浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

大学の様相

2015-11-24 17:26:30 | 日記
 『現代思想』の今月号の特集は「大学の終焉」である。この号を購入しようかどうしようかと迷ったが、結局購入した。町田の住人からは、今月号はどうだろうか、読むべきだろうかと尋ねられ、その時には購入してない旨を伝えた。しかし今、読む必要はないかも知れませんと答える。

 すでに大学は、国家や資本の隷属下に置かれている。今月号は、文科省の教育系や人文系の学部学科を淘汰しようという動きのなかで企画されたものだ。この問題を真面目に取り組んでいる文や対談はある。しかし読んでいても展望はない。いずれの分野でも同様の事態が起きていることを確認するだけである。文科省が資本の要求を受けて、あるいは忖度して行おうとしてることに対して、大学関係者はこれに対抗できるのかと問えば、それは無理だと答えるだろう。学校教育法が改悪されても、そして大学の自治が根本から粉砕されようとしても、いま大学のキャンパスには、教員らの闘う姿勢はどこにも視られない。

 正当にこの問題を取り扱っているのは、鵜飼哲・島薗進の対談、池内了・石原俊の論文である。この人たちの研究成果は時に参照させていただいている、立派な研究者である。そこでいわれていることはその通りだと思うが、しかし先述したように、正しいことを正しいと主張し実現する物質的なあるいは人的な動力源がない。

 藤原辰史の「見知らぬ人との人文学」、これは肩肘張らずの優しい文であるが、これがなんとまあ素敵な内容だ。藤原は「自由と平和のための京大有志の会」の主要メンバーだ。農業史を専攻しているようだ。藤原は、有志の会が作成したあの「声明書」の草稿を書いたそうで、なるほどと思った。難しくもなく、格調高い、真実をついたあの声明を書くような人だからこそ、こういう文が書けるのかと思った。

 藤原は、「「見知らぬ人」の声に冷静に耳を傾け、耳で咀嚼する聴力を鍛えることが、人文学を志す人間の毎日の務めである」という。人文学の未来は、なるほどこういうところにあるのだと、自然に納得してしまう。勿論藤原は、そうした例をいくつか書き込んでいるのだが・・・

 ネットで検索してみたところ、なかなか面白い研究をしている人であることを発見した。この人を発見しただけでも、『現代思想』を買った価値があると思った。

http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~fujihara/


 上野俊哉、吉見俊哉の文は、ひねりが利きすぎて、キャッチャーミットに入っていない。それにバッターである読み手も、そのボールがよく見えない。

 まだ全部を読んでいるわけではないが、良い文があったらまた紹介しよう。
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破壊・開発における「資本」

2015-11-24 12:32:53 | 政治
 近所で、民家が破壊されている。こうしている間にも、破壊される音とともに、ときに地が揺れることもある。破壊された家の後には、新しい家が建てられるという。

 家新築のための破壊である。

 
 今、シリアへの空爆が、フランスやロシア、アメリカなどによって行われている。人びとの日常生活がおくられていた街並みが、いとも簡単に破壊され、瓦礫と化している。もちろん、その空襲の現場には、人びとが今も住み、日常を生きているのだろうが、その姿は見えない。破壊と同時に、そうした人びとも殺戮されているのだろう。

 なんという人道に悖る行動かと怒りを持つのだが、その背景にある「資本の論理」を想像すると、その破壊にも「経済合理性」があることに気付く。

 破壊する行為のなかで、軍需産業はおそらく大いに儲けているだろう。ミサイルにしても爆弾にしても、軍需産業は需要に応じて生産に励んでいるに違いない。

 そしていずれかの時期には、戦闘は終わる。そこに人が住まなければ、建物が破壊され尽くしてしまえば、空襲は無用になる。

 そこででてくるのが、「復興」である。瓦礫を片付けて、そして再び人びとが住むことができるような街並みをつくる。人びとが日常を生きるためには、破壊された水道、電気供給システム、道路などのインフラを整備していかなければならない。

 軍需産業は、戦争のための兵器だけではなく、こうしたシステムの販売にも進出を図っているという。

 破壊で儲けて、復興で儲けて・・・・・まさに最大原利潤追求の「資本の論理」は、ここに貫かれているのだ。現在の「資本」には、道徳もなにもない。それは今の経済社会状況をみれば明らかではないか。

 トリクルダウンなどという虚構のメッセージが流されるなか、富裕者はより富裕となり、大企業は内部留保をしこたま貯め込み。労働力は低賃金の「非正規労働者」を利用し、庶民の生活の改善にはいっさい関わらない。

 「資本の論理」は、規制撤廃により、自由に世界中で儲けまくる。その最悪な集団が「死の商人」として忌み嫌われる軍需産業である。

 
 わが日本も、軍需産業を育て、兵器を輸出し、その兵器で破壊された後の復興で、日本の様々なインフラ、システムを輸出してカネ儲けにいそしもうとしている。

 「資本の論理」は、今や「錦の御旗」だ。これが掲げられると、資本の前には舗装された道が準備され、その道の、資本を邪魔すると思われるものはきれいに取りのぞかれる。人びとは、周辺にひれ伏して、資本に頭を垂れる。中央や地方の行政も、教育も、何でもかんでも、資本に役立つように改変させられる。

 そういう社会が、今目の前にある。この「資本」を、「資本の論理」を克服することはできないのか。これらは、庶民の幸せを奪い、庶民の生活を貧困化し、社会の安定をなくす。

 庶民は、それほどまでに無力なのか。

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