評判を結果的に貶めることにも繋がったことから、自分の境遇に不満を持っている下層の人々にしか支持されていないのが一般的だが、「カミカゼは最初のアルカーイダだ」という声に接したこともあった。捨て身の攻撃であるという両者の共通点から出た発言であろう。私はその意見には賛成できず、神風特攻隊は国の命令によって行われた戦闘行為であり、攻撃対象はアメリカの軍艦に限られていたから、民間機を乗っ取り、不特定多数の一般市民を巻き添えにしたアルカーイダと混同されては困ると説明した。
・イランで1905年に起きた立憲革命は、日露戦争でアジアの小国であった日本がロシアに勝利したことに感銘を受けたことがきっかけの一つだった。これは日本の強さの秘訣は立憲主義にあると考え、憲法制定を求めた運動であった。当時のイランはカージャール朝が支配していたが、同じ王朝でもロシアに勝利した日本と、ロシアの帝国主義的進出に苦しめられているイランとの差異は何かということをイラン人は考えて、カージャール朝と同様に憲法のないロシア帝政に日本が勝てたのは、日本は憲法で君主制を強化できたからだとイラン人たちは思ったのであった。
・イラン人と日本人とは気質が似ていることがイラン人の親日感情に結びついているのかもしれないとも思う。アメリカで暮らしていた時、イラン人をクルマでアパートまで送っていくと、お茶を飲んでいかないかと誘われたことが多々あった。また、プレゼントなどをする際にはそんなに気を遣わなくてもなどと日本人と同じようなことをいう。イランの音楽を聴くと、哀調を帯びたものが多く、まるで日本の演歌を想い起こさせる。作家の瀬戸内寂聴さんは、東北被災地における説法を紹介する番組の中で、「無常」を説き、被災者たちに「物事は流れていく。いまがどん底と考えればこの状態も常ではなく、そこに希望が見出させる」と説いていた。同じような考えがイランにもある。ペルシアの詩人、オマル・ハイヤーム(1048~1131年)は、「無常な身だからこそ、知も命もいとおしく」と考え、数学、天文学、医学、語学、歴史、哲学など多くの学問の業績を残した。セルジューク朝のスルタン、マリク・シャーの宮廷に26歳で登用され、多くの科学書を著わし、「ジャラーリー暦」と呼ばれる正確な暦をつくった。
・日本語の語彙の中にも、ペルシア語起源のものが案外ある。バザール、カーキ色、レモンなどはペルシア語源の言葉で、「フルーツ・ポンチ」の「ポンチ」はペルシア語の数字「5」を表す「パンジュ」、また「チャランポラン」もペルシア語の「たわごと(charand parand)」から生まれたという説がある。意外にペルシアと日本との文化的関係は深いのだ。
・トルコのエルドアン首相は、東日本大震災の際にトルコの救助隊に「死ぬまで日本に残って救助を続けろ」と檄を飛ばしたという。そのぐらいの気構えで救助に臨めということだったのだろうが、トルコの救助隊は外国の中では日本に一番遅くまで残って支援を行っていた。さらに、アンカラで会ったシンクタンクの研究者からは日本の東南アジアへの経済的関与がその発展や安定をもたらしたように、トルコもまたアラブ諸国に対して日本に倣った関わりをすべきだという意見もあった。ここにもまた日本の発展をモデルに自国の成長を考える国があるという思いを新たにした。
・トルコ人は、歴史的な理由から日本に強い親愛の情を持っている。オスマン帝国弱体化をもたらした要因の一つは、北から進出してきたロシアであった。1877年から78年にかけての露土戦争で、オスマン帝国は惨敗を喫した。オスマントルコは東欧諸国の独立を認め、アルメニアの半分をロシアに割譲するなど、帝国崩壊が決定的となった。このためトルコ人はロシアに怨念を抱いていたが、その後の日露戦争で日本がロシアに勝利したことで、イランと同様に日本を賞賛する感情が沸騰した。イスタンブールの街路は「乃木通り」、「東郷通り」と名付けられた。言うまでもなく、「乃木」も「東郷」も日露戦争で活躍した大将の名である。また、今も「TOGO」という名前の会社が活動し、財布などを製造している。イランと同様、日露戦争は中東イスラム世界で日本が認知されるきっかけになった。
・外務省のミッションの際、ウズベキスタンのイスラム・カリモフ大統領に面会する機会があった。カリモフ大統領は、日本との友好関係の発展の重要性を説いた。大統領自らが日本のミッションを迎えるというのはウズベキスタンの日本に対する思いを伝えている。長い間、独裁体制でありながら、政治的安定と資源があるウズベキスタンもまた中央アジアにおける重要な親日国である。日本には政治的野心がなく、日本が主に望むのは経済交流だということを大統領も知っていて、日本に対して何か政治的役割を果たしてほしいという発言は聞かれなかった。
・1979年にイラン革命が成功して、ホメイニがイスラム共和国の最高指導者の地位に就くと、彼はシーア派の聖職者の立場から、大量の市民を一挙に殺害する核兵器はイスラムの考えからは受け入れがたいものという考えを示した。中世イスラムの倫理では、正当なる戦争とは、敵と戦を交える3日前ににその到達を知らせ、撤退する時間を与え、またあるいは敵がムスリムではない場合は、彼らの改宗の機会を考慮するということになっている。また、イスラムではコーランで婦女子を殺害することを禁じていることになっているので、非戦闘員への無差別殺戮を意味する広島と長崎への原爆投下は、まったく受け入れがたい罪であると主張し、ホメイニはイラン国内のすべての核エネルギー開発を停止させた(核エネルギー開発は、1989年から始まったラフサンジャニ大統領時代に再開された)。イランではアメリカの罪を暴く展示がテヘランの旧アメリカ大使館で行われたことがあったが、その展示もまた広島・長崎への原爆投下の惨状を伝える写真の紹介から始まっていた。
・アジア太平洋戦争で日本が軍事的に進出した地域でも、植民地支配から解放されるきっかけとなったことで、親日感情が形成されることになった。インドネシアは、現在、日本に好感をもつ人が、世論調査で90%を数える国だ。アジア太平洋戦争の緒戦における日本の東南アジアでの勝利、特にジャワ島での電撃的な占領の成功は、インドネシア独立運動の指導者たちに鮮烈な印象を与えることになった。インドネシアは1602年にオランダが東インド会社をジャワ島に創設して以来その支配下に置かれて、過酷な植民地支配に苦しんでいた。太平洋戦争が始まると、今村均中将(1886~1968)率いる陸軍の第16軍は、総兵力5万5千人によって、わずか10日間で在東インド植民地オランダ軍を降伏させた。今村中将の軍政は寛容なもので、また、抑留されていた独立運動の闘士であるスカルノやハッタを釈放する。これらの指導者たちの情熱に感銘を受けた今村は、「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。彼らが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」と語ったとされる。
・現在、インドネシアの若い世代に、インドネシア独立戦争に身を投じた日本人がいたことを知る者は多くないだろうが、今村中将による柔軟な軍政や独立戦争への旧日本兵たちの関わりがインドネシアにおける親日感情の萌芽となったことは間違いないだろう。
・ウズベキスタン共和国の首都タシケントにある国立ナボイ劇場は、レンガ造りの3階建て観客席1400の建物で、市中心部の代表的建造物として威容を誇っている。この劇場には「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語で表記されたプレートが設置されている。捕虜の境遇にあっても勤勉に働く日本人抑留者は、当時の地元民に敬意を表された。現地の人は、「絶対に帰れる」と励ましながら、黒パンを握らせてくれたという。日本人抑留者が現地に残した遺産のシンボルが、約500人の抑留者によって2年がかりで建設されたナボイ劇場なのである。レンガ製造から館内の装飾、彫刻まで抑留者が行った。1966年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際も、この劇場はビクともせず、「日本人の建物は堅固だ」「日本人の建築技術は高い」という評価が定着した。そのためか親日感情が強い中央アジア諸国の中でもウズベキスタンの日本人への好感度は飛び抜けている、という。
