富山県の高岡市を観光のために新幹線で新高岡駅に午前中に着いた後は、このブログでそれぞれ紹介しましたが、以下の順で観光を楽しみました♪
1 国宝 瑞龍寺
2 日乃出寿司(富山湾鮨)でランチ
3 高岡大仏
4 高岡城跡(高岡古城公園)や高岡市立博物館
5 高岡市 藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー(高岡市美術館2階)
そして新高岡駅でレンタルした自転車で、西の方へ向かいました。
高岡鋳物発祥の地である金屋町や、土蔵造りの商人町である山町筋は昔の町並みが残っていてなかなか良く、高岡関野神社、高岡の近代水道発祥の地である水道公園など行ってみたのですが、山町筋近くの二番町に高峰譲吉(たかみね じょうきち)博士生誕の地である高峰公園があり、そこにその博士の生い立ちをまとめた「たかしん高峰記念館」がとても良かったので紹介したいと思います♪
まず「たかしん高峰記念館」の左側にある高峰公園を紹介したいと思います♪
↑高峰公園
高峰公園の入口には高峰譲吉博士の簡単な解説がありましたね。
高峰譲吉博士は、幕末にここ高岡市で生まれ(1854~1922年(大正11年))、父親は加賀藩御典医だったようです。
アドレナリンの結晶化と、でんぷん分解酵素のタカジアスターゼの創製で、世界の医学、薬学に大きく貢献し、科学振興や日米親善にも尽力していたとは知りませんでしたね。
場所は、JR高岡駅と金屋町の間で、山町筋や高岡郵便局の近くとなります。
近くには関野神社もあります。
↑周辺地図
公園内には胸像と、少し詳細な高峰譲吉博士の解説もありました。
↑博士の胸像
↑博士の解説
そして生誕の地の石碑もありましたね。
↑生誕の地の石碑
公園は市民の憩いの場となっていました。
この公園は大正13年に高岡市に寄付され公園となったようです。
次に、たかしん高峰記念館へ入りました。
入場無料です。
↑入口
たかしん高峰記念館はそんなに広くはありませんが、高峰譲吉博士の生い立ちがかなり詳しく分かりやすくカラーでも説明があり素晴らしかったですね♪
↑たかしん高峰記念館の中
実は高峰譲吉博士のお墓はニューヨーク市郊外のウッドローン墓地にあり、主にアメリカで活躍したようで、そこには以下が書かれているとのことです。
「世界で最初のでんぷん分解酵素(タカジアスターゼ)を1896年に開発したことにより「近代バイオテクノロジーの父」として尊敬を集め1901年にはアドレナリンを世界で初めて分離した。また有名なワシントンの桜をアメリカに寄贈を主動したのも博士である。」
素晴らしい功績ですね。
それだけでなく高峰譲吉博士の功績をまとめると以下があるとのことです。
・科学者
・発明家
・起業家
・慈善家
・官僚
・指導者
・民間大使
↑高峰譲吉博士の功績
そして生い立ちの説明からありました。
7歳から加賀藩藩校の明倫堂で学び、11歳の時に留学生に選ばれ、長崎で3年間英語等を学んだようです。
当時から俊才だったようで、長崎の致遠館での同窓生には小村寿太郎(外務大臣)、大隈重信(総理大臣)らがいるとはさすがですね。
後の東京大学工学部である工部大学校の第1期生でもあり主席で卒業したとは秀才です。
そして英国に入学したようです。
↑高峰譲吉博士の生い立ち
1883年に英国留学から帰国すると農商務省の役人として日本の工業化に努めたようです。
1884年にはアメリカのニューオーリンズで開催された万国産業博覧会に事務官として派遣され1年間滞在します。
そこで展示されていたリン鉱石に着目し、自費で購入して日本に持ち帰り、これが日本最初の人造肥料会社設立につながったとは素晴らしいです。
また万博期間中に下宿したヒッチ家の令嬢キャロラインと婚約して、3年後に再訪して結婚式を挙げ、欧米工業視察旅行とハネムーンを兼ねて8ヶ月も世界各地を周ったとはすごいですね。
↑農商務省とパイオニア精神のめざめ
また帰国後に特許・商標制度の確立にも尽力したとは素晴らしいです。
↑特許・商標制度の確立にも尽力
アメリカから過リン酸石灰6トン、リン鉱石を4トンを自費で買い付け日本に持ち帰り、渋沢栄一や三井財閥の大番頭益田孝に出資を仰いで、日本最初の人造肥料会社として、東京の深川・釜屋堀(都営新宿線の住吉駅近く)に「東京人造肥料会社」を創立していたとは驚きました。
その釜屋堀公園には化学肥料発祥の地として記念碑があるとのことなので後日行って来たので、それは後ほど紹介致します。
↑人造化学肥料会社設立
↑年表
また高峰譲吉博士は、肥料製造に専念している間にも、日本の伝統的発酵技術の研究を続け、麹菌を利用してアルコールを造るという特許を英国や、フランス、ベルギー、アメリカで取得し、アメリカのウイスキー会社であるウイスキートラスト社(イリノイ州ピオリア)により現地にて技術指導をして欲しいと依頼され、渋沢栄一の励ましもあり家族で渡米します。
