<金曜は本の紹介>
「俺の後ろに立つな さいとう・たかを劇画一代(さいとうたかを)」の購入はコチラ
この本は、「ゴルゴ13」など劇画を連載している「さいとう・たかを」さんの自伝です。
厳しかった母の話や、いじめられっ子転じてガキ大将になったこと、漫画家デビュー、分業化への挑戦、劇画や映画のこと、流儀・持論等について書かれていて、とても参考になります。
またこの本で述べられていますが、ゴルゴ13を読んでいると私も「さいとう・たかを」さんは国際情勢のエキスパートなのかと思っていましたが、実はテレビ、新聞で報道されている程度の情報しか持ち合わせていないようで、まったくゴルゴ13はフィクションのようです。
「俺の後ろに立つな さいとう・たかを劇画一代」という本はとてもオススメです。
以下はこの本のポイントなどです!
・当時はまだ戦争帰りの男が多く、どこの家庭でも親父は怖い存在だったが、わが家のお袋はそれに引けを取るどころか、はるかに恐ろしかった。事実、近所の悪童たちも、わが家では、お利口さんにしていたものである。わが家では、口答えはおろか言い訳も一切許されない。たとえ、お袋が勘違いして、黒のものを白といっても、それは白でまかり通された。私は密かにそれを「お袋帝国主義」と呼んでいた。男3人女2人の子どもを女手一つで育てるという環境もあたが、元来、男勝りな気性で、身体も実際より大きく見えた。典型的な明治生まれの気性でけじめを重んじ、だらしないことが大嫌い。不始末をしでかせば容赦なく制裁が与えられた。わが家では鉄拳はあっても褒められることなど間違ってもなかった。
・いじめはまるで日課のように、くる日も来る日も続いた。学校では、一応、先生の目もあるだけに、表立ったいじめはなかったが、登下校時が修羅場となった。いかにいじめっ子たちと鉢合わせにならないように帰るか、そればかりを考えていた。そんな日々に終止符が打たれたのは、終戦後、一年が経った頃。いつものように近所のいじめっ子が絡んできた。きっと、その日はどうしていたのだろう。いつもだったら我慢してやり過ごすのだが、その時突如として感情が爆発した。勝てるとは思いもしなかった。ただ、がむしゃらにかかっていった。相手に隙があったのか、思わぬ反撃にひるんだのか、決着は意外なほど簡単についた。周囲にいたいじめっ子たちも、私の激しい怒りに怖気づき誰も止めようとはしなかった。その出来事を境目に私は大きく変貌した。何より「俺は強い」という自信がついた。きっと、態度も目つきも一変したのだろう。それまでいじめに加わっていた輩の誰ひとりとして突っかかってこようとはしなかった。それどころか、廊下の向こうにいても慌てて逃げるか、愛想笑いを浮かべ挨拶してきた。それでも許せるほど、こちらの度量はなかった。それほどひどい仕打ちを受けていたということだ。今度は下校時にこっちが追っかける番、同級生のいじめっ子らを次々とやっつけていった。やがて、6年生の番長と決着をつける時が来た。元々、体ががっしりとしていたのも幸いしたし、気持ちも強かった。2歳も年上の番長はあっけなく白旗を揚げた。以来、周囲に「コッテ牛」と怖れられ、やりたい放題。ただし、いじめだけはしなかったし、許さなかった。
・腕っぷしと悪知恵は誰にも負けなかったが、学業はからっきしだめだった。一方的に私の言い分を言わせてもらえば、私の理解するところまで授業してもらえなかった、そんな気分だ。最初のつまづきが、1+1=2というのだから、あとは推して知るべし。その時、先生が黒板に書いた二つの「1」の大きさが微妙に違ったのが、私の「何故」を刺激した。そこにある「1」は明らかに違うのに、答えは「2」というのが納得できなかった。わかりやすく言うなら、1つのリンゴと1つのリンゴを足せば2というのは理解できたとしても、1つのリンゴと1つのみかんを足しても2になるのか?万事その調子であるから九九など覚えられるはずもない。
