江戸期、神仏習合時代の厳島神社には厳島絵図(下画像)をみると2ケ所の鐘楼があったようである。上画像の本殿脇には大内義隆が寄進した梵鐘が架けられていたようで、社役鐘、大鐘、社大鐘、志ゆろうなどと呼ばれていたようである。また中画像の宝蔵の後山にも鐘楼があり社役鐘、時ノ鐘などと呼ばれていたようである。
江戸期、神仏習合時代の厳島神社には厳島絵図(下画像)をみると2ケ所の鐘楼があったようである。上画像の本殿脇には大内義隆が寄進した梵鐘が架けられていたようで、社役鐘、大鐘、社大鐘、志ゆろうなどと呼ばれていたようである。また中画像の宝蔵の後山にも鐘楼があり社役鐘、時ノ鐘などと呼ばれていたようである。