浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

国家

2015-11-23 23:04:34 | 日記
 ずっと昔、岩波書店から『転換期における人間』という全11巻の講座が発行された。ボクはそれを、書店からもらった。注文した人が、中途解約したらしい。ボクが注文した本ではないので、今まで書庫にしまったままだった。

 一昨日、書庫から取り出して、そのなかの一巻「国家とは」の月報を読みはじめた。最初は、立松和平さんの文だ。彼は与那国島にサトウキビ畑に働きに来ていた。
 与那国島、そこは台湾の隣の島である。だから当然、台湾と与那国島の住人とは、昔行き来が頻繁だったという。当たり前だ。隣の島だからだ。

 彼は末尾にこう記す。

 与那国島からの視座で見るかぎり、島の前と台湾との間の国境線は、ただ理不尽なものなのである。

 1970年代はじめ、ウェールズの木賃宿に宿泊した川北稔さんは、その宿の息子さんと英語で会話したという。会話中、その妹が出てきたので英語で話しかけたら、息子さんが「妹はまだ学校に行っていないので、ウェールズ語しか話せないんだ」といわれたそうだ。イギリスの「国民国家」は、20世紀後半においても、確立していなかった。

 片倉もとこさんは、遊牧アラブのことを記す。国境というものを意識していない。国境をこえる彼らの日常の生活圏は、300~400㌔もの行動半径があるという。

 「地球的規模をもつウンマ(宗教共同体)の確立をめざすイスラーム世界においては、国家は、小さな存在となる」「かれらのアイデンティティは、国家とは関係なく、イスラームによって確立している」

 なるほど、西欧的概念でイスラーム世界をみてはいけないというわけだ。

 そのイスラーム世界が、相互に殺しあっている。それはなぜか、が問われている。

 この本は、1989年の出版である。それからの変化は、急激だ。この時代が牧歌的に見えてくる。
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文を読む

2015-11-23 19:44:53 | 日記
 最近二人の人が書いた文を読んだ。

 一つは、「第五福竜丸事件」に関するものだ。その文は一応テーマに沿って書いているように見えるが、その内容は、「ボクはこれも知っているんだ」、「こういう本も読んだんだ」と、テーマに関わる(関わっていなくても牽強付会で)森羅万象についてとにかく言及していくというスタイルのものだ。まさに衒学的な文。以前のような超悪文ではない(悪文がなくなったわけではない)が、文の性格は変わっていない。要するに、何をあなたはこの論文で解き明かしたの?と尋ねても、その答えが返ってこないというものだ。要するに、結論がない。主に歴史の過程だけが記されてそれでおしまい。つけられたグラフなども、なくてもよいものだ。

 付記 もう少し読んでみたら、一文が長いので主語がなくなったり、主述の呼応が狂ったり、最初から主語がなかったり・・・この本、編集委員の審査があるというのに、なぜ?と思ってしまう。

 もう一つは、笠原十九司氏の『海軍の日中戦争』(平凡社)。これは名著である。証明すべきことを、様々な史資料を駆使して、明確に示す。おそらく笠原氏がこの本で主張したことは、誰も否定できないだろう(少しの事実の確定において、異論が出ることはあり得るが、総体としてその主張は裏付けられている)。同書の帯には、「日中戦争を対米英戦の実戦演習ととらえ、南進と大規模な空爆を決行、さらなる泥沼化を進めたのは海軍だった。国の命運より組織的利益を優先させ、ついにはアジア太平洋戦争へ。東京裁判でつくり上げられた「海軍免責論」「海軍神話」に真っ向から挑む力作」とある。
 まさにその通りの書である。実証的な本。

 問題意識が鋭角的でないと、文は空中分解を起こしかねない。とくに長文の場合。

 笠原氏はもちろん鋭角的。前者は、鈍角。

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何があっても、どんな政治をしても・・・

2015-11-23 15:03:36 | 政治
 ひょっとしたら、日本は大いなる保守国家へと変貌を遂げようとしているのではないか。その先端には、ultranationalistにより構成される安倍政権がいる。

 ふつうに視ていれば、原発事故をはじめ、国民にとっての「悪政」は、自民党と公明党がつくりだしたものだ。しかし、それでも、自民党は強くなっているようだ。国政では選挙制度の問題が大きいが、それだけではなく日本全体が地殻変動を起こしているのではないか。それを見つめるべきなのではないか、と、下記のニュースを見て思った次第である。

 『河北新報』の記事(一部)

 <選挙分析>東北県議、自民公認が過半数

 ことし4~11月に実施された東北6県の県議選で当選した議員(総定数300)の党派別構成比は自民公認が50.7%を占め、1999年以降の過去5回で初めて過半数に達したことが、河北新報社の集計で分かった。民主が12.0%、共産が7.3%で続いた。

 公明は4.0%、社民は2.7%、生活は2.0%、維新は0.3%、諸派は1.3%だった。無所属は19.7%となっている。


http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201511/20151123_71030.html
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大阪の選択

2015-11-23 08:23:37 | 政治
 大阪の人たちは、1930年代のドイツ人と同じような選択をした。

 大阪は、大阪人としてのプライドを持つ。大阪に住んでいた人びとが浜松に移転してきても、大阪弁を手放そうとはしない。「大阪からいらしたんですか?」という問いに、大喜びで「はい、・・・・・」と説明する。

 しかし誇るべき大阪も、低迷は続く。経済的にも低迷している。「もうかりまっか?」ということばに即する「カネ儲け」が、資産家でないとできなくなっている。「東京一極集中」で、関西系の企業も本社を東京に移す。大阪は地盤沈下する、それもあらゆる面で。

 浜松から関西の大学に進学しても、就職は東京圏という者も多い。

 さて、プライドをもつ関西人に対して、橋下らは「おおさか維新の会」という政党名でアピールしようとした。大阪人は、中身なんかどうでも良いのだ。みずからのプライドを満足させ、「おおさか」を発信する政治グループに、みずからの欲求不満の解消を託したのだ。

 冷静に考えれば、客観的に調べれば、橋下らが行ってきた政治は、大阪を経済的にも、文化的にも、あらゆる面で悪化させるものであった。しかし、人びとはそうした変化が、橋下らによる政治の結果だとは思わない。

 1930年代のドイツ人。第一次大戦の敗戦が突然降りかかり、多額の賠償金を課せられ、スーパーインフレに人びとは苦しめられた。そうした鬱屈した状況の中、ドイツ人の誇りを取り戻そうと、ファシストたちがやってきた。ドイツ国民は、最初は少し、そして次々とファシストを支持するようになり、ヒトラー政権をつくりだした。

 日本人は、そして大阪人は特に、歴史に学ばない。だから、ルサンチマンを晴らす方法としてのファシスト政治勢力の選択は、実は予想されたことだ。

 このような流れが日本全国に広まっていったとき、日本は1930年代のドイツの悲劇をくり返すことになる。安倍らが率いるultranationalistの席捲が予想される。ultranationalistらは、すでに地域に根をはって来ている。

 日本の良識ある人びとよ、警戒せよ。1930年代のドイツ史を学び、そこから教訓を得て、二度と再び同じ悲劇をくり返させないようにしなければならない。


 
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