・夜中に起きていることを悟られないように、電気スタンドを丹前で被って、そこに潜り込んで絵を描き続けた。それでもやがてお袋の知るところとなり、猛然と叱責された。しかし、この時ばkりは引き下がらなかった。初めてお袋に楯突き、漫画を描くと言い張った。その態度に面食らったのか、情熱が通じたのか、いずれにしても、一年やってダメだったら諦めるという条件つきで許された。以来、日中は理容師として働き、夜は猛然と漫画を描いた。そして、約束の期日まであとわずかというところで126枚の長編が完成した。これが大当たり。とんとん拍子に出版が決まった。自分でもあまりの展開に驚いたが、お袋はもっと驚いていたろう。
・事実、「ゴルゴ13」を映画化するという話が持ち上がった時点で、私は反対の立場を譲らなかった。しかし、作品のためにと大女優をも脱がしてしまう映画プロデューサーの説得力はさすがと言うほかない。ついに根負けし、しぶしぶではあったが承諾してしまった。ただし、こっちはこっちで2つの条件を出した。その1つ目が、撮影はオール海外ロケという約束。ご存知の通り、ゴルゴ13は世界を股に掛けるスナイパー、国内の安直な代替地で撮影なんて、とても許せない。そして2つ目が、ゴルゴ13は高倉健さん以外にないということだった。高倉健さんは個人的にファンでもあったし、仁侠映画での男っぷりはゴルゴに通じるものを感じていた。しかし、高倉健さんの演技力をもってしても、実写化は容易ではなかった。ゴルゴ13特有のキャラクターを人間が演じるというのは土台無理な話だった。高倉健さんも、それを醸し出すのには随分苦労されたようだが、その凍りつくような冷静さは生身の人間を超越しているということを証明してくれた。高倉健さんの苦労や莫大な費用を考え合わせると、頑なに断るべきだったと反省している。今後は、ややこしい思いを強いられるくらいなら、映像化なんてまっぴらごめんと断るであろう。
・「ゴルゴ13」の読者の中には、私が国際情勢のエキスパートのように思い込んでいる人が少なからず存在するようだ。なるほど、ゴルゴは一般には知られることのない陰謀渦巻く世界を仕事場としているのだから、さぞかしその道の情報に長けていると思われがちだが、テレビ、新聞で報道されている程度の情報しか持ち合わせていない。ましてや、どこの国の諜報機関が云々だとか、某国の内情にはこんな重大な問題が隠されているといった情報とは、まったくもって無縁である。たしかに、ゴルゴで描いたようなことが、現実に起こっている。それなのに、さいとう・たかをが何も知らないというのはおかしいと言われても、知らないものは知らないと言う他ない。そもそも、そうした知識がないほうが描きやすいというのがある。
・仕事に追われる毎日ではあるが、趣味として欠かさないのが映画鑑賞である。実益を兼ねてというのもあるが、こればっかりは「3度の飯より映画」と言っていいぐらいで、寝る時間を惜しんでも楽しんでいる。これは多分に親の影響で、子どもの頃からよく連れて行ってもらった。もともとは趣味人の親父の道楽がお袋に伝染し、苦しい家計をやりくりしてはいそいそ出かけていた。きっとお袋も3度の飯よりの口だったのだろう、私が初めて映画に触れたのはお袋の背中におんぶされてのことだった。以来、アルバイトで稼ぐようになるまで、お袋はまめに私を映画館に連れて行ってくれた。うるさいだけの子どもをよく連れていってくれたものだ。それを問い質すと、私はよその子どものように泣いたり、わめいたりしなかったらしい。それどころか、大人向けの映画を飽きもせず見ていたそうだ。