・1951年にイギリスが操業していた石油施設をモサッデク政権下のイランが国有化すると、石油の積み出し港ではタンカーの姿がまばらとなる一方、生産された石油がだぶついて油田地帯では石油タンクが満杯となった。これは、アングロ・イラニアン石油会社(のちのBP)がエクソンなどの他の国際的な石油企業(=メジャー)の石油会社とも協力し、イラン原油を国際市場から排除したからだった。それゆえ、この時期、メジャーから締め出しを食らったイラン国営石油から石油を購入してくれる国や企業は、イラン人にとって、まさに「救世主」とも感ぜられることになった。その頃、日本は、サンフランシスコ講和条約を締結したばかりで、ようやく主権国家としての機能をとり戻したばかりだった。そもそもアジア太平洋戦争の遠因自体、アメリカによる石油の禁輸だったし、戦後、重工業を発展させていく上でも、エネルギーの確保は日本の経済復興に不可欠な条件であり、それまでの石炭に代わって扱いやすく効率もいい石油がエネルギーの主流となることは明らかだった。1953年4月10日、出光のタンカー、日章丸はイランのアバダン港に到着した。この日章丸のアバダン入港のニュースが、世界に与えた衝撃が大きかったことは間違いない。イラン側がこの日章丸の原油買いつけを歓迎したことはいうまでもなかった。4月13日には、イラン国営石油会社の関係者などが参加して日章丸でその買い付けを祝うセレモニーが行われた。イランでは、出光によるイラン石油の買い付けを新聞が大きなスペースで「快挙」として報じ、他方、日本国内でも、この英断を歓迎するムードの方が強く、日本の新聞には、これがイランと日本の友好を象徴するものだという賞賛の投書が多数寄せられもした。欧米諸国のイラン石油排除の措置の中で、日章丸がイラン原油を買い付けにイランまで出かけていったことは、多くのイラン人たちに良好な対日観の種を植え付けたのである。
・バングラデシュに進出する日本企業は年々増えているが、その背景の一つにこの国の人々が根強く抱く親日感情がある。バングラデシュでも、他のイスラム諸国と同じように、原爆を投下されるなど戦争で壊滅状態になりながらも、経済発展を遂げた日本に対する尊敬や驚嘆の念がある。また、バングラデシュは1971年にパキスタンから独立したが、先進国で最初に国家として承認したのは日本だった。
・この陸上自衛隊のイラクのサマーワでの活動は現地住民の信頼を得るものだった。2004年12月に自衛隊の宿営地にロケット弾が撃ち込まれ、自衛隊が撤退するのではないかという噂が流れると、自衛隊が帰国してしまうのではないかという懸念の声がサマーワでは聞かれるようになった。これを受けて140人の市民からなるデモ隊が宿営地に押し寄せて、「日本の支援に感謝する」と主張して、自衛隊がサマーワに留まることを訴えるデモを行った。2004年4月には二度自衛隊の宿営地にロケット弾が撃ち込まれていたが、「日本の宿営地を守ろう」というデモも繰り広げられた。2004年1月に番匠幸一郎イラク復興支援群長がサマーワに着任すると、彼はサマーワの人々に「自衛隊がイラク人たちの友人としてやって来た。日本は、アメリカと戦い敗戦国になっても、世界第二位の経済国となった。古代メソポタミア文明から偉大な歴史を発展させてきたイラク人が日本のように、復興や発展ができないわけがない」と熱く語った。番匠群長はイラク人の民族的誇りに訴え、他国の軍隊が作業をイラク人任せにしたのに対して、自衛隊は群長など幹部までもがイラク人とともに日没を過ぎても復興活動を行った。そうした日本の自衛隊員たちの真摯な姿がイラク人たちの心をとらえることになる。サマーワに展開した自衛隊はイラクが日本と同じアジアの国であることを強調したが、他方、イラク人たちの側には日本はイラクと同様にアメリカの軍事攻撃を受け、多大な被害をもたらされたという共通の意識があった。
・アラビア語の「イスラム」という言葉は、「平和」を意味する「サラーム」という言葉から派生している。アラビア語で「こんにちは」は、「アッサラーム・アレイクム」で、これは直訳すえば「あなたの上に平安あれ」という意味だ。実際、ムスリムには「イスラムは平和を求める宗教です」と語る人が多い。
・イスラムの教祖ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ(570~632)は、当時メッカ社会にあった部族がそれぞれの神を信仰するという宗教の在り方に疑問を覚え、真の神は唯一であることを説く。イスラムはユダヤ教やキリスト教と同じ流れを汲み、それら宗教と同じ唯一神の信仰を奉じる宗教である。すなわち、イスラムは全知全能の唯一神を奉じて、神と人の間には超越しがたい断絶があるとする。この点で神と人の差は程度の違いであるとし、人の中に神を見る宗教であるヒンドゥー教、日本の原始神道、あるいは哲学に近い仏教とは根本的に異なる。預言者ムハンマドがイスラムを創始すると、アラビア半島の部族はイスラムという宗教の下に束ねられ、一つの宗教、共通の権威や法律の下に置かれることになった。神の僕となり、また神の支配を広めることは、ムスリム個人やイスラム共同体の義務とされた。神と預言者の言葉に指導されて、ウンマ(イスラム共同体)は道徳的な社会秩序を構築しなければならないとされるようになった。
・イスラムでは、地位、富、部族的出自の相違を認めながらも、部族や民族を越えた統一や、神の前におけるすべてのムスリムの平等を説く。ウンマはイスラムという共通の信仰によって束ねられ、道徳と社会正義が弱者への抑圧や経済的搾取にとって代わらねばならない。また神への帰依が、礼拝、断食、巡礼などの宗教行為から、さらには私的な世俗的生活までムスリムのすべての行動を規定するのである。コーランはムスリムの生活の包括的規範であり、結婚、離婚、相続、不和、飲酒、ギャンブル、窃盗、殺人、私通、姦通など人間のあらゆる行為について倫理的基準を設けている。不正な契約や賄賂、また婦人に対する虐待、神聖かつ正当な目的以外の富の蓄積、さらに高利貸は厳に戒められた。コーランは、現世は究極的にはアッラーに属すのであり、人類は神の代理としてこの世を管理するのであるから、ムスリムにイスラム的社会正義の道を歩むよう求めている。富は、勤勉と神の喜びの象徴で、基本的に善とされながらも、その追求や蓄積は神の法によって、限定された。富の蓄積については社会的責任を負い、共同体の他のメンバー、特に貧窮者のことを考慮しなければならない。そのため、救貧税(ザカート)の支払いや、貧者に対する自発的な布施を求めている。また、婦女子に対する財産の相続比率や、さらに債務者、寡婦、貧者、孤児、奴隷に対する正当な扱いが規定され、また暴利をむさぼることは厳に戒められ、それは神と預言者からの懲罰に遭遇せざるをえないとされている。イスラムが「平等」「公正」「弱者の救済」「平和」を求める宗教であることは、このような教義、実践、法律などから見てとれる。
・イスラムは宗教であると同時に、ウンマを形成するという政治・社会運動でもあったから、その発展はもちろん軍事的な膨張によるものだった。アラビア半島でイスラムを創始したムハンマドは、強大な軍事力と卓越した外交能力によって、イスラムの支配を拡大していく。ムハンマドの使節が周辺の部族や支配者たちに派遣され、また兵士はイスラムを拡大する戦いに従事していった。この使節や兵士はイスラムの最初の伝道師でもあった。こうして部族同士の条約を結んだり、戦闘を行ううちに、コーランやイスラムの教えも普及していった。初期のイスラムの拡大で特筆すべきことは、その拡大速度と政治的成功であった。イスラムの教義の「正当性」は、実際にイスラム世界が急速に支配地域を広げたことによって証明されていった。イスラムの支配者たちは、制服者であると同時に、有能な支配者であった。征服した土地の支配者と軍隊は変えたが、在地の政府や官僚機構、そして文化を保持した。
