児童虐待のニュースには、心が痛む。『東京新聞』は社説でこの問題をとりあげ、昨日も「児童虐待 社会を根元から変える」を書いている。
私は、ある時期に親の子どもに対する価値観が変わったのではないかと思う。いわゆるキラキラネームが話題になった頃である。私の血縁者は、埼玉県で中学校の教員をしていたが、生徒の名前に、「黄熊」と書いて「ぷー」と読ませたり、「茶目夫」、「茶目子」と名づけたりしている例を聞いていた。信じられなかった。
私が自分の子どもの名前をつけるときに留意したことは、まず漢字の意味を生かすことであった。つまりどういう人間に育っていって欲しいかを名前に込めることである。次ぎに、字画が多すぎないこと、子どもが書きやすい字であることであった。そして読み方はふつう、であることだった。
そこにあるのは、子ども(の成長)に対する期待であり、一人の人格を持った者としての尊重であった。
しかしキラキラネームは、漢字の意味を考えない、突飛な読み方をする。まったく親の趣味的な関心によるもので、子どもを一人の人格を持つ人間として考えない、親の所有物であるかのような名づけ方であると思った。
児童虐待は、その延長線上にあるのではないか。
私は、ある時期に親の子どもに対する価値観が変わったのではないかと思う。いわゆるキラキラネームが話題になった頃である。私の血縁者は、埼玉県で中学校の教員をしていたが、生徒の名前に、「黄熊」と書いて「ぷー」と読ませたり、「茶目夫」、「茶目子」と名づけたりしている例を聞いていた。信じられなかった。
私が自分の子どもの名前をつけるときに留意したことは、まず漢字の意味を生かすことであった。つまりどういう人間に育っていって欲しいかを名前に込めることである。次ぎに、字画が多すぎないこと、子どもが書きやすい字であることであった。そして読み方はふつう、であることだった。
そこにあるのは、子ども(の成長)に対する期待であり、一人の人格を持った者としての尊重であった。
しかしキラキラネームは、漢字の意味を考えない、突飛な読み方をする。まったく親の趣味的な関心によるもので、子どもを一人の人格を持つ人間として考えない、親の所有物であるかのような名づけ方であると思った。
児童虐待は、その延長線上にあるのではないか。