・映画の使命は、作り物と知った上で足を運ぶ観客をいかに作り手の世界観に引きずり込んで、実しやかに見せるかである。それこそ映画というメディアの持つ最大の武器と言えよう。そういった観点から総合判断すると、最高傑作は1933年のアメリカ映画「キングコング」をおいて他にない。20年ほど前に私がそれを公言すると、怪訝な表情を浮かべ、映画の王道ではないという者もいた。しかし、ハリウッドは、その奇想天外な面白さに着目し、何度もリメイク版を製作したではないか。
・誰がなんと言おうとも、人生は楽しむものだ。仕事でもプライベートでも悩みは尽きないが、ふりかかる火の粉も、はたまた幸運も、我が人生だからこその物種と、前向きに取り組んで生きている。
・物事を謙虚に受け止めて今日を健康に生きていることに感謝する気持ちがあれば、幸福は身近に感じるものだ。自分の置かれた境遇の粗探しをするのではなく、自分なりの価値観を見出す。謙虚な気持ちでいいところ探しをすれば、おのずと幸福になるための原点が見えてくるものだ。私の場合、いいことも悪いことも真正面から受け止めている。そうすることで、いろんな反応をする自分を発見できる。それがたとえ損をすることでも、そんな状況に立たされた自分を知ったのは得と考えれば相殺もできる。それが私の価値観なのである。極楽トンボと揶揄されるが、おかげで不幸だと思ったことは一度たりともなく、大いに満足しながら日々を過ごしている。
・それでも我が身に起こった災難をただ嘆き、呪っていたのでは、男の沽券に関わるというものだ。不謹慎かもしれないが、ここは目が見えないという状況を知る絶好のチャンスと開き直ってみた。すると不思議なことに、目の前にあるであろう情景が頭の中にg増として浮かび上がるようになった。見た覚えもない病室の間取りや壁の色を看病の物に言い当ててみせると、皆一様に驚いた。いわゆる第六感が鋭く働き出したのだ。どうせ他にやることはなにもないのだ。私は聞こえてくる声や物音に神経を集中させた。すると、次第におおよその部屋の広さが想像できるようになった。そこまでとぎすまされるとどんどん想像力は高まり、いろんな物が見え出した。気晴らしに見舞い客が持ってきてくれた花の色を当てたり、どんな詰め合わせの果物を持ってきたかを当てたりして楽しんだ。この居直りの精神が功を奏した。実はのんきな私をよそに、スタッフたちは、この入院で仕事に穴が開くのではと気をもんでいたのだ。分業化はこんな時のためでもあったのだが、まさか私が欠けるというのは想定外の出来事だった。そんな危機を救ってくれたのが、不自由から生まれた思わぬ能力だった。健常児には頭に描いて覚えていられる構成はせいぜい10ページ前後だったものが、イメージ力がアップしていたおかげで、80ページ分を頭の中にインプットでき、いつでもアウトプットできた。身体が不自由になると、別の機能が発達し、失った機能を補うように働き出すと言われるが、まさにそれが起こったのだ。
<目次>
第1章 原風景
お袋帝国主義
いじめられっ子転じて
ゴルゴの原点
学業はからっきし
絵の師匠
理容学校へ
大阪デビュー、そして、東京進出
劇画工房結成
分業化への挑戦
時代の先取り
大人向けコミック誌の時代
第2章 劇画
コマの構成法
映画的演出法
劇画と映画
「ゴルゴ13」の映画化
キャラクターの育て方
知らぬが仏
ストーリーづくり
ゴルゴは悪のヒーローではない
第3章 シネマ
三度の飯より映画
最高傑作「キングコング」
映画・テレビ論
日本映画はなぜ衰退したか
映画は面白くてナンボ
気分は映画監督
第4章 流儀
幸福論
テレビの代償
父性愛は人間愛である
ガマンという嗜み
人類宇宙人説
ダイヤよりガラス
趣味「仕事」
偉大なるゼロ
旅の醍醐味
美の探究
好きな歴史的人物
血液型分類法
第5章 持論
教育論
科学技術の進歩と生命力
権力に永遠はない
社会主義国日本
政(まつりごと)
大阪人と東京人
コミック文化論
さいとう・たかを 年表
作品年表
「戦友」さいとう・たかを氏 藤子不二雄?