・632年にムハンマドが他界すると、彼が創始したイスラム国家は、同盟関係にある部族の援助もあって、アラビア半島の多くの部分を支配するようになる。イスラム世界は、第二代カリフのウマル(在位634~644)の時代にアラビア半島を越えて拡大し、その発展はおよそ100年間継続した。イスラム帝国はシリアを領有するようになり、ダマスカスは、ムハンマドの後継である正統カリフ時代の後成立したウマイヤ朝(661~750)の首都になった。特に、このウマイヤ朝は、エジプトからモロッコに至る北アフリカに支配を伸ばし、さらに711年にはスペインに渡り、その大部分の領土を支配し、南フランスのナルボンヌに前衛基地を築いた。また、東方では、イランを足場に中央アジア、インド西北部に進出した。このように、ウマイヤ朝の終わりまでに、イスラム世界の著しい拡大が見られた。
・急速に発展したイスラム帝国の行政は、異教徒に対して皆殺しや完全服従を強いることのない独特の制度を用意した。たとえば、インカ帝国を滅ぼしたスペインがその文化的伝統を抹殺し、現在その痕跡すら見つけるのが難しいのに対して、ある種の「寛容性」を示したのだ。それが、「被保護民(ズィンミー)」という制度である。簡単に言えば、ショバ代さえはらえば、ある程度の信教の自由は認めるという制度である。あくまでも自らの信仰を放棄しないクリスチャンやユダヤ教徒にとって、イスラム国家への服従は、イスラムの概念としての「被保護民」になることであり、人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)を納めれば、イスラム国家によって制度上保護されることになった。クリスチャンなど異教徒たちは、「被保護民」として自治を与えられ、イスラムの下にあるという宗教ヒエラルキーを維持していれば、指導者たちは彼の伝統的な法によって、従来通りコミュニティーを支配することができた。
・教皇ウルバン二世は、1095年にクレルモンの宗教会議で十字軍を呼びかけたが、それは、1076年にセルジューク・トルコのアミール(軍司令官)がエルサレムを支配するようになり、トルコ人とアラブ人がキリスト教徒を迫害し、その殺戮を行い、キリスト教会を破壊していることが理由とされた。しかし、呼びかけの背景には、当時失墜していた教皇の権威を再び強調すること、また、キリスト教世界の政治指導者の正当性を認可する権限を教皇が再び取り戻すこと、さらに東方と西方に分裂していたキリスト教会を再統一しようとする意図などがあった。「宗教的情熱」による教皇の呼びかけによって開始された十字軍は、1099年にエルサレムを占領する。十字軍は、騎士道やキリスト教精神を鼓舞することになったが、その過程でイスラムは悪魔や偽キリストによって吹聴された下賤な宗教というイメージが意図的につくられていく。こうしたいすあうのイメージはダンテの作品、「神曲 地獄篇」にも表れ、その中では体の不自由な預言者ムハンマドが、宗教の分裂を煽った者として、地獄でもの悲しげにしている様子が描かれている。他方、ムスリムの側では、十字軍との戦いの後、イスラム世界に居住するクリスチャンやユダヤ教徒に対する不寛容な処遇が一部で現れ、宗派別のハーラ(街区)がつくられ、異教徒に対する差別が行われる一つの背景となった。
・13世紀末に成立したオスマン帝国は急速に拡大し、1357年にダーダネルス海峡を越え、ガリポリ半島に入る。14世紀末までに、ギリシアやブルガリアなどビザンツ帝国の数州を支配下に置き、さらに1453年には、ビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルをも陥落させた。16世紀初頭になると、オスマン帝国はさらに拡大を続け、1517年にはシリアとエジプトを版図に組み入れる。また1526年にモハーチでのハンガリー王国との戦いに勝利すると、ハンガリーの大部分はオスマン帝国の支配下に入った。1529年にオスマン軍は不成功に終わったとはいえ、ウィーンを包囲し、さらに1534年には地中海でその強力な海軍はスペインやその他のヨーロッパ列強との戦争に従事するようになった。
・概してイスラム世界の人々は人懐っこく、外来の者に親切な人が多い。イスラム世界から来た人々は他人を思いやり、面倒見が良い。酷暑の気候の中で人々が暮らしていくためには、お互い助け合っていくしかないからだろう。よそから来た者たちをもてなそうとする姿勢は、砂漠の民ならではといえる生活習慣だ。
・イスラム世界の人々には、人懐っこく、気さくで、親切な人が多いのはなぜか。それは外からやってきた人間との接触が多い遊牧社会の伝統だからだ。イスラム世界は東西交通の中心に位置し、ヨーロッパやアジア、アフリカからやってきた人々との交流が途絶えることがなかった。また、イスラムは相互扶助を教える宗教である。外来の異教徒にも親切なムスリムの姿勢は、そうしたイスラムの教義に基づいている。「アッサラーム・アレイクム(あなたの上に平安あれ)」と言って抱き合うムスリムの挨拶には、「あなた元気ですか」「ご家族にお変わりありませんか」など多くの感情が込められている。親族の中に困った者がいれば、親族全体で面倒を見たり、助けたりする。あるいはイスラムの「喜捨」や「平等」の精神によって、地域のコミュニティ全体で困窮する人々に救いの手を差し伸べる。イスラムの根幹にあるのは、「助け合い」の精神である。イスラム世界の事情に疎い私たち日本人がイスラム世界を訪れると、ムスリムたちはとりわけ面倒を見たくなるのかもしれない。
・イスラム世界では陸路貿易が盛んに行われていた。インドやエジプト、イラクでは海路輸送が活発だったが、イスラム世界の交易の多くは陸路に依存していた。織物、陶磁器、貴金属、食料、香辛料、塩を、遠く離れた地域から買い求めなければならなかった。交易を担った隊商(キャラバン)の規模は、ラクダ・ラバが総数で1000頭を超えることもあった。遠来からやってきた商人が泊まる宿のことをサライと呼ぶ。一般的に、サライは方形で高い堀に囲まれ、施設の中央に中庭があり、商品の取引場、商品の倉庫としても使われた。
・イランの食文化は、中東イスラム世界の中でももっとも豊かなものだ。テヘランに3年ほど駐在経験がある新聞記者は、「いろいろ旅行してみてイラン料理がとりわけおいしいことを知りました」と話していた。焼肉料理であるキャバーブは中東イスラム世界のどこに行っても食べられるが、イランのキャバーブはとくに柔らかくて、ジューシーである。日本と同様、イランの主食はお米である。米の主要産地はカスピ海沿岸である。タイ米と同じ長粒種米だが、それほどぱさぱさした感じはしない。イランでもっとも一般的な料理は「チェロウ・キャバーブ」で、羊の焼肉に白飯、トマトやタマネギなどの焼野菜をつけたものである。
・イスラムのビジネス・タイムについても意識的であるべきだ。日本のビジネス界にとって重要なペルシア湾岸諸国のビジネス・タイムは1日2つにシフト分けされる。たいてい午前8時から午後1時まで働き、帰宅して昼食と昼寝をとり、そして会社に戻って午後4時から午後7時まで働くというケースが多い。市場(スーク)の店舗などはこの時間制をとっているか、あるいは、1シフト制の場合、午前7時から午後3時まえと決められている。日中の気温が摂氏50度を超えることもあるペルシア湾岸のアラブ人にとって、最も暑い時間帯は昼寝によって休息をとる時間だ。一見のんびりしているが、暑い時間に休息をとるイスラム世界の労働慣習は合理的であり、その点も日本人はよく心得るべきだろう。
<目次>
はじめに
第1章 イスラムの人々は義理・人情がお好き
日本と共通するメンタリティ
ネットで日本のポップカルチャーに接する若者たち
ドバイにある紀伊国屋書店の最大店舗
ドバイの「マンガ寿司」
日本をライバル視する中東のサッカー
柔道で中東に貢献
茶室をつくったアブダビの皇太子
和太鼓も人気
世界の安全保障に寄与する日本文化
第2章 イスラム世界で接した親日感情
日本とアフガニスタンは独立記念日が同じ?
