ジョアン・スファールという人が、Instagramにメッセージを投稿したという。それがはフィントンポストに掲載されている。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/11/15/charlie-hebdo-cartoonist-instagram_n_8567374.html?utm_hp_ref=japan
ボクはそれを読んだ。そこにボクは、フランス人の独善を感じる。今度のテロで、多くの人が殺された。痛ましいし、許されないことだ。こういうテロにボクは反対する。やめて欲しい!
だが、ボクはいつも思う。人間のいのちの重さは、本当は等しくなければならないのに、実際は違うということを。
今、欧米のメディアは、パリのテロ事件を大きく報じている。そこで殺された人たちのことを悼み、悲しみに沈む人びとを映し出している。
だが、シリアでも、パレスチナデモ、イラクでも、中東では日常的に多くの人が殺されている。その数は、今度のテロ事件を大きく上回る。だけど、それはほとんど報じられない。
ジョアンは、「最後に勝つ人は」、「誰かを愛する人、人生を愛する人」だという。そういう人は、中東にもいっぱいいる。それら、「誰かを愛し」、「人生を愛する」人びとが、殺され続けている。「勝つ」よりも以前に、いのちを絶たれているのだ。
シリアの激しい内戦。アサド政権を倒したい人びとに、いろいろな支援をしてきたのはフランスではなかったか。内政(内戦)に干渉し、シリアを安心して住めない国にしたのは誰なのか。
欧米の眼は、非欧米の人びとをしっかりと見ていない、見ようともしない。今までもずっと見てこなかった。
そこに住む人びとと、同じ目線で見ようではないか。そうすることによって、はじめて解決の糸口が見えてくるのではないか。
空からの爆弾やミサイルは、何も解決しない。その他の武器や銃弾も、何も解決はしない。解決、それは人びとが非武装で、同じ大地に立ち、見つめ合うところから生まれるはずだ。
何処に生まれたか、いかなる宗教を持つかなんてどうでもよい、皮膚の色が何色であろうとも、ことばが違おうとも、誰だって「誰かを愛し」「人生を愛する」のだ。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/11/15/charlie-hebdo-cartoonist-instagram_n_8567374.html?utm_hp_ref=japan
ボクはそれを読んだ。そこにボクは、フランス人の独善を感じる。今度のテロで、多くの人が殺された。痛ましいし、許されないことだ。こういうテロにボクは反対する。やめて欲しい!
だが、ボクはいつも思う。人間のいのちの重さは、本当は等しくなければならないのに、実際は違うということを。
今、欧米のメディアは、パリのテロ事件を大きく報じている。そこで殺された人たちのことを悼み、悲しみに沈む人びとを映し出している。
だが、シリアでも、パレスチナデモ、イラクでも、中東では日常的に多くの人が殺されている。その数は、今度のテロ事件を大きく上回る。だけど、それはほとんど報じられない。
ジョアンは、「最後に勝つ人は」、「誰かを愛する人、人生を愛する人」だという。そういう人は、中東にもいっぱいいる。それら、「誰かを愛し」、「人生を愛する」人びとが、殺され続けている。「勝つ」よりも以前に、いのちを絶たれているのだ。
シリアの激しい内戦。アサド政権を倒したい人びとに、いろいろな支援をしてきたのはフランスではなかったか。内政(内戦)に干渉し、シリアを安心して住めない国にしたのは誰なのか。
欧米の眼は、非欧米の人びとをしっかりと見ていない、見ようともしない。今までもずっと見てこなかった。
そこに住む人びとと、同じ目線で見ようではないか。そうすることによって、はじめて解決の糸口が見えてくるのではないか。
空からの爆弾やミサイルは、何も解決しない。その他の武器や銃弾も、何も解決はしない。解決、それは人びとが非武装で、同じ大地に立ち、見つめ合うところから生まれるはずだ。
何処に生まれたか、いかなる宗教を持つかなんてどうでもよい、皮膚の色が何色であろうとも、ことばが違おうとも、誰だって「誰かを愛し」「人生を愛する」のだ。