あとがき
面白かった本まとめ(2010年上半期)
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この本は、「ゴルゴ13」など劇画を連載している「さいとう・たかを」さんの自伝です。
厳しかった母の話や、いじめられっ子転じてガキ大将になったこと、漫画家デビュー、分業化への挑戦、劇画や映画のこと、流儀・持論等について書かれていて、とても参考になります。
またこの本で述べられていますが、ゴルゴ13を読んでいると私も「さいとう・たかを」さんは国際情勢のエキスパートなのかと思っていましたが、実はテレビ、新聞で報道されている程度の情報しか持ち合わせていないようで、まったくゴルゴ13はフィクションのようです。
「俺の後ろに立つな さいとう・たかを劇画一代」という本はとてもオススメです。
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・当時はまだ戦争帰りの男が多く、どこの家庭でも親父は怖い存在だったが、わが家のお袋はそれに引けを取るどころか、はるかに恐ろしかった。事実、近所の悪童たちも、わが家では、お利口さんにしていたものである。わが家では、口答えはおろか言い訳も一切許されない。たとえ、お袋が勘違いして、黒のものを白といっても、それは白でまかり通された。私は密かにそれを「お袋帝国主義」と呼んでいた。男3人女2人の子どもを女手一つで育てるという環境もあたが、元来、男勝りな気性で、身体も実際より大きく見えた。典型的な明治生まれの気性でけじめを重んじ、だらしないことが大嫌い。不始末をしでかせば容赦なく制裁が与えられた。わが家では鉄拳はあっても褒められることなど間違ってもなかった。
・いじめはまるで日課のように、くる日も来る日も続いた。学校では、一応、先生の目もあるだけに、表立ったいじめはなかったが、登下校時が修羅場となった。いかにいじめっ子たちと鉢合わせにならないように帰るか、そればかりを考えていた。そんな日々に終止符が打たれたのは、終戦後、一年が経った頃。いつものように近所のいじめっ子が絡んできた。きっと、その日はどうしていたのだろう。いつもだったら我慢してやり過ごすのだが、その時突如として感情が爆発した。勝てるとは思いもしなかった。ただ、がむしゃらにかかっていった。相手に隙があったのか、思わぬ反撃にひるんだのか、決着は意外なほど簡単についた。周囲にいたいじめっ子たちも、私の激しい怒りに怖気づき誰も止めようとはしなかった。その出来事を境目に私は大きく変貌した。何より「俺は強い」という自信がついた。きっと、態度も目つきも一変したのだろう。それまでいじめに加わっていた輩の誰ひとりとして突っかかってこようとはしなかった。それどころか、廊下の向こうにいても慌てて逃げるか、愛想笑いを浮かべ挨拶してきた。それでも許せるほど、こちらの度量はなかった。それほどひどい仕打ちを受けていたということだ。今度は下校時にこっちが追っかける番、同級生のいじめっ子らを次々とやっつけていった。やがて、6年生の番長と決着をつける時が来た。元々、体ががっしりとしていたのも幸いしたし、気持ちも強かった。2歳も年上の番長はあっけなく白旗を揚げた。以来、周囲に「コッテ牛」と怖れられ、やりたい放題。ただし、いじめだけはしなかったし、許さなかった。
・腕っぷしと悪知恵は誰にも負けなかったが、学業はからっきしだめだった。一方的に私の言い分を言わせてもらえば、私の理解するところまで授業してもらえなかった、そんな気分だ。最初のつまづきが、1+1=2というのだから、あとは推して知るべし。その時、先生が黒板に書いた二つの「1」の大きさが微妙に違ったのが、私の「何故」を刺激した。そこにある「1」は明らかに違うのに、答えは「2」というのが納得できなかった。わかりやすく言うなら、1つのリンゴと1つのリンゴを足せば2というのは理解できたとしても、1つのリンゴと1つのみかんを足しても2になるのか?万事その調子であるから九九など覚えられるはずもない。