アフガン支援を止めなかった中村医師
イラン人の親日感情
イランと日本の共通点
日本の中のペルシア文化
特別な友好関係にある日本とトルコ
イスタンブールの「乃木通り」「東郷通り」
旧ソ連イスラム系諸国でも
第3章 歴史の中で醸成された親日的心情
日土友好の礎となったトルコ軍艦救助
日露戦争勝利へ畏敬の念
日本での布教の先駆者たち
日本軍勝利に狂喜したエジプト国王
ヒロシマ・ナガサキへの同情
インドネシア独立戦争に参加した旧日本兵たち
ウズベキスタンで賞賛される拘留者たち
アルジェリア独立と気骨ある衆議院議員
イランにタンカーを送り込んだ出光
サウジ国王と直談判した「アラビア太郎」
先進国で初めてバングラデシュを国家承認
東南アジア諸国で圧倒的に高い親日感情
トルコ、エジプトでも高い好感度
「帰らないで」デモが起こった自衛隊サマーワ活動
弱者を救済する日本
第4章 イスラムは暴力的な宗教か?
理想とされたイスラム共同体による統治
異教徒に対するイスラム帝国の行政
「イスラムの家」と「戦争の家」
十字軍-歪曲されたイメージの始まり
オスマン帝国-キリスト教世界への重大な脅威
イスラムとヨーロッパの相克
「ジハード」の起源
暴力行使を容認したハワーリジュ派
中世のイスラム過激思想家
アラビア半島の復古運動ワッハーブ
ナショナリズムに抗する汎イスラム主義
現代における改革運動としてのイスラム
イスラム過激派への評価とアルジェリア事件
「サダム・フセインは地獄に行きます」
「アラブの春」、その後
第5章 遊牧民のもてなし文化
人懐っこく、気さくなムスリムたち
もてなしの原点、キャラバンサライ
イラン人の親切は家族を大切にする気持ちから
第6章 日本への注文
対イラン政策への提言
ソフトパワー行使の必要性
イスラムの習慣に不慣れな日本人
お昼寝・ハラール料理・土葬
日本への期待
第7章 中国、韓国との競合
最大のライバル・中国
サウジと中国との蜜月
メガ・プロジェクトに続々と参入する韓国
日本にしかない最強のカード「皇室」
おわりに
図表作成・クラップス
面白かった本まとめ(2013年下半期)
<今日の独り言>
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「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」という本は、「イスラムと日本が共通するメンタリティ」や「イスラム各国が親日感情を抱く理由」、「イスラム教・イスラム国家の歴史」、「イスラムの文化」などについて、分かりやすく説明したものです。
特にイスラムの人々が日本人と同じように「任侠無頼」の考え方を持っていること、その中でもイラン人は特に気質が日本人と似ているというのは面白いと思いましたね。
イラン人は日本人と同じように家でお茶を飲んでいかないかと誘ったり、歌も哀調を帯びた演歌調のものが多く、またイスラム世界の中でも食文化は豊かで主食はお米とのことです。
それからイスラム各国は、日本が日露戦争でロシアに勝利したこと、第二次世界大戦及び戦後にインドネシア独立のきっかけになったこと、そして第二次世界大戦で日本が壊滅状態になりながらも経済発展を遂げたこと等に尊敬や驚嘆の念を持つようです。
特に第二次世界大戦での日本への原爆投下がイスラムの人にとって多くの同情を持つということには驚きましたね。
イスラムではコーランで婦女子を殺害することを禁じているので、非戦闘員への無差別殺戮を意味する広島と長崎への原爆投下は、まったく受け入れがたい罪であると認識されているようです。
それから、本書ではイスラム国家や十字軍等の歴史についても説明があり、改めて歴史の勉強にもなり良かったですね。
今後の日本の発展のためには、イスラム各国は親日なのだから日本への観光客を増やし、そのためにはイスラム教で禁じられている豚肉などを取り除いたハラール料理の充実が必要かと思いました。
「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」という本は、イスラムのことがよく分かり、また今後の提言についても記述があり、とてもオススメです!
以下はこの本のポイント等です。
・イスラムの人々が日本人を評価するのは、彼らが理想とするような心意気や感情を日本人が備えていると見ているからである。ムスリムと日本人の人間関係で相通ずる考え方に、「任侠無頼」がある。「広辞苑」によると、「任侠」とは、「強きをくじく気性に富むこと。また、その人。おとこだて」また、「侠客」とは「強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする人。任侠の徒。江戸の町奴に起源。多くは賭博・喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。おとこだて」とある。中世のイスラム世界で活動した若者集団「アイヤール」(侠客)は、主にイラン・イラク地方で、富裕者から富を略奪する一方、外部の敵から年を守る役割を担った。また、イスラムの教義には、若者らしさを意味する「フトゥーワ」という倫理的概念があり、正義の遂行、言行一致、勇敢さ、忍耐、誠実などを徳目としている。人情、ウェットな人間関係、面倒見の良さ、集団主義は、欧米の個人主義にはない日本ならではの特徴である。日本で広く人気のある映画「男はつらいよ」シリーズも、まさにそのような日本人の心情を表しており、イスラム世界でも高く評価された。
・こちらの「キャプテン翼」は、「キャプテン・マジド」というアラビア人少年の名前がつけられている。中東では「アンパンマン」も人気があるが、これにも「ピタパンマン」というアラビア語のタイトルがついている。「ピタパン」は中東で最も一般的なパンで、羊肉の焼肉や野菜を入れて食べる。中東にはアンパンがないから、「ピタパンマン」にしたほうがはるかに身近である。また、「ドラえもん」も「アブクール」という名前となって人気である。ちなみに「のび太」には「アーミル」という優しい響きの名前が付けられ、ジャイアンは「ドゥアブール」という強そうな名前になっている。2012年2月、外務省・ヨルダン大学主催の国際シンポジウムでヨルダンを訪れたコンテンツメディア・プロデューサーの櫻井孝昌氏は、「ヨルダンの若者たちは日本のドラマにはまっています。モーニング娘。やジャニーズを話題にしたり、「ナルト」や「ワンピース」、「BLEACH」や「銀魂」といったマンガ、アニメに夢中になったりしています。ものによっては、ヨルダンの学生のほうが日本人の学生より知っていることも多いくらいです」という感想を述べている。
・アフガニスタンでは、「世界で一番頭がいいのは日本人とドイツ人」という声にも接する。アフガニスタン人の多くが日本製の家電やカメラを利用できるわけではないが、優秀な消費財は日本やドイツが作っているという印象があるらしい。日本とドイツは、タリバン政権崩壊後のアフガニスタン復興でも現地の人々の評価が高かった。ともにアフガニスタン復興に尽力してきた国だということを、少なからぬアフガニスタン人が意識している。ドイツはアフガニスタンに軍隊を派遣した国の一つだが、戦闘地域で活動することを望まず、主に復興活動に専念した。ドイツ人の勤勉で真摯な取り組みはアフガニスタンで好評価を得た。同様に日本の支援もアフガニスタン人たちから好感をもたれた。