しかし新しい醸造方法は画期的なものであり、現地製造業者は自分たちの食を失う危機感から猛反発を受け、また不審火で実験棟が焼失し、また持病の肝臓疾患で入院するという悲運にも見舞われ挫折を味わうようです。
↑海外特許成立等
それでも色々な研究に専念し、麹菌が持つ強力な酵素ジアスターゼを別の形で活用できないかと探っていると、体内の胃袋でもこの酵素が作用し、食物のでんぷんを消化する働きがあることを突き止め、胃腸薬タカジアスターゼの工業生産法を完成させたようです。
しかも低コストで効率的に生産が可能となるメリットもあったようです。
そのためすぐ特許を得て、当時世界最大の製薬会社パーク・デイヴィス社と契約を交わし、「TAKA-DIASTASE(タカジアスターゼ)」という商標で粉末胃腸薬を主体として発売し、たちまち幼児から大人まで使える人気商品となったようです。
↑タカジアスターゼ製造等
↑タカジアスターゼ製造等
その「タカジアスターゼ」はほどなく米国だけでなく、ヨーロッパでも人気商品となり、日本に限っては塩原又策にその販売権を委ね、これが三共商店の始まりであり、日本を代表する製薬企業、第一三共株式会社の原点となったとは知りませんでしたね。
↑三共商店等
それから44年に渡り20人を超える研究者が失敗し続けた「アドレナリンの単離・結晶化」も世界初で成し遂げたとは素晴らしいです♪
↑世界初のアドレナリンの抽出結晶化
↑アドレナリン等
また、高峰譲吉は、日米親善に大きく貢献していたとは知りませんでしたね。
1904年に日露戦争が始まると、ロシア寄りだったアメリカ世論を日本の味方につけるために自費を投じ、妻キャロラインと一緒に民間大使として様々な活動を展開したようです。
活動の一歩として、戦争開始の1ヶ月後、ニューヨーク・プレス紙に全段抜きの寄稿記事を、世界的に有名だった北里柴三郎と自身の写真とともに掲載したようです。
その記事には、日本人がいかに平和を愛しているか、その証として江戸時代の鎖国から明治維新を説き、わずか30数年で科学、技術、産業をいかに発展させてきたかを分かりやすく伝えたようです。
そのほか日露戦争のポーツマス講和会議日本代表団の激励をしていますが、その時には同窓の全権大使の小村寿太郎や、金子堅太郎等とも会っているようです。
↑日米親善等
それからトヨタグループの原点である豊田佐吉ともニューヨークで会っていたんですね。
豊田佐吉を発明家としてかなり激励し、そして今のトヨタグループがあるようです。
また日本初のプラスチック事業にも関わっていたとは素晴らしいです。
↑豊田佐吉との出会いや日本初のプラスチック事業
それから日米友好の平和のシンボルとして、紆余曲折はありましたが、桜の寄贈をワシントンやニューヨークに行い、今では名物となっているようです。
↑桜の寄贈
そして日本では理化学研究所設立の提案や、北陸の電源開発とアルミニウム産業の提案をしていたとは素晴らしいですね♪
↑理化学研究所設立の提案等
高峰譲吉は、晩年は日本に帰りたかったようですが、渋沢栄一らから日米親善のためにどうにかアメリカに留まって欲しいと説得を受け、最期まで日本のためにアメリカで活動を続けたようです。
1921年の第一次世界大戦後の軍縮問題を討議したワシントン会議でも、病を押して乗り込みましたが、会期の最中に力尽きて倒れ、そのまま1922年(大正11年)7月22日にその67年の生涯をニューヨークで閉じたとのことです。
↑晩年
たかしん高峰記念館は、高峰譲吉博士の素晴らしい人生を分かりやすくよく理解でき、歴史の勉強にもなりとてもオススメです!
後日、東京の深川・釜屋堀公園(都営新宿線の住吉駅近く)に行ってきました♪
そこは高峰譲吉も関わった日本最初の人造肥料会社「東京人造肥料会社」が創立され、現在は化学肥料発祥の地として記念碑がある所ですが、実際にその記念碑があり嬉しかったですね♪
↑釜屋堀公園
公園の入口には石碑があり、明治20年に創業されたことが書かれていて、この公園は昭和19年5月に開園されたようです。
戦時中に石碑や公園が造られたとは驚きましたね。
↑石碑
公園の中にも石碑がありました♪
↑公園の中
↑石碑
↑石碑拡大
この石碑には、渋沢栄一や益田孝、高峰譲吉の名前も見えますね。
空中窒素固定工業で肥料ができるまでは、高峰譲吉らの過リン酸肥料で農業生産が飛躍的増大し国民の食糧確保に絶大なる貢献をしたようです。
石碑の下には、野菜も描かれ、それら肥料により稲や大根、カボチャ、イモ、ほうれん草?などが育ったようです。
ただ、大正12年の関東大震災によりこの地の工場は壊滅しそのままとなったようですね。
↑石碑
この石碑によると、高峰譲吉らの肥料は窒素とリン酸、カリウムによって造られたようです。
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