・夜中に起きていることを悟られないように、電気スタンドを丹前で被って、そこに潜り込んで絵を描き続けた。それでもやがてお袋の知るところとなり、猛然と叱責された。しかし、この時ばkりは引き下がらなかった。初めてお袋に楯突き、漫画を描くと言い張った。その態度に面食らったのか、情熱が通じたのか、いずれにしても、一年やってダメだったら諦めるという条件つきで許された。以来、日中は理容師として働き、夜は猛然と漫画を描いた。そして、約束の期日まであとわずかというところで126枚の長編が完成した。これが大当たり。とんとん拍子に出版が決まった。自分でもあまりの展開に驚いたが、お袋はもっと驚いていたろう。
・事実、「ゴルゴ13」を映画化するという話が持ち上がった時点で、私は反対の立場を譲らなかった。しかし、作品のためにと大女優をも脱がしてしまう映画プロデューサーの説得力はさすがと言うほかない。ついに根負けし、しぶしぶではあったが承諾してしまった。ただし、こっちはこっちで2つの条件を出した。その1つ目が、撮影はオール海外ロケという約束。ご存知の通り、ゴルゴ13は世界を股に掛けるスナイパー、国内の安直な代替地で撮影なんて、とても許せない。そして2つ目が、ゴルゴ13は高倉健さん以外にないということだった。高倉健さんは個人的にファンでもあったし、仁侠映画での男っぷりはゴルゴに通じるものを感じていた。しかし、高倉健さんの演技力をもってしても、実写化は容易ではなかった。ゴルゴ13特有のキャラクターを人間が演じるというのは土台無理な話だった。高倉健さんも、それを醸し出すのには随分苦労されたようだが、その凍りつくような冷静さは生身の人間を超越しているということを証明してくれた。高倉健さんの苦労や莫大な費用を考え合わせると、頑なに断るべきだったと反省している。今後は、ややこしい思いを強いられるくらいなら、映像化なんてまっぴらごめんと断るであろう。
・「ゴルゴ13」の読者の中には、私が国際情勢のエキスパートのように思い込んでいる人が少なからず存在するようだ。なるほど、ゴルゴは一般には知られることのない陰謀渦巻く世界を仕事場としているのだから、さぞかしその道の情報に長けていると思われがちだが、テレビ、新聞で報道されている程度の情報しか持ち合わせていない。ましてや、どこの国の諜報機関が云々だとか、某国の内情にはこんな重大な問題が隠されているといった情報とは、まったくもって無縁である。たしかに、ゴルゴで描いたようなことが、現実に起こっている。それなのに、さいとう・たかをが何も知らないというのはおかしいと言われても、知らないものは知らないと言う他ない。そもそも、そうした知識がないほうが描きやすいというのがある。
・仕事に追われる毎日ではあるが、趣味として欠かさないのが映画鑑賞である。実益を兼ねてというのもあるが、こればっかりは「3度の飯より映画」と言っていいぐらいで、寝る時間を惜しんでも楽しんでいる。これは多分に親の影響で、子どもの頃からよく連れて行ってもらった。もともとは趣味人の親父の道楽がお袋に伝染し、苦しい家計をやりくりしてはいそいそ出かけていた。きっとお袋も3度の飯よりの口だったのだろう、私が初めて映画に触れたのはお袋の背中におんぶされてのことだった。以来、アルバイトで稼ぐようになるまで、お袋はまめに私を映画館に連れて行ってくれた。うるさいだけの子どもをよく連れていってくれたものだ。それを問い質すと、私はよその子どものように泣いたり、わめいたりしなかったらしい。それどころか、大人向けの映画を飽きもせず見ていたそうだ。
・映画の使命は、作り物と知った上で足を運ぶ観客をいかに作り手の世界観に引きずり込んで、実しやかに見せるかである。それこそ映画というメディアの持つ最大の武器と言えよう。そういった観点から総合判断すると、最高傑作は1933年のアメリカ映画「キングコング」をおいて他にない。20年ほど前に私がそれを公言すると、怪訝な表情を浮かべ、映画の王道ではないという者もいた。しかし、ハリウッドは、その奇想天外な面白さに着目し、何度もリメイク版を製作したではないか。