・カンダハルをはじめアフガニスタンでよく聞いたのは、ペシャワール会の中村哲医師への高い評価だった。中村医師は医療活動だけでなく、2001年から灌漑事業を始め、アフガニスタンの農地開拓を目指す活動を行ってきた。中村医師の名前はアフガニスタン人に広く知れ渡っている様子で、特にカンダハルで会った人々は中村医師の名を口にしていた。アフガニスタンでは、内戦によって灌漑施設が荒廃し、十分な灌漑ができないために、農地が不足している。いきおい多くの農民たちが、少ない水の供給でも育てられ、高利益を得られる麻薬の原料となるケシの栽培に従事せざるをえず、そのことがアフガニスタンを世界最大のケシの生産地にしてきた。また、清潔な飲料水の不足は肝炎の原因となるなどアフガニスタン人の健康を損ねている。
・中村医師は1980年代からアフガニスタンで医療活動を続けてきた。中村医師によると、89年2月にアフガニスタンからソ連軍が全面撤退した後、世界各国から支援団体がやってきたが、90年代にムジャヒディン同士の内戦が続き、治安が悪化すると、各国のNGOはあっという間に撤退してしまったという。NGOの活動は話題性があるところに集中する傾向がある。国際社会の関心がアフガニスタンから薄れ、アフガニスタンが「忘れられた国」になったことも、NGOがアフガニスタンから撤収した背景だという。治安が著しく悪化し、国際社会の関心が薄れる中で、支援を継続した日本人の姿にアフガニスタン人の共感が集まったことは確かだろう。中村医師は、欧米の援助団体は、アフガニスタンを支援するとはいいながらも、彼らの視線は上から目線で、アフガニスタン人を見下したところがあると語っていた。対等にアフガニスタン人を接しながら地道な努力を続ける日本人の姿勢は現地の人々から共感や信頼を得られている。また、カブール空港の国際ターミナルを建設したのは、日本のODAだった。カブール空港で国際便の飛行機に搭乗する際、必ず「From the People of Japan(日本国民から)」というメッセージが書き込まれた日の丸の表示を目にすることになる。
・イランでも対日感情は概して良好だ。1980年代にイランに行くと、私たち日本人を見て、「おしん!」と声をかける人が結構いた。日本のテレビドラマ「おしん」はイランで視聴率80%も超える人気番組だった。タクシーに乗ると、運転手から「おしんの最後はどうなる?」などと聞かれた。テレビ番組が国のイメージをつくることは、韓国の「冬のソナタ」を見て、日本人が韓国に対するイメージを一変させたことからも想像がつく。90年代中期にオマーンの地方のレストランに入ると、日本のアニメ「キャプテン翼」が放映されていて、大勢の少年たち食い入るように視ていた。イラン人たちは、日本人の私を見ると、「ジャポン、ヘイリー・ホベ(日本はとてもよい)」などと言ってくる。イランの旧アメリカ大使館ではアメリカの「犯罪」を暴く展示が行われるが、その展示も広島、長崎への原爆投下から始まっている。また強大なアメリカに立ち向かった日本の特攻隊に対する共感もあるようだ。「カミカゼは好きだ」というイラン人にも会ったことがある。また、アルカーイダは彼らの過激な行為がイスラムの評判を結果的に貶めることにも繋がったことから、自分の境遇に不満を持っている下層の人々にしか支持されていないのが一般的だが、「カミカゼは最初のアルカーイダだ」という声に接したこともあった。捨て身の攻撃であるという両者の共通点から出た発言であろう。私はその意見には賛成できず、神風特攻隊は国の命令によって行われた戦闘行為であり、攻撃対象はアメリカの軍艦に限られていたから、民間機を乗っ取り、不特定多数の一般市民を巻き添えにしたアルカーイダと混同されては困ると説明した。
・イランで1905年に起きた立憲革命は、日露戦争でアジアの小国であった日本がロシアに勝利したことに感銘を受けたことがきっかけの一つだった。これは日本の強さの秘訣は立憲主義にあると考え、憲法制定を求めた運動であった。当時のイランはカージャール朝が支配していたが、同じ王朝でもロシアに勝利した日本と、ロシアの帝国主義的進出に苦しめられているイランとの差異は何かということをイラン人は考えて、カージャール朝と同様に憲法のないロシア帝政に日本が勝てたのは、日本は憲法で君主制を強化できたからだとイラン人たちは思ったのであった。
・イラン人と日本人とは気質が似ていることがイラン人の親日感情に結びついているのかもしれないとも思う。アメリカで暮らしていた時、イラン人をクルマでアパートまで送っていくと、お茶を飲んでいかないかと誘われたことが多々あった。また、プレゼントなどをする際にはそんなに気を遣わなくてもなどと日本人と同じようなことをいう。イランの音楽を聴くと、哀調を帯びたものが多く、まるで日本の演歌を想い起こさせる。作家の瀬戸内寂聴さんは、東北被災地における説法を紹介する番組の中で、「無常」を説き、被災者たちに「物事は流れていく。いまがどん底と考えればこの状態も常ではなく、そこに希望が見出させる」と説いていた。同じような考えがイランにもある。ペルシアの詩人、オマル・ハイヤーム(1048~1131年)は、「無常な身だからこそ、知も命もいとおしく」と考え、数学、天文学、医学、語学、歴史、哲学など多くの学問の業績を残した。セルジューク朝のスルタン、マリク・シャーの宮廷に26歳で登用され、多くの科学書を著わし、「ジャラーリー暦」と呼ばれる正確な暦をつくった。
・日本語の語彙の中にも、ペルシア語起源のものが案外ある。バザール、カーキ色、レモンなどはペルシア語源の言葉で、「フルーツ・ポンチ」の「ポンチ」はペルシア語の数字「5」を表す「パンジュ」、また「チャランポラン」もペルシア語の「たわごと(charand parand)」から生まれたという説がある。意外にペルシアと日本との文化的関係は深いのだ。
・トルコのエルドアン首相は、東日本大震災の際にトルコの救助隊に「死ぬまで日本に残って救助を続けろ」と檄を飛ばしたという。そのぐらいの気構えで救助に臨めということだったのだろうが、トルコの救助隊は外国の中では日本に一番遅くまで残って支援を行っていた。さらに、アンカラで会ったシンクタンクの研究者からは日本の東南アジアへの経済的関与がその発展や安定をもたらしたように、トルコもまたアラブ諸国に対して日本に倣った関わりをすべきだという意見もあった。ここにもまた日本の発展をモデルに自国の成長を考える国があるという思いを新たにした。
・トルコ人は、歴史的な理由から日本に強い親愛の情を持っている。オスマン帝国弱体化をもたらした要因の一つは、北から進出してきたロシアであった。1877年から78年にかけての露土戦争で、オスマン帝国は惨敗を喫した。オスマントルコは東欧諸国の独立を認め、アルメニアの半分をロシアに割譲するなど、帝国崩壊が決定的となった。このためトルコ人はロシアに怨念を抱いていたが、その後の日露戦争で日本がロシアに勝利したことで、イランと同様に日本を賞賛する感情が沸騰した。イスタンブールの街路は「乃木通り」、「東郷通り」と名付けられた。言うまでもなく、「乃木」も「東郷」も日露戦争で活躍した大将の名である。また、今も「TOGO」という名前の会社が活動し、財布などを製造している。イランと同様、日露戦争は中東イスラム世界で日本が認知されるきっかけになった。
・外務省のミッションの際、ウズベキスタンのイスラム・カリモフ大統領に面会する機会があった。カリモフ大統領は、日本との友好関係の発展の重要性を説いた。大統領自らが日本のミッションを迎えるというのはウズベキスタンの日本に対する思いを伝えている。長い間、独裁体制でありながら、政治的安定と資源があるウズベキスタンもまた中央アジアにおける重要な親日国である。日本には政治的野心がなく、日本が主に望むのは経済交流だということを大統領も知っていて、日本に対して何か政治的役割を果たしてほしいという発言は聞かれなかった。
・1979年にイラン革命が成功して、ホメイニがイスラム共和国の最高指導者の地位に就くと、彼はシーア派の聖職者の立場から、大量の市民を一挙に殺害する核兵器はイスラムの考えからは受け入れがたいものという考えを示した。中世イスラムの倫理では、正当なる戦争とは、敵と戦を交える3日前ににその到達を知らせ、撤退する時間を与え、またあるいは敵がムスリムではない場合は、彼らの改宗の機会を考慮するということになっている。また、イスラムではコーランで婦女子を殺害することを禁じていることになっているので、非戦闘員への無差別殺戮を意味する広島と長崎への原爆投下は、まったく受け入れがたい罪であると主張し、ホメイニはイラン国内のすべての核エネルギー開発を停止させた(核エネルギー開発は、1989年から始まったラフサンジャニ大統領時代に再開された)。イランではアメリカの罪を暴く展示がテヘランの旧アメリカ大使館で行われたことがあったが、その展示もまた広島・長崎への原爆投下の惨状を伝える写真の紹介から始まっていた。
・アジア太平洋戦争で日本が軍事的に進出した地域でも、植民地支配から解放されるきっかけとなったことで、親日感情が形成されることになった。インドネシアは、現在、日本に好感をもつ人が、世論調査で90%を数える国だ。アジア太平洋戦争の緒戦における日本の東南アジアでの勝利、特にジャワ島での電撃的な占領の成功は、インドネシア独立運動の指導者たちに鮮烈な印象を与えることになった。インドネシアは1602年にオランダが東インド会社をジャワ島に創設して以来その支配下に置かれて、過酷な植民地支配に苦しんでいた。太平洋戦争が始まると、今村均中将(1886~1968)率いる陸軍の第16軍は、総兵力5万5千人によって、わずか10日間で在東インド植民地オランダ軍を降伏させた。今村中将の軍政は寛容なもので、また、抑留されていた独立運動の闘士であるスカルノやハッタを釈放する。これらの指導者たちの情熱に感銘を受けた今村は、「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。彼らが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」と語ったとされる。
・現在、インドネシアの若い世代に、インドネシア独立戦争に身を投じた日本人がいたことを知る者は多くないだろうが、今村中将による柔軟な軍政や独立戦争への旧日本兵たちの関わりがインドネシアにおける親日感情の萌芽となったことは間違いないだろう。
・ウズベキスタン共和国の首都タシケントにある国立ナボイ劇場は、レンガ造りの3階建て観客席1400の建物で、市中心部の代表的建造物として威容を誇っている。この劇場には「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語で表記されたプレートが設置されている。捕虜の境遇にあっても勤勉に働く日本人抑留者は、当時の地元民に敬意を表された。現地の人は、「絶対に帰れる」と励ましながら、黒パンを握らせてくれたという。日本人抑留者が現地に残した遺産のシンボルが、約500人の抑留者によって2年がかりで建設されたナボイ劇場なのである。レンガ製造から館内の装飾、彫刻まで抑留者が行った。1966年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際も、この劇場はビクともせず、「日本人の建物は堅固だ」「日本人の建築技術は高い」という評価が定着した。そのためか親日感情が強い中央アジア諸国の中でもウズベキスタンの日本人への好感度は飛び抜けている、という。
・1951年にイギリスが操業していた石油施設をモサッデク政権下のイランが国有化すると、石油の積み出し港ではタンカーの姿がまばらとなる一方、生産された石油がだぶついて油田地帯では石油タンクが満杯となった。これは、アングロ・イラニアン石油会社(のちのBP)がエクソンなどの他の国際的な石油企業(=メジャー)の石油会社とも協力し、イラン原油を国際市場から排除したからだった。それゆえ、この時期、メジャーから締め出しを食らったイラン国営石油から石油を購入してくれる国や企業は、イラン人にとって、まさに「救世主」とも感ぜられることになった。その頃、日本は、サンフランシスコ講和条約を締結したばかりで、ようやく主権国家としての機能をとり戻したばかりだった。そもそもアジア太平洋戦争の遠因自体、アメリカによる石油の禁輸だったし、戦後、重工業を発展させていく上でも、エネルギーの確保は日本の経済復興に不可欠な条件であり、それまでの石炭に代わって扱いやすく効率もいい石油がエネルギーの主流となることは明らかだった。1953年4月10日、出光のタンカー、日章丸はイランのアバダン港に到着した。この日章丸のアバダン入港のニュースが、世界に与えた衝撃が大きかったことは間違いない。イラン側がこの日章丸の原油買いつけを歓迎したことはいうまでもなかった。4月13日には、イラン国営石油会社の関係者などが参加して日章丸でその買い付けを祝うセレモニーが行われた。イランでは、出光によるイラン石油の買い付けを新聞が大きなスペースで「快挙」として報じ、他方、日本国内でも、この英断を歓迎するムードの方が強く、日本の新聞には、これがイランと日本の友好を象徴するものだという賞賛の投書が多数寄せられもした。欧米諸国のイラン石油排除の措置の中で、日章丸がイラン原油を買い付けにイランまで出かけていったことは、多くのイラン人たちに良好な対日観の種を植え付けたのである。
・バングラデシュに進出する日本企業は年々増えているが、その背景の一つにこの国の人々が根強く抱く親日感情がある。バングラデシュでも、他のイスラム諸国と同じように、原爆を投下されるなど戦争で壊滅状態になりながらも、経済発展を遂げた日本に対する尊敬や驚嘆の念がある。また、バングラデシュは1971年にパキスタンから独立したが、先進国で最初に国家として承認したのは日本だった。
・この陸上自衛隊のイラクのサマーワでの活動は現地住民の信頼を得るものだった。2004年12月に自衛隊の宿営地にロケット弾が撃ち込まれ、自衛隊が撤退するのではないかという噂が流れると、自衛隊が帰国してしまうのではないかという懸念の声がサマーワでは聞かれるようになった。これを受けて140人の市民からなるデモ隊が宿営地に押し寄せて、「日本の支援に感謝する」と主張して、自衛隊がサマーワに留まることを訴えるデモを行った。2004年4月には二度自衛隊の宿営地にロケット弾が撃ち込まれていたが、「日本の宿営地を守ろう」というデモも繰り広げられた。2004年1月に番匠幸一郎イラク復興支援群長がサマーワに着任すると、彼はサマーワの人々に「自衛隊がイラク人たちの友人としてやって来た。日本は、アメリカと戦い敗戦国になっても、世界第二位の経済国となった。古代メソポタミア文明から偉大な歴史を発展させてきたイラク人が日本のように、復興や発展ができないわけがない」と熱く語った。番匠群長はイラク人の民族的誇りに訴え、他国の軍隊が作業をイラク人任せにしたのに対して、自衛隊は群長など幹部までもがイラク人とともに日没を過ぎても復興活動を行った。そうした日本の自衛隊員たちの真摯な姿がイラク人たちの心をとらえることになる。サマーワに展開した自衛隊はイラクが日本と同じアジアの国であることを強調したが、他方、イラク人たちの側には日本はイラクと同様にアメリカの軍事攻撃を受け、多大な被害をもたらされたという共通の意識があった。