・誰がなんと言おうとも、人生は楽しむものだ。仕事でもプライベートでも悩みは尽きないが、ふりかかる火の粉も、はたまた幸運も、我が人生だからこその物種と、前向きに取り組んで生きている。
・物事を謙虚に受け止めて今日を健康に生きていることに感謝する気持ちがあれば、幸福は身近に感じるものだ。自分の置かれた境遇の粗探しをするのではなく、自分なりの価値観を見出す。謙虚な気持ちでいいところ探しをすれば、おのずと幸福になるための原点が見えてくるものだ。私の場合、いいことも悪いことも真正面から受け止めている。そうすることで、いろんな反応をする自分を発見できる。それがたとえ損をすることでも、そんな状況に立たされた自分を知ったのは得と考えれば相殺もできる。それが私の価値観なのである。極楽トンボと揶揄されるが、おかげで不幸だと思ったことは一度たりともなく、大いに満足しながら日々を過ごしている。
・それでも我が身に起こった災難をただ嘆き、呪っていたのでは、男の沽券に関わるというものだ。不謹慎かもしれないが、ここは目が見えないという状況を知る絶好のチャンスと開き直ってみた。すると不思議なことに、目の前にあるであろう情景が頭の中にg増として浮かび上がるようになった。見た覚えもない病室の間取りや壁の色を看病の物に言い当ててみせると、皆一様に驚いた。いわゆる第六感が鋭く働き出したのだ。どうせ他にやることはなにもないのだ。私は聞こえてくる声や物音に神経を集中させた。すると、次第におおよその部屋の広さが想像できるようになった。そこまでとぎすまされるとどんどん想像力は高まり、いろんな物が見え出した。気晴らしに見舞い客が持ってきてくれた花の色を当てたり、どんな詰め合わせの果物を持ってきたかを当てたりして楽しんだ。この居直りの精神が功を奏した。実はのんきな私をよそに、スタッフたちは、この入院で仕事に穴が開くのではと気をもんでいたのだ。分業化はこんな時のためでもあったのだが、まさか私が欠けるというのは想定外の出来事だった。そんな危機を救ってくれたのが、不自由から生まれた思わぬ能力だった。健常児には頭に描いて覚えていられる構成はせいぜい10ページ前後だったものが、イメージ力がアップしていたおかげで、80ページ分を頭の中にインプットでき、いつでもアウトプットできた。身体が不自由になると、別の機能が発達し、失った機能を補うように働き出すと言われるが、まさにそれが起こったのだ。
<目次>
第1章 原風景
お袋帝国主義
いじめられっ子転じて
ゴルゴの原点
学業はからっきし
絵の師匠
理容学校へ
大阪デビュー、そして、東京進出
劇画工房結成
分業化への挑戦
時代の先取り
大人向けコミック誌の時代
第2章 劇画
コマの構成法
映画的演出法
劇画と映画
「ゴルゴ13」の映画化
キャラクターの育て方
知らぬが仏
ストーリーづくり
ゴルゴは悪のヒーローではない
第3章 シネマ
三度の飯より映画
最高傑作「キングコング」
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日本映画はなぜ衰退したか
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幸福論
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科学技術の進歩と生命力
権力に永遠はない
社会主義国日本
政(まつりごと)
大阪人と東京人
コミック文化論
さいとう・たかを 年表
作品年表
「戦友」さいとう・たかを氏 藤子不二雄?
あとがき
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