・アラビア語の「イスラム」という言葉は、「平和」を意味する「サラーム」という言葉から派生している。アラビア語で「こんにちは」は、「アッサラーム・アレイクム」で、これは直訳すえば「あなたの上に平安あれ」という意味だ。実際、ムスリムには「イスラムは平和を求める宗教です」と語る人が多い。
・イスラムの教祖ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ(570~632)は、当時メッカ社会にあった部族がそれぞれの神を信仰するという宗教の在り方に疑問を覚え、真の神は唯一であることを説く。イスラムはユダヤ教やキリスト教と同じ流れを汲み、それら宗教と同じ唯一神の信仰を奉じる宗教である。すなわち、イスラムは全知全能の唯一神を奉じて、神と人の間には超越しがたい断絶があるとする。この点で神と人の差は程度の違いであるとし、人の中に神を見る宗教であるヒンドゥー教、日本の原始神道、あるいは哲学に近い仏教とは根本的に異なる。預言者ムハンマドがイスラムを創始すると、アラビア半島の部族はイスラムという宗教の下に束ねられ、一つの宗教、共通の権威や法律の下に置かれることになった。神の僕となり、また神の支配を広めることは、ムスリム個人やイスラム共同体の義務とされた。神と預言者の言葉に指導されて、ウンマ(イスラム共同体)は道徳的な社会秩序を構築しなければならないとされるようになった。
・イスラムでは、地位、富、部族的出自の相違を認めながらも、部族や民族を越えた統一や、神の前におけるすべてのムスリムの平等を説く。ウンマはイスラムという共通の信仰によって束ねられ、道徳と社会正義が弱者への抑圧や経済的搾取にとって代わらねばならない。また神への帰依が、礼拝、断食、巡礼などの宗教行為から、さらには私的な世俗的生活までムスリムのすべての行動を規定するのである。コーランはムスリムの生活の包括的規範であり、結婚、離婚、相続、不和、飲酒、ギャンブル、窃盗、殺人、私通、姦通など人間のあらゆる行為について倫理的基準を設けている。不正な契約や賄賂、また婦人に対する虐待、神聖かつ正当な目的以外の富の蓄積、さらに高利貸は厳に戒められた。コーランは、現世は究極的にはアッラーに属すのであり、人類は神の代理としてこの世を管理するのであるから、ムスリムにイスラム的社会正義の道を歩むよう求めている。富は、勤勉と神の喜びの象徴で、基本的に善とされながらも、その追求や蓄積は神の法によって、限定された。富の蓄積については社会的責任を負い、共同体の他のメンバー、特に貧窮者のことを考慮しなければならない。そのため、救貧税(ザカート)の支払いや、貧者に対する自発的な布施を求めている。また、婦女子に対する財産の相続比率や、さらに債務者、寡婦、貧者、孤児、奴隷に対する正当な扱いが規定され、また暴利をむさぼることは厳に戒められ、それは神と預言者からの懲罰に遭遇せざるをえないとされている。イスラムが「平等」「公正」「弱者の救済」「平和」を求める宗教であることは、このような教義、実践、法律などから見てとれる。
・イスラムは宗教であると同時に、ウンマを形成するという政治・社会運動でもあったから、その発展はもちろん軍事的な膨張によるものだった。アラビア半島でイスラムを創始したムハンマドは、強大な軍事力と卓越した外交能力によって、イスラムの支配を拡大していく。ムハンマドの使節が周辺の部族や支配者たちに派遣され、また兵士はイスラムを拡大する戦いに従事していった。この使節や兵士はイスラムの最初の伝道師でもあった。こうして部族同士の条約を結んだり、戦闘を行ううちに、コーランやイスラムの教えも普及していった。初期のイスラムの拡大で特筆すべきことは、その拡大速度と政治的成功であった。イスラムの教義の「正当性」は、実際にイスラム世界が急速に支配地域を広げたことによって証明されていった。イスラムの支配者たちは、制服者であると同時に、有能な支配者であった。征服した土地の支配者と軍隊は変えたが、在地の政府や官僚機構、そして文化を保持した。
・632年にムハンマドが他界すると、彼が創始したイスラム国家は、同盟関係にある部族の援助もあって、アラビア半島の多くの部分を支配するようになる。イスラム世界は、第二代カリフのウマル(在位634~644)の時代にアラビア半島を越えて拡大し、その発展はおよそ100年間継続した。イスラム帝国はシリアを領有するようになり、ダマスカスは、ムハンマドの後継である正統カリフ時代の後成立したウマイヤ朝(661~750)の首都になった。特に、このウマイヤ朝は、エジプトからモロッコに至る北アフリカに支配を伸ばし、さらに711年にはスペインに渡り、その大部分の領土を支配し、南フランスのナルボンヌに前衛基地を築いた。また、東方では、イランを足場に中央アジア、インド西北部に進出した。このように、ウマイヤ朝の終わりまでに、イスラム世界の著しい拡大が見られた。
・急速に発展したイスラム帝国の行政は、異教徒に対して皆殺しや完全服従を強いることのない独特の制度を用意した。たとえば、インカ帝国を滅ぼしたスペインがその文化的伝統を抹殺し、現在その痕跡すら見つけるのが難しいのに対して、ある種の「寛容性」を示したのだ。それが、「被保護民(ズィンミー)」という制度である。簡単に言えば、ショバ代さえはらえば、ある程度の信教の自由は認めるという制度である。あくまでも自らの信仰を放棄しないクリスチャンやユダヤ教徒にとって、イスラム国家への服従は、イスラムの概念としての「被保護民」になることであり、人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)を納めれば、イスラム国家によって制度上保護されることになった。クリスチャンなど異教徒たちは、「被保護民」として自治を与えられ、イスラムの下にあるという宗教ヒエラルキーを維持していれば、指導者たちは彼の伝統的な法によって、従来通りコミュニティーを支配することができた。
・教皇ウルバン二世は、1095年にクレルモンの宗教会議で十字軍を呼びかけたが、それは、1076年にセルジューク・トルコのアミール(軍司令官)がエルサレムを支配するようになり、トルコ人とアラブ人がキリスト教徒を迫害し、その殺戮を行い、キリスト教会を破壊していることが理由とされた。しかし、呼びかけの背景には、当時失墜していた教皇の権威を再び強調すること、また、キリスト教世界の政治指導者の正当性を認可する権限を教皇が再び取り戻すこと、さらに東方と西方に分裂していたキリスト教会を再統一しようとする意図などがあった。「宗教的情熱」による教皇の呼びかけによって開始された十字軍は、1099年にエルサレムを占領する。十字軍は、騎士道やキリスト教精神を鼓舞することになったが、その過程でイスラムは悪魔や偽キリストによって吹聴された下賤な宗教というイメージが意図的につくられていく。こうしたいすあうのイメージはダンテの作品、「神曲 地獄篇」にも表れ、その中では体の不自由な預言者ムハンマドが、宗教の分裂を煽った者として、地獄でもの悲しげにしている様子が描かれている。他方、ムスリムの側では、十字軍との戦いの後、イスラム世界に居住するクリスチャンやユダヤ教徒に対する不寛容な処遇が一部で現れ、宗派別のハーラ(街区)がつくられ、異教徒に対する差別が行われる一つの背景となった。
・13世紀末に成立したオスマン帝国は急速に拡大し、1357年にダーダネルス海峡を越え、ガリポリ半島に入る。14世紀末までに、ギリシアやブルガリアなどビザンツ帝国の数州を支配下に置き、さらに1453年には、ビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルをも陥落させた。16世紀初頭になると、オスマン帝国はさらに拡大を続け、1517年にはシリアとエジプトを版図に組み入れる。また1526年にモハーチでのハンガリー王国との戦いに勝利すると、ハンガリーの大部分はオスマン帝国の支配下に入った。1529年にオスマン軍は不成功に終わったとはいえ、ウィーンを包囲し、さらに1534年には地中海でその強力な海軍はスペインやその他のヨーロッパ列強との戦争に従事するようになった。
・概してイスラム世界の人々は人懐っこく、外来の者に親切な人が多い。イスラム世界から来た人々は他人を思いやり、面倒見が良い。酷暑の気候の中で人々が暮らしていくためには、お互い助け合っていくしかないからだろう。よそから来た者たちをもてなそうとする姿勢は、砂漠の民ならではといえる生活習慣だ。
・イスラム世界の人々には、人懐っこく、気さくで、親切な人が多いのはなぜか。それは外からやってきた人間との接触が多い遊牧社会の伝統だからだ。イスラム世界は東西交通の中心に位置し、ヨーロッパやアジア、アフリカからやってきた人々との交流が途絶えることがなかった。また、イスラムは相互扶助を教える宗教である。外来の異教徒にも親切なムスリムの姿勢は、そうしたイスラムの教義に基づいている。「アッサラーム・アレイクム(あなたの上に平安あれ)」と言って抱き合うムスリムの挨拶には、「あなた元気ですか」「ご家族にお変わりありませんか」など多くの感情が込められている。親族の中に困った者がいれば、親族全体で面倒を見たり、助けたりする。あるいはイスラムの「喜捨」や「平等」の精神によって、地域のコミュニティ全体で困窮する人々に救いの手を差し伸べる。イスラムの根幹にあるのは、「助け合い」の精神である。イスラム世界の事情に疎い私たち日本人がイスラム世界を訪れると、ムスリムたちはとりわけ面倒を見たくなるのかもしれない。
・イスラム世界では陸路貿易が盛んに行われていた。インドやエジプト、イラクでは海路輸送が活発だったが、イスラム世界の交易の多くは陸路に依存していた。織物、陶磁器、貴金属、食料、香辛料、塩を、遠く離れた地域から買い求めなければならなかった。交易を担った隊商(キャラバン)の規模は、ラクダ・ラバが総数で1000頭を超えることもあった。遠来からやってきた商人が泊まる宿のことをサライと呼ぶ。一般的に、サライは方形で高い堀に囲まれ、施設の中央に中庭があり、商品の取引場、商品の倉庫としても使われた。
・イランの食文化は、中東イスラム世界の中でももっとも豊かなものだ。テヘランに3年ほど駐在経験がある新聞記者は、「いろいろ旅行してみてイラン料理がとりわけおいしいことを知りました」と話していた。焼肉料理であるキャバーブは中東イスラム世界のどこに行っても食べられるが、イランのキャバーブはとくに柔らかくて、ジューシーである。日本と同様、イランの主食はお米である。米の主要産地はカスピ海沿岸である。タイ米と同じ長粒種米だが、それほどぱさぱさした感じはしない。イランでもっとも一般的な料理は「チェロウ・キャバーブ」で、羊の焼肉に白飯、トマトやタマネギなどの焼野菜をつけたものである。
・イスラムのビジネス・タイムについても意識的であるべきだ。日本のビジネス界にとって重要なペルシア湾岸諸国のビジネス・タイムは1日2つにシフト分けされる。たいてい午前8時から午後1時まで働き、帰宅して昼食と昼寝をとり、そして会社に戻って午後4時から午後7時まで働くというケースが多い。市場(スーク)の店舗などはこの時間制をとっているか、あるいは、1シフト制の場合、午前7時から午後3時まえと決められている。日中の気温が摂氏50度を超えることもあるペルシア湾岸のアラブ人にとって、最も暑い時間帯は昼寝によって休息をとる時間だ。一見のんびりしているが、暑い時間に休息をとるイスラム世界の労働慣習は合理的であり、その点も日本人はよく心得るべきだろう。
<目次>
はじめに
第1章 イスラムの人々は義理・人情がお好き
日本と共通するメンタリティ
ネットで日本のポップカルチャーに接する若者たち
ドバイにある紀伊国屋書店の最大店舗
ドバイの「マンガ寿司」
日本をライバル視する中東のサッカー
柔道で中東に貢献
茶室をつくったアブダビの皇太子
和太鼓も人気
世界の安全保障に寄与する日本文化
第2章 イスラム世界で接した親日感情
日本とアフガニスタンは独立記念日が同じ?
アフガン支援を止めなかった中村医師
イラン人の親日感情
イランと日本の共通点
日本の中のペルシア文化
特別な友好関係にある日本とトルコ
イスタンブールの「乃木通り」「東郷通り」
旧ソ連イスラム系諸国でも
第3章 歴史の中で醸成された親日的心情
日土友好の礎となったトルコ軍艦救助
日露戦争勝利へ畏敬の念
日本での布教の先駆者たち
日本軍勝利に狂喜したエジプト国王
ヒロシマ・ナガサキへの同情
インドネシア独立戦争に参加した旧日本兵たち
ウズベキスタンで賞賛される拘留者たち
アルジェリア独立と気骨ある衆議院議員
イランにタンカーを送り込んだ出光
サウジ国王と直談判した「アラビア太郎」
先進国で初めてバングラデシュを国家承認
東南アジア諸国で圧倒的に高い親日感情
トルコ、エジプトでも高い好感度
「帰らないで」デモが起こった自衛隊サマーワ活動
弱者を救済する日本
第4章 イスラムは暴力的な宗教か?
理想とされたイスラム共同体による統治
異教徒に対するイスラム帝国の行政
「イスラムの家」と「戦争の家」
十字軍-歪曲されたイメージの始まり
オスマン帝国-キリスト教世界への重大な脅威
イスラムとヨーロッパの相克
「ジハード」の起源
暴力行使を容認したハワーリジュ派
中世のイスラム過激思想家
アラビア半島の復古運動ワッハーブ
ナショナリズムに抗する汎イスラム主義
現代における改革運動としてのイスラム
イスラム過激派への評価とアルジェリア事件
「サダム・フセインは地獄に行きます」
「アラブの春」、その後
第5章 遊牧民のもてなし文化
人懐っこく、気さくなムスリムたち
もてなしの原点、キャラバンサライ
イラン人の親切は家族を大切にする気持ちから
第6章 日本への注文
対イラン政策への提言
ソフトパワー行使の必要性
イスラムの習慣に不慣れな日本人
お昼寝・ハラール料理・土葬
日本への期待
第7章 中国、韓国との競合
最大のライバル・中国
サウジと中国との蜜月
メガ・プロジェクトに続々と参入する韓国
日本にしかない最強のカード「皇室」
おわりに
図表作成・クラップス
面白かった本まとめ(2013年下半期)
<今日の独